Episode 2 - III / 月光と私
「ふうさっぱりした」
ジェスターがシャワーを浴びて戻ってきた。
タオルでわさわさとした髪を拭きながら、キッチンへ行った。
「あー、風呂どうだった」
「気持ちよかったよ」
「そりゃよかった。俺使ってないから、家にいる間は好きに使っていい」
「ありがとう。……あんなことしちゃってごめんなさい」
「そんな謝らなくても」
「でも、悪いことは悪いことだよ」
「はは、ほんと素直だな」
体はまたこわばっている。
寒さや怖さが渦巻いて、それが指先にまで届いている。
二の腕から肩にかけて自分を撫でる。
「ジェスター、私のこと、怖くない?」
「なんでそんなこと聞く?」
「だって私あんなこと……」
「ああいうの見ると、ほっとけないんだ。まぁ、別のお茶でも飲んでみるか?もうちょっと甘めで香りが強めなのとか、いろんなのがある。来てごらん」
手招きを見て、瓶が並んだ棚の前へ向かう。
いろんな香りが混ざって、どこか不協和音のようにも思えるほどの、言葉に表し難い淀み。虫とか木とか、一見同じように見えてしまうものに違いを見出すのは、苦手かもしれない。いろんな種類があるのは分かるけれど、見分けがつかない。
「さ、選んでいいぞ」
どこを見て違いを見つけるのだろう。
色?香り?ラベルには名前が殴り書きされているけれど、選ぶって難しい。
「ごめん、私、お茶とかよく分からないかも……。さっき飲んだのは、美味しかった。でもこの中からってなると……ありすぎて」
「自分を見つける一番の近道は、自分の好きを探すことだ。ほら」
彼にそう促され、ひとつひとつ瓶の蓋を開けては香りを確かめた。
華々しい香りや、絶対に苦い味がしそうな香り、鼻が曲がりそうになるほどに強烈な、もはや悪臭とまで言えるものまで。
ジェスターも一緒になって笑ってくれる。ただ選ぶだけなのに、高揚感がある。彼のさっきの言葉が、強く胸に刻まれている。
「うーん、これ、これ好きかも」
「なんだこれ、どこで買ったっけ?覚えてねーや。ま、これにするか」
最初に飲んだものよりも控えめな香りで、それでも奥深さがある。ジェスターは香りが強くて色の濃いものを好んでいた。私が選んだのは透明感のある色をしている。
お茶を選ぶだけだったのに、お風呂に入った時の、背中が軽くなったような気分になった。横で紅茶を入れてくれているジェスターを見て、自分の瞳が色を欲しているのを感じる。
「うーん、味見したけど、結構クセ強めだな、これ。ほんとに好きかな?」
試しに一口。
苦い。
想像の数倍苦い。
あの香りが口の中に入った途端、顔色を変えて暴れている。
嘘みたいに舌が縮こまる。声が漏れ出るほど鋭い味だ。
「うぇ、なんか、すごい……」
「あはは、苦いの弱いのか?確かに、これちょっと強いな」
「うう……」
「あっはっは、顔が歪んでるぞ。俺もこれそんな好きじゃない。あんな端っこに置いてたのはそういうことかもな」
もったいなく思って、勇気を出して全部飲み干す。
口が嫌がっているけれど、何とか喉に通す。
強烈に目が覚める。
「うあ、私、やっぱり……自分で選ぶとヤバいかも」
「おいおい、無理して飲むなよ」
「もったいなくて」
「あぁ、あはは。まあ、お茶なんてな、とびっきり美味いの見つけるほうが難しいんだ。なんだって言えることだろうけど、回数重ねてやっと見つけたときは、うれしいものだよ」
このとびきり苦いお茶の味は二度と忘れない。
「ふん、そうだ、髪が暴れてるからこれ使え」
ビー玉みたいな小さな球体。ほんのりと温かい。
「なにこれ。ベルジくんも持ってた」
「ギュって」
彼の手振りを真似してみる。人差し指と親指でつまんで、力を集中させて押し込んだ。思っていたよりも硬くて、なかなか潰れない。
「ははは、もっと力入れな?」
「む、むり……かたすぎ、これ……」
「じゃあ、手のひらに置いて、パチンって」
両手で勢いをつけて、球を挟むようにして潰す。
火花がパチパチと控えめに起きて、風が顔の周りをぐるぐると巡った。重たかった髪がふわふわになっていく。
「すごい、サラサラ。なにこれ」
「便利だろ?最近流行ってるんだ。どういう仕組みか知らんが。そうだ、腹減ってないか?あはは、さっきから口に入れるもんばっかだな……」
「えへへ、今はいいかな、ありがとう」
彼はどこか慌てている。次から次へと、私を元気づけようとしてくれてるんだということに、とっくに気づいている。
「ふん、そうか。じゃあ、寝る部屋があるんだ。まあここにいる間は好きに使って欲しいんだけど。案内する」
二階にはトイレを含めて四つほど部屋がある。
しかしどの部屋も、ドアの隙間から見える印象としては、長らく使われていないか、物置のどちらか。廊下も何も飾られていたりしない。埃はあまり無い。
「使ってないの?二階」
「え?あ、ああ、まあ」
「ジェスターの、えっと、奥さんとか?」
「ああ、都行ったまんまだ。忙しくてな、二人。まそんなことだから、二階はお前にやる!」
「えぇ!?」
「二人のもんが残ってたりするけど、使ってくれ。あいつら、必要なもの以外は置いてったからな」
「う、うん。ありがたく……」
ひとつは空き部屋。もう二つは彼の家族の部屋。そしてあとひとつは物置のようだ。特に物置は、窓から入ってくる月の光のカーテンで、雪のようにひらひらと埃が舞っている。扉から覗く中を見ながら、指でこめかみをかく。
「これ押せば電気が点くからな。じゃあ、おやすみ。アヴァ」
二階で一番広めの部屋で寝させてもらうことにした。
大きな窓。丁寧に手入れされた鉢。銀色の月の光で、ほどよい明るさ。暗くはないけれど、冷たい色。
年季の入ったワードローブやキャビネット、机、ドレッサー。ドアから覗くジェスターの影と廊下の電気が、暖炉の火のように映る。
部屋の真ん中。ふわふわの毛布。大きなベッド。寝るには完璧だった。
それでも、何かが布団の中に入らないような。
ドアが空気に押されて、閉まりそうなのが見えた。
頭が前に飛び出して、体がドアの方へ吸い寄せられていく。
毛布を投げ捨てるように払いのける。糸でくっつけられて引っ張られる勢いで。
「待って……!」
一階に降りようとしていた彼に、私は後ろから力いっぱい抱きついていた。
グッと力が入る。彼は黙ったまま私の手をおさえた。
「おっと」「行かないで……」「……どこにもいかないよ。ほら。大丈夫だ」「下で寝させて」
彼の服にうずくまって、ごもごもとした声で言う。
「わかった。慣れてからでいい」
頭では分かっていても、体がいうことを聞かない。ごめんなさい、ジェスター。顔だけがすごく熱い。
「足元気をつけろよ」
階段を降りていく。ギシギシと音を立てながら、あの落ち着く部屋へ向かった。
「あのソファー、背もたれを倒せる。あれを使いな」
暖炉の前はお風呂のように温まっていた。控えめな圧迫感がある。ペンギンたちがお互いに寄り添って寒さを凌いでいるような。
前に動かしたり左右に揺らしたり、試行錯誤してようやく背もたれが駆動して、ベッドみたいになった。
「こんぐらいでいいか?」
ジェスターが毛布を持ってきた。木や葉っぱ、花の模様が刺繍してある。この家特有の匂いが強い。ハーブか何かのフレグランス。鼻に強く残る。いい匂い。
「ジェスター」「ん?」
彼は暖炉の前にマットを敷いて横になった。
「何か……お話して?」「話?」「うん」「何が聞きたい?」「なんでもいい」「困っちゃうなそりゃ。じゃあ、お前にそっくりの女の子がいたって話、聞きたいか?」「うそ、ほんと?」「ああ。子供の時に会った。ずいぶん昔だけど。二十年か三十年前?爺さんの葬式の後。名前とかは――聞けなかった。あれからも会えてない。一緒に遊んだりした。俺の話をめちゃめちゃ聞いてくれたけど、その子は自分のことをぜんぜん話してくれなかったんだよ」
背中を向けて、オレンジ色の輪郭を見せているジェスター。彼は振り返って、体の向きを変えた。横になった私の顔を見ながら、続ける。
「ほんとにそっくりなんだよアヴァ。あの時、恥ずかしがり屋で、ぜんぜんお返しとかできなかった。はは、かっこ悪いよな?」
「ううん。今のジェスターぜんぜんそんなことない」
「……そういうところ。そういうところだよ。ははは。今何やってるんだかな」
「そんな子に似てるなんて。うれしい」
ジェスターは背中を下げて、マットに寝転がった。両腕で枕を作る。暖炉の火花の音が大きくなった。
「記憶が無いって、どんな感じなんだ?」
彼が天井を見ながら言った。
「ジェスターみたいに、話せないよ。言われるまで、言葉が出てこないの」
「不思議だな」
「昔のこと話せるの、羨ましい。私ね、ずっと怖いの。何を知ってて何を知らないのか自分でも……。言われるまで、わからない」
「……一度、全部忘れて人生やり直したいとか、同僚がよく口ずさむんだけど、そう上手くいきそうも無いな」
「なんじゃそりゃ……」
「贅沢な悩みだろ?ははは」
私は自分の両手を絡ませて目を細めると、彼は続けた。
「不味い紅茶だけ忘れたら、美味い紅茶の美味しさって気づけるのかって、いつも考えるんだ」
「えー……?」
「全部忘れたいとか、人生やり直したいとか。大抵、嫌なことがあったり行き詰ってたり、こんなはずじゃなかったって後悔してる人が言うんだ。全部白紙に戻して、最初からって」
「そう……。あ、明日はいいの選ぶ!」
ジェスターは小さく笑いながら暖炉を指さして、スッと動かした。
火花の音がバチバチと大きく鳴ると、静かに煙が解けていくように消えた。
窓から入る白い月の光が、部屋を銀色にした。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ。ありがとうジェスター」
彼を見ながら小さくそう呟いた。
自分を見つける一番の近道は、自分の好きを探すこと……。あの言葉が目を閉じても聞こえてくる。
ゴロゴロと喉を鳴らすマルを気にしながら、息を深く吸って、吐いた。
また明日、新しい一歩を踏み出せますように。




