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ビヨンド オブリヴィオン / BEYOND OBLIVION  作者: 蓮田 希玲
BEYOND OBLIVION / CHAPTER 1

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Episode 2 - II / 鏡面の私

 ジェスターの背景に見えたのは、壁にかけられた写真。彼を挟むように、二人の女性が映っている。左には彼より少し背の低い、肩まで伸ばした金髪の綺麗な人。右には私と同じくらいの子が、とびっきりの笑顔でポーズをとっている。ジェスターはひまわりみたいに明るい表情。芝生の向こうには一階建ての家がうっすらと見える。木も生い茂っていて、透けた黄緑の葉が点描のようだ。

「ああ、気になるか?俺の家族だ。あの二人は今、都に行ってる。……あっちで色々頑張ってる」

「みやこ?」

 ジェスターは写真の二人に目を合わせながら言った。

「まあ、また今度見せてやる。海沿いに行けば見える。いい眺めだ。お城はいつ見ても、びっくりするよ」

「楽しみ」

 海の心地良さは、言われてみると知っている気がする。さざなみの音が浮かぶ。

 洗面所にいた錆び猫が静かに歩いてきた。こっちを向いて鳴く。

「風呂が沸いたようだな。そいつ、すげえだろ?」

「教えてくれるの?偉いね~」

 しゃがみこんで撫でてみた。スっとしてしなやかな毛並みに長いしっぽ。首の裏側が好きみたいだ。目を瞑ってゴロゴロと喉を鳴らしながら首筋を伸ばしている。撫で続けているとしっぽを上に立てた。

「名前は?」「あー、つけてない」「……えぇ?かわいそう」「いつの間にかここに住み込んでるんだ……」「私みたいね」

 相変わらず奇妙なことばっかりの家、ここにいるのもやっぱり落ち着かない気もしつつ、「さっきまんまるになってたから、マルちゃん、どう?」と咄嗟に思いついて言ってみた。

「あ、安直な……まあいいさ。名前のありがたみは、お前の方が知ってるかもな」

 私の目を見て、にゃーと鳴いてくれる。

「いつからいるの?」

「二、三年前か……?」

「え、なんて呼んでたの?」

「猫。……二階から着替え取ってくる。妻のか娘のか、もう長く着てないのが結構置いてあるから」

「あ、ありがとう」


 ジェスターが持ってきてくれた湯浴みに着替え、風呂場のドアを開けると、大広間みたいに音が響いて驚いた。床は冷たい石でできていて、足裏がキンとする。それでもお腹から上は湯気で温められて、変な感じだ。

 ツヤのある木製の湯船に、暖かいお湯が海みたいに溜まっていた。体を数回流して、ゆっくり慎重に入ってみる。足先がびっくりして声が出そうになりながらも、誰かの眠りを妨げないような感じで、自分の体を沈めていく。少し熱い。でも、痛い熱さじゃない。まるでお湯が生きているみたいに撫でてくる。

 なんとも言えない心地良さから、ふぅ、と一息つく。じんとくる熱が筋肉痛か、こわばったところをほぐしてくれるような感じがする。さらさらとしたお湯のおかげか、肌にもツヤが出ている。すこし花の香りも漂っている。力を抜いて頭を縁に任せて天井を見ると、白い湯気が雲のようになっていた。

「湯加減はどうだー」

 扉の奥から張った声が聞こえた。

「ちょうどいいー」「そりゃよかった」

 自分の手、足、体。お湯の揺れに答えるように、温かい波を感じる。自分で動かしてるんだ、と思う。両手ですくって顔にかけると、ほんの一瞬の温もりのあとにじわじわと冷えていく。こんなにお湯に浸かっているのにも関わらず、寒く感じて首も沈めた。擦りむいた膝は、浸した時にはチクリと痛んだが、次第にそれも誤魔化されていく。

 本当はみんな、明日何しようとか、昨日どこどこ行ったね、楽しかったね、と思いを馳せるのだろうけど。

 じっと、お湯の表面にできた分裂する泡を見ながら、口でぶくぶくと泡をさらに作る。

 教えてもらった通り、瓶の蓋をそっと開ける。中から淡い花の香りが広がって、湯気の中に溶けていった。手のひらに落とした透明な液体を、指の腹でゆっくりと髪に馴染ませると、それが泡立っていく。ぬるりとした感触が、頭の奥まで染み込んでいく。

 鏡に映っている自分の顔かもしれないものを見ながら、シャワーを使って流す。

 これが自分、これが自分、と言い聞かせる。思っていたより自分の髪は長い。結んでいたから気がつかなかった。

 苔をこそげ落としたみたいにさっぱりとした。全身の水分を拭き取って、ちょっとした寒さを感じつつ、オーバーサイズな無地の服を着る。風呂場から出て、タオルで顔をしっかり拭く。

 私。

 私と目が合う。

 洗面台の鏡。本当に自分の顔なんだ。

 目を瞑る瞬間に、まぶたが同時に降りるのが見える。猫みたいな目。

 水たまりで見たのと同じ。口に手を当てる。

 鏡に映る彼女も、唇に指を滑らせる。

 髪をよけるのも真似してくる。

 何から何まで、全部真似。

「ねえ、どこから来たの?」

 鏡に向かって話しかけてしまう。

 ここが嫌なわけじゃない。ああ、全く洗い流せていない。全部流してしまいたい。

 目尻から何かが滑り落ちて、洗面台に滴る音がした。

 目を開けてから、周りの音が聞こえなくなった。耳鳴りかもしれない。分からない。

 涙が落ちたところに、黒があった。

 一輪の蓮のような花。

 息が苦しくなる。おかしい。分からない。自分の目が勝手に閉じていく。瞼ではなく、頬が。

 喉と指先の震えが襲う――

 鏡に向かってそれを放ってしまったんだろう。凄まじい轟音で、洗面所が瞬時に氷の部屋になってしまった。

 寒い。

 せっかくお風呂用意してくれたのに。ガラスの破片が飛び散っている。

 映っていた自分の顔が分裂している。

 私は小さくなって頭を覆い隠す。たくさんの私が泣いている。

「アヴァ!?アヴァ!」

 ドアは氷で固められてしまっていた。

 向こうでジェスターが私の名前を呼びながら、激しく叩いている。ひび割れていくのは分かるが、ビクともしていない。

 部屋はだんだん冷たくなっていく。結晶が生気を吸い取るように見えた。

 白い息。詰まりそう。

 誰かここから出して――

 ドアから小さな熱を感じた。氷が水みたいに弾けて塵になる。

 何度も何度も蹴られ、ついにこじ開けられた。

 ジェスターはすぐに私を見た。こんな有様、こんなことをしてしまった私を見て欲しくなかった。怒られるのではないかと思った。そんなことはなかった。

「ああぁ、アヴァお前ってやつは……!」

 ジェスター震えた声で言いながら、駆けつけて私を抱きしめた。

 頭に手を当てて撫でてくれた。彼の顔が見れない。彼の手が震えている。寒さからじゃないと思う。背中をさすってくれる。汚れを落とすようにそっと。毛布もかけてくれた。

 鼻のあたりが痙攣している。

「私なんでこうなっちゃうんだろ……」

「いいか、落ち着くんだ。深呼吸だ。何も、考えるな」

 マルが氷に空いた穴からのぞく廊下から、頭を傾けてこっちを見ていた。

 ジェスターはゆっくりと背中をさすり続けた。

 だんだんと、息が整ってきた。

 辺りを見る。

 洗面台には尖った氷が突き刺さっているように見えた。部屋全体が青い膜で覆われている。ひっきりなしにヒビの入る音が、カタカタとあちこちから聞こえてくる。

「ごめんなさい……」

 息を吸ってなんとか口に出す。

「いいんだ。頑張ったな」

「私やっぱり、ひとりが怖いの」

 彼の息が詰まった。

 どこかを見ている。口を開けて――

 背中に置いた手に力が入っている。

「……ちょっと、ジェスター?」

「これは……キッツいな……ははは……」

「聞こえる?」

「痛いほどな、よしよし落ち着け」

 ジェスターの手の温もりが増していく。

 いつしか部屋全体、元通りになっていた。壊れたものは戻らなかった。

 鏡は粉々、洗面台はぐちゃぐちゃ。

 ランプも目を覚ましたように点滅しながら細々とした光を灯した。

「変な……変な花」

 私の涙から現れた、黒く染まった蓮の花。

 濃い青の光を仄かに放っている。

 ジェスターは二度見をした。顎が外れたように口を開けている。

「とりあえずリビングに戻ろうか。体も冷える」

「ほんと……ごめんなさい」

 じっと見ていると、涙から咲いた花はだんだん砂のように粉々になって、形を無くしていった。

 あの氷が出た瞬間、出た後、聞こえた人の声。それは絶対に泣いている。


 リビングは目を休ませてくれる色で満たされていた。温かい。ふわふわの毛布がより優しく包んでくれる。

「ふぅ。派手にやったな。まあ、仕方ない」

「私あんなことしたのに。怒らないの?」

「まあ、仕方ないからな」

 ジェスターは手を前に出して、空気をそっと掴むような合図をした。

 するとマッチ棒の火がつくように、煌びやかな光の粉を出しながら淡く光る赤い花が現れた。

「それ……!綺麗……」

「俺のだ。人を象徴する花なんだ」

 グッと服の袖を掴んだまま、必死に彼の言っていることを飲み込もうとする。

「あの氷……なんなの?よくないこととか、いろいろ浮かんでくるの。嫌になるくらい」

「あれは魔法だよアヴァ。お前の」

「……魔法?」

「自分の魔法に負けるとさっきみたいになるんだ。余計なこと考えなかったか?」

「顔、はじめて見たから、なんだか、怖くなって……」

「そうか……。でも、お前はちゃんとお前だ」

「……鏡に写ってたのは、本当に私?」

「どうして?」

 彼は良い人だ。でも、なぜ私がそう思えているのかが分からない。頭ではわかっていても、体がついていかない。口が無意識に、私を彼から遠ざけようとする。

「ジェスターは、ほんとに私の事、知らない……?知っててこんなことしてる?だったらどうして私のこと素直に……!」

「落ち着け」

「落ち着いてる……。ごめんなさい」

 自分ではそのつもりだった。頬が麻痺でもしていたのかもしれない。色のついた氷の粒が床に落ちている。

「お前がどんなふうに、ここを見てるか分からない。でも俺もベルジも、ちゃんとお前のこと、見てたし、一緒に歩いた。車にも乗った。紅茶も飲んだ。お風呂にも入った。俺は、俺の家は、お前の妄想か?ベルジも、マルも?」

「いや……」

「そうだろう?全部を疑いたくなるかもしれないが、キリがない」

「じゃあ、どうすればいい……?」

「明日、病院に行こう。いろいろ体のこととか、精神面のことも診てもらえる。俺もそこまで花に詳しいわけじゃない。記憶喪失と関係してるか、知りたくないか?」

 私は首の筋から空気を抜くように、かくりと頷いた。

 自分の目を取り除きたい。

 息をひとつ、ふたつつく。

 すると自分になにかが憑依したように、全身が部屋の温もりを集め始めた。

 肌寒かった。服の感触までもが、鮮烈に蘇る。

 こんなにさらさらしていたんだと気づく。


 お腹が妙に気持ち悪くなってきた。

 波みたいにゆらゆらして、膨らむようなこの感覚は知っている。

 彼に言い出したいものだけれど、言っていいものか分からない。

 マルの餌を持ったジェスターの目をじっと見続ける。

 しゃがみこんでマルの頭をわしわしと撫でている。

 可愛い、と思いながらも頬が上がってくる。

 つま先を立てて、控えめに床をコツコツと突いてみると、こっちを見てくれた。

「……なん、なんだ、そんなひきつった顔して」

 私は口を閉じたまま、目と手足だけを動かした。

 時間まで膨らんでいるように感じる。

 ジェスター、察して。

 服の腰のあたりをグッと握って揺さぶると、彼の瞬きから音が鳴ったように見えた。

「ん?トイレ?」

 ジェスターが顎をかきながら私をじっと見て、何秒か経ってそうつぶやいた。

 私は声にならない声で、うん、とうなずいた。

「あーっと、二階の使いな」

「二階?二階、どこ……」

「こっちこっち」

 私がうなずいた途端に、彼は私の背の高さに合わせるように腰を曲げながら、指で招く。

 歩幅を小さくして、小走りで彼についていった。

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