Episode 1 - III / 街灯と私
ずっと曇ったまま。雲の隙間から見えていた青は、夕陽の色と混じっている。服のせいで、ぬるま湯に浸っているようだ。
ジェスターとベルジは、そろって顔を固めたまま、見渡しながら歩いている。私は彼らの後ろにくっつくようにしていた。
広々とした街路。かつては賑わっていたのが目に見えて分かる。街路樹も痛々しく折れ曲がったままだ。
人が立っている光景が目に浮かぶ。あのお店はきっと盛況だっただろう。何も置かれていないが、道にはみ出ている商品棚は圧巻である。
並んでいる建物はどれも色が落ちている。吊り下げ看板や旗が、誰かが来るのを待っている。こっちへ手を振るように揺れ動いている。
「あの……」
声をかけると、二人がこっちを見た。息が詰まった。
「……ここは、どこ……?」
ジェスターが戸惑いを見せ、ベルジの方を向いてから、私の方へ振り返る。
「四区だ」
「よんく?」
「そうだ、ネーベの第四区」
ベルジが腰につけた銃に手を添え、首を動かしている。
「五年ほど前に事故があった。なあベルジ」「ま、まあ。魔法の、っすね……。覚えて、ないか」
「う、うん……。ほんとなの、ほんと」
「嘘だとは思ってない」
ひとつひとつの単語をゆっくり考えても、やっぱり何も分からない。
そう、街路樹だと思って眺めていたのが、コンパスで描かれた幾何学模様を重ねたようなクラゲだったということに気づいても。
「クラゲ……」
二人が一緒に息を詰まらせ、振り返る。
私は足を止めて、あの何重もの光る円が織りなす模様に釘付けになっていた。
本当に今、目を覚ましているのか分からなくなっていく。
「アヴァ!逃げるぞ、あいつもまずい」
「あ…………」
「――今日はずいぶんと……機嫌が悪いな」
歯を擦るような音。周りを取り囲んでいる。
重なっているのは模様だけではない。妖艶な女性のクワイアを思わせる声。
耳を塞ぎたくなる不協和に、空っぽの頭の中が埋められる。何かを考える気さえも失せてくる。
「おい、アヴァが危ない」「……気持ちわりいな……!」
火の玉が、コウモリみたいに集まったクラゲを横から次々と焼いていく。
川の流れのような動きは、火であぶられ稲妻になる。発する声も金属を激しく引っ掻くような音に変わった。
「カッとなるな。よしアヴァ、今のうちに。ちょっと走ろう。――――アヴァ。夢じゃないぞ、起きろ」
目を開けているのに寝ているようだった。彼が背中を叩いてくれなければダメだったかもしれない。
* * *
息を切らすほどに走って逃げた。これほど走ったにも関わらず、街の様子は一向に変わらない。
「もうすぐだ。もうちょっと我慢だ」
手が冷えた。内側から凍っていく手触り。藍色で光を通さない氷。怪物に向かって手を伸ばした時、まるで手袋を誰かに取られるようだった。それから、耳を傾けずとも聞こえてくる泣き声や叫び声に、頭を全方向から押しつぶされた。
「また、また氷……!」
もう、これと怪物の見分けがつかなくなっている。
痛くて袖で包んでいた手を、ジェスターに見せる。指先からは小さなつららがいくつもできていた。何も考えず、ただ彼に耳を澄ませることにした。
「お前……ちゃんと教わってないな?」
「これ、何……?」
「魔法だ」
「頭とか、ここ、グッて掴まれて、誰かが見えたり、ドンドンドンって、こう、叩いてくる感じ、するの」
自分の頭と胸を片手で叩いたりして訴えた。
「そうか……。ちょっと休んだほうがいいな。家は?車で送ろう」
「……覚えてないの」
二人は顔を引きながら苦笑い。私も自分に対してそんな気持ちだった。
「参ったな……。じゃあ一旦、俺の家まで行こう。そんでまた、そこでじっくり考えよう。もうすぐここも出られる。もうちょっとだ」
「化け物はな、どういうわけか、弱った人が大好物なんだ。だからあんまり、怖がるなよ」
「気持ち悪かった」
「ああ、寒気がするよな。えーと、確か名前があった……レー……レディア?なんたらっていう」「レディオラリアですよ」「ああそう。変な名前だろ?」
「レ、レリオラリラ……」
うまく言えなかった。
「名前くらい習います」「覚える必要ない、化け物で通じる」「はあ」
足が少し痛くなってきた頃、大きな門の前に着いた。鉄で補強され、あの怪物も及ばぬ高さ。ここだけ、より手入れのされた石が積まれている。こんなにも巨大で目に残るのに、何も分からなかった。
「この、向こう側が第三区。門はもちろん開けない。ってか、これはハリボテだ。頭の切れる奴らがわんさか一気に来る。この検問所から行く」
門を挟むように建てられた検問所。年季の入った扉が、木の軋む音を鳴らして、物静かな空間を切った。
「ったく、ちゃんと掃除しろよ」「僕ら以外来ないから、まあ……」
暗い。誰も使っていないのか、カビ臭い。机や棚の引き出しは開けっ放し。紙も散らかって、もはや廃墟だ。壁紙は剥がれ、至る所で雨漏りしている。ジェスターが壁にある何かをカチカチと触ったが、何も起きなかった。
「つかねえ。うへー、ベルジ今度掃除頼む」「ヤですよこんな。喘息になったら……」
ジェスターが指を唐突に鳴らした。ベルジの火の玉みたいなものが、宙に浮いて、止まった。部屋の隅々まで、オレンジ色で照らされる。雑に積まれた本や、壊れた棚、椅子も顔を出し、鮮やかな影絵も作っている。
ギシギシと全体が音を立てる。三人合わせて足を止める。それでもカタカタと聞こえる。
ジェスターが私たちに目を配り、口元に人差し指を当てるのを見た。
彼は音を小さくして、銃を引き抜く。影のたまり場で、かすかに音が動く。
ベルジの方を向くと、彼は私を見ながら、指を立てて両耳を塞いでいる。口を動かしているのに何も聞こえない。声が出ていない。声にしてくれないと分からない。
撃った――
鼓膜を拳で殴りつけられる。内臓すべてが中で飛び跳ねている。瞬きもしばらくできない。震える胸を手のひらでおさえる。
「――アヴァ、大丈夫?」「ああ、すまん。でかい音出して」
「……レリオラリラ?」
二人が息を深く吐いた。
「……レディオラリア。大丈夫。いるのはここだけ」
ジェスターが手を伸ばすまで、自分が腰を抜かしていることも忘れていた。
一瞬だけ見えたのは、ありえない大きさのカナブンみたいだった。花が沢山くっついていた。翅の擦れる音か、ギチギチとした音が耳に残っている。
「あっちだ」
窓から焚き火のような光がふんわりと入っている。
ジェスターが扉を開けると、音が重なり、人の声が聞こえ、明かりの灯った街の光景が視界を焼く。建物は似ているが、違う服を着ているようだ。屋根にも綺麗な色がある。石畳に目立ったひび割れや穴もなく、ゴミも落ちていない。
「すごい……」
「あぁ、そうだったな……。大丈夫か?」
「大丈夫って?」
「まあ……うん、とっとと帰ってしまおう」
ジェスターは顔を振りながら言った。
「アヴァ、あれに乗るんだ」
彼らが指さした先には、黒くて光沢のある大きな……乗り物がある。
「これに?」
「車。車だぞ?これ忘れちゃあ……」
ベルジがからかうように言う。
「くるま……」
「はは、アヴァは助手席座りな」
ジェスターが苦笑いしながら、手で叩いて教えてくれた。
「じょしゅせき……」
「隣だ」
丸くて白い目みたいなもの。左右対称で、全体が丸みを帯びている、細長い。
二人の真似をしながら、扉を開けて乗ってみる。柔らかい。少し煙草の臭いがする。
「ジェスターさーん!」
聞き慣れない男の人の声が近づいてくる。ジェスターは窓を開けた。
「オールト!んだよどうした?」「どうしたって、なんで来なかったんですか!」「あれ、今日はベルジと四区巡回するっつってなかったか」「もう!何回目ですか!」「数えたこた無い。とにかく、俺らは帰る。疲れてるんだ」「来週は絶対ですよ!」
オールトと呼ばれた人が、顔を歪めたまま走り去っていく。
ジェスターをじっと見た。
「なんでもないさ。さあ帰ろう」
彼の右手が、腰のあたりにあった棒を掴んだ。ガガガガ、という音が鳴り、全体が振動し始めた。彼らは平気な顔をしている。私はどこを見ればいいのか分からなくなっていた。
ジェスターが足を動かすと、車は動き始めた。体が後ろに押される。
窓からは似た車が見える。色も形もみんな違う。
「ね、ベルジくん、車って……」
後ろの席に振り返ると、すやすやと寝ている彼がいた。首を窓に預けて、口を開けていた。
「寝てる」
「げ、おいおい……ったく」
「大丈夫」
「優しいな」
どれほど痛かったんだろうか、彼の役に立てなかった、足枷になっていたかもしれない。そんなことが頭の中で浮かんで、消えずに積まれていく。自分の腕を掴んで、足を閉じた。
「しょーがねえやつだ。……そうだ、いいもの聞かせてやろう。なんか思い出せるかも」
何やら機械を片手でいじっている。カチカチと押すのを見ていると、音楽が流れはじめた。その場で演奏しているように聞こえてくる。
これは……ジャズだ。ゆったりとしたテンポ、シャリシャリとした音。つま先立ちで弾むようなピアノ。いい曲。膝に置いた指が、心地よいリズムに嵌めるように動く。
――なにも思い出せはしない。けれど不思議と張りつめていたものがふわふわになっていくようだ。街の光の色と溶け合っている。見えるのはほとんど、家々だけではあるが、綺麗だ。メロディに合わせて、オレンジ色の流れ星みたいな線が上下する。
「どうだ?なんかピンときたか?」
ドラムソロが空気を埋めた後、ジェスターが口を開く。
「ピンと?」
「なにか思い出せたかってこと」
「ううん。そもそも思い出すっていうのが……」
「なんだそりゃ。まぁ、運は良かった。俺とベルジ、ちょうど見回りしてたんだ。たぶんベルジ、間違えてお前に向かって銃ぶっぱなしたろ?聞こえてきたぞ」
ジェスターが私を横目にくすくすと笑う。
「まあ許してやってくれ。コイツな、一回友達に化けたバケモンにコテンパンにされてんだ」
「え、そんな……嫌な感じ……」
「ベルジなりのやり方だったんだろうけど。怖かっただろ」
「怖かった」
「やり方を変えるよう俺から言っとくよ。お前みたいに迷子になった男の子もいたんだが、そいつとは未だに喧嘩中だ」
クラリネット。妙に親しみがある。掴めそうで掴めない感じが続く。自分の手を見ながら、顔の真ん中を縮ませる。手に力が入る。
溜息をして力を抜く。
電灯の光を見ると、大丈夫だよって声をかけてくれている気がしてくる。帰る場所なんて知らないのに、おかえりって言ってくれているようだ。




