Episode 7 - Interlude
アヴァが二階に上がってから三十分が過ぎた。あの子がこれほど長くひとりで上にいるのは初めてだろう。新しい布団も気に入ってくれたら嬉しい。何があったのかはよく分からないが、手のひらにケガを負っていることには気づいた。ベルジのハンカチで手当をしてあったから何も言わないでおいたが、俺は本当にこれでいいのだろうか。
俺は心配しすぎか、今のように心配し続けるべきか。心配しなくても大丈夫だろうか。記憶を無くした人なんてどう接したらいいのか。……よく考えなくても、見ず知らずの子供だ。彼女の家族は……いや、分からない。難しい。マリアナ、お前ならどうした。
眼鏡をよく拭きながら、スマホを片手にネーベでの出来事や通報履歴を眺めた。相変わらず四区に限らず、ちょこまかとレディオラリアは姿を見せてはいたずらを繰り返している。いくら片付けても湧き出てくるところは泥棒と変わらない。手が乾燥しているのか、俺が慣れていないのかは知らないが、反応が悪い。アヴァがそんなのと今日出くわしてなければいいと願うばかりだ。
底に溜まった砂糖水のようになって、いつの間にか冷めてしまった紅茶も口に入れ、コースターにカップを置くと、それが引き金になったかのようにスマホが振動した。一区保安のライアンのしわざだった。画面に映る名前と一緒にこいつが設定している写真は、相変わらずの金髪を浜辺で光らせた遊び人そのものだ。こちらに指を指して浮かべている満面の笑みが、どこか無性に良い意味でイラつきも覚える。
「――ああジェスター、夜遅くすまんな」
細くて根のある声が、虫の声の何倍にも大きく耳に突っ込んできた。
「ああ、いや、いいんだ。ちょうどアヴァも寝たところだ」
俺は眼鏡の下から手で目をこすった。目尻のほうが痛痒い。母指球を使って擦れば擦るほど、それが長引いた。
「――そう、そのアヴァって子のことなんだけど」
「ああ」
「――彼女の顔がよくわかる写真って持ってないか?海外用に捜査のなんたらこうたらで必要で。あと、僕もちょっと個人的に探してあげたいと思ってて。会ったことねえけど」
「あー、本人にちゃんとそれは確認取りたいな?それからでいいか」
スマホを机に、画面を下にして置くと、俺は腕をグッと上へ押し上げながら大あくびをした。肩に何かが詰まっているのも分かった。誰かマッサージでもしてくれないかと思う。
「――おーいいとも。……なんだ、疲れてるのか」
裏返したスマホからは、同僚としてではなく、友人としての声に切り替わった彼の声がした。
「まあな」
「――君のこと怖がらなかったか?」
「どうして」
「――毛むくじゃら」
「そんなことないだろ、俺よりもっとこう、熊なやついるだろ?」
「――はっはっはっは。ああ、そうかそうか。まあそうだね。思ったんだけど、そんなに、うちの子みたいにしちゃっていいのか?」
「そうだな。……そうだなあ、それは自分でも思ってるよ」
「――小耳に挟んだよ。僕の同僚がね。気持ち悪いって。心配しないで、ちゃんと注意しといた」
俺はそれを聞いて、ただ眉間を指でこすりながら、肘をついて鼻で笑った。
「そうか。でも、これくらいはやってあげたいんだ」
マルと名付けてくれていたか。マルが膝の上に飛び乗って来て、そのまま丸まった。首元をからしっぽにかけて撫でながら、俺は答えた。
「ほぼ全部、忘れてるんだ。家族も自分のことも、それに生活常識まですっぽ抜けてる。病院に行っても何も見えないだーって、どんな気持ちで過ごしてるやらだ。想像できるか?」
「――そりゃあ、ああ……」
「あの子は優しすぎる。なにかするたんびに深ーく深ーく考える。もじもじしてうじうじしての繰り返し。ひどいときは……こっちも頭抱えるほどなんだ」
「――そんなに。ふーん、ナタリーとそっくりだな」
「あー、今日はいつもよりもそれは無かったようには見えたけど。まあ、花があの子を苦しめてるのは確かだよ」
「――黒い花のことは僕からもいろんな人に聞いて回ってるけど、嘘だのデマだの言われて頭にくる。写真を取ろうにもその子に失礼だろ?だからなぁ」
「無理して首は突っ込まなくても大丈夫だ。あの子はちょっと複雑で……その、あんまりこう、探ってほしくないらしい。家族より今がいいみたいなんだ」
「――すげえ気使うのな」
「十分辛い思いはしてる。誰かが打ち消してやらないと」
あの子がなんの間違いもなしにさらっとカメラを使った時、驚きを隠せず何が起きているのかをじっと考え込んでしまった。その時でさえ、彼女は俺の目を覗き込んで、すぐさま話題をすり替えようとしてきていた。
それくらいに、本能的なほどに不安の種を恐れ、遠ざけようとしていることは、よく分かっている。何も思い出せない、自分が分からないというのは、一体どんな思いであろうか。過去をなかったことにしても、それを埋め合わせるように未知が牙を向く。彼女を見てそれを実感する。湯を沸かすポットの音を背景に、肘をついて指をこすり、どこを見ているのか分からない俺は、何分こうしていた?
「――なんだ、黙り込んで。切り忘れてないか?はは」
「ああ、すまん違うんだ。考え事、してただけだ。ああそうだ、知り合いにフィルムカメラを使える人はいないか?」
「――最近の趣味?」
「違う、アヴァが大昔のカメラを使ったんだよ。目の前で俺の写真を撮った。びっくりしすぎて何も言ってあげられなかったけど」
「――やばいね。てことは記憶は?」
「ちょっとずつは戻ってるんじゃないかとは……。今のところ以前のことは本人の口からは何も」
「――うーんそうか。じゃあ一応カメラが趣味の人探しておくよ、僕、これでも顔広いからすぐ見つかる」
「これでもって――一流の科学者だろ」
「――ははは、じゃ、も遅いからお前も寝ろよ、写真のことよろしく」
「あいわかった」
「――ちょっとジェスター、聞いて」
なにか取り上げるような音が聞こえたと思えば、ナタリーだ。甲高い声。せっかくもう寝る準備をしていたところだっていうのに。
「なんだそんな、怒ったような」
「――アヴァって子、いるんでしょ」
「ああ」
「――その子がいるからか知らないけど、一気にレディオラリアが増えてるわ……!」
「……あ?」
洗面所を氷漬けにした時から感づいていたが、本当にそうなっているとは思わなかった。アヴァが中心になって引き寄せられるように集まっているとは考えたくもないが、現実そうなっているなら受け入れるしかない。彼女の蓮の花ほど、化け物たちと共鳴しそうな色をしたものは見たことがないからだ。
「――とにかくその子も街も危ないの!引き渡すかなんとかして!」
「わかったから静かにしてくれ、遅い時間だ」
分かっている。そんなことは分かっている。そんな耳障りな声で何度も言わないでくれ。片足が落ち着かなくなってくる。だがここで俺までうるさく言えば彼女と同じだ。
「――落ち着いてられないよこっち」
「わかった。自分の口で伝えるから、待っててくれ」
「――いますぐよ」
「寝てるんだ、もう。あと、結論から言うと、引き渡せない」
「――どうして!?」
「アヴァは学園に行かせる。自分の魔法を上手く使えるようにするためだ」
「――あの悪趣味な魔法を!?」
「お前もアヴァ程じゃなかったがそうだっただろ。それに、良くないものが流れ込んでるのは俺がよく分かってる。でも独りにしちゃいけない」
「――独りにはしないわ。絶対にさせないから」
「彼女に必要なのは、分かち合いだ。なんて言った?悪趣味だ?アヴァは君らの所へいるべきじゃない」
「――じゃあどう責任取れるわけ!?その子がきっかけに増えていってるのは事実よ」
「もう一度勉強し直せ、魔法は内側じゃなくて外側から来るものなんだよ、台風の雲みたいにな」
気づかないうちに壁から自分の声が返ってきていた。鼻でため息をする。静かになる。
「……アヴァがやってきてから、化け物が増えているのは、俺も気づいてる。だからこそだ」
電話が切られた。ポットを見るとオレンジ色のランプが光っていた。喉を鳴らしている猫をどかすのは難しく、気持ちよさそうにベンチで座って寝ている老人を蹴散らして追い出したかのような、悪人になった気分がついてまわるものだが、一杯のために椅子を引いてキッチンへ向かう。
素足に厳しくなった茶色の毛むくじゃらのスリッパに飽き飽きしながら、瓶を見ていると、ルネ産のひとつが残り一杯分になっていた。口角を上げずにはいられなかった。ああ、さっきは少し言い過ぎたかもしれない。明日が面倒になってきた。十数年も年下を相手にするのは、何かと難しいものだと溜息をつきつつ、椅子に座る。
あの子はもう寝たよ、と妻と娘の写真に目で話しかけた。砂糖を入れ忘れていたことに今更気がつく。足はまた向こうに行くのを嫌がった。アヴァの座っていた椅子は、すぐにでも戻ってきそうなくらいに机との間を作っている。舌を歯の裏に滑らせながら、火の消えた暖炉と締め切ったカーテンで薄暗くなった部屋をじっと眺めた。一秒を一秒に感じさせる秒針の音は、真夜中に一人歩いているときの足音のようにか細く、何より自分を感じるものであった。




