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ビヨンド オブリヴィオン / BEYOND OBLIVION  作者: 蓮田 希玲
BEYOND OBLIVION / CHAPTER 2

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Episode 7 - II / 彩り

「おは――髪、すごいことになってるぞ。鏡見てみろ?はは」

 足の裏を冷たいフローリングが張り付いて、リビングの絨毯を勝手に探す私。

 ジェスターの顔を見ると気になって仕方なくなって、カラカラになった喉で「うーん」と言いながら、洗面所の鏡の前に、ふらっと立ってみる。


 彼の言う通り、すごいことになっている。

 軽く水を手に乗せ、くしゃくしゃになった髪の毛を馴染ませる。ボールを潰して乾かしながら櫛でといていった。

 起きたばかりの体、この力の入らなさは居心地が悪い。ぐっと力を入れると、ボールが指の芯にまで食い込んできて、もっと簡単に使えるようにできないのかと、放り投げたくもなる。どうしても割れないものだから、手のひらに乗せて上からパシッと虫をやっつけるみたいに潰したのだった。

 なぜか簡単に、しかもスッキリと上手くいった。癖になりそう。

 首元まで伸びた髪は、ゆるやかに波打って艶を出している。

 それでも、前髪の流れが悪く見えた。

 まつげに時折当たると思えば、ふんわりと膨らんでいたのがすっかり無くなっている。気になって手でさらりと触っていると、ほのかに指の腹が熱くなっていく。

 声をあげてボールの殻を落とすと、颯爽とジェスターがかけてきた。

「――なんだ、急に声上げて」

「ごめんね、髪が気になって触ってたら、急に熱々になって……」

「ふん……気分は悪くないか?」

「全然、大丈夫。びっくりしただけ。ほんと」

「……俺も心配しすぎかな。やれやれ」

 ジェスターは頭の後ろをかきながらリビングに戻っていった。それを横目にもう一度前髪を触ると、またじんわりと熱くなる。

 はじめてな気がしなかった。こうやるものだと知っているようだ。こうして――髪を温めて、癖をつけていた憶えがなんとなくある。ちっぽけなことだけれど、思ってもみないところで、また宝石を見つけたみたいな気分になった。

 鏡を見ながら、指で髪の毛を優しく挟んでおさえていく。お風呂の窓から入ってくる朝日の光のおかげで、自分の髪に茶色の混ざっていることも分かった。束をつくって、おさえて、レーキみたいな感じに前髪をつくっていく。はじめてここへ来た時は、こんな感じだった。改めて目を凝らして、自分の顔をじっと見てみる。

 数えると五日が経つ。頭の重さや手触りと合わせて、私はこれは自分だと言い聞かせてきた。

 頬に指を滑らせて、沈ませて、瞬きをして。

 さらりとした素肌の音、瞼が目を拭く粘り気のある音。

 紅茶みたいな色の瞳の奥を見つめて、顔を左右に揺らして。まつ毛の先までじっくりと確かめる。くっついた唇を擦り合わせると、喉と鼻があの香りを求めた。

 そしてそれが、自分だと思えた。


* * *


「ねえねえ、病院の先生に会いに行ってもいい?」

 私は日記に街の絵を描きながら、窓際の椅子で日向ぼっこをしているジェスターに声をかけてみた。彼は細いフレームの眼鏡をつけて、分厚い本を読んでいる。下がった眼鏡の上から、視線だけがこっちへ向いた。

「俺はもうちょっとしたら、行かなきゃいけないから、今からだと一人で行くことになる」

「そう、一人で」

 彼の曲がった人差し指が、本の角を三度四度つついた。

「道は分かるのか?」

「自分で……行ってみたい。コンパスもあるし……迷ったら、すぐ帰る」

「そうか。……まあ、あんまり遠くには行かないようにな」

 ジェスターは小さな机に本を置き、眼鏡を正しながら空のティーカップを持って私のもとへ歩いてきた。

 日記に描いた絵をそっと彼に見えるようにした。

「ふん、お前、絵上手だな」「ほんと?うれしい」「俺が描くとこんなに――石が石に見えなくなるよ」「うそ、描いてみて」「はは、恥ずかしいな。紙持ってくる」「待って、横でいいよ」「おいおいこんな綺麗な絵のとなりに俺のなんか――」「別にいいの、思い出になるから」「ああ……ん、よし。じゃあここに描く。言っとくが俺なりには、頑張るからな」「あはは、そんなにぐちゃぐちゃなの?」「これだけ置いてくる」

 彼はキッチンへ向かい、微笑みながら帰ってくる。

 向かい側に座って、ペンを手に取った。左手でおさえて、ペン先を当てた。

 私が描いた家の絵からは距離をとっている。

 私は肘をついて、両手で顎を支えながら、じっと彼がペンを滑らせるのを見る。

 足を昨日のブランコみたいに揺らす。

 マルの足音と、ペンの音、そして時計の音しか今は聞こえない。

 彼の顔を気づかれないように、ちょっとだけ見ると、命を懸けているような表情だった。

 手元にある彼の描いた線は……恐ろしく太い線。

 角ばっているが、これはもしかして――。


 私の目は彼の顔と絵をまちがいさがしみたいに見比べる。

 ふつふつとお湯を沸かすみたいにこみあげてくる。

 ついにふ、と吹き出してしまって、静かだった空気を埋めるほどに笑った。

 痙攣したかのように喉が動く。不快じゃなかった。可笑しくて仕方なくて、自分がそうさせていると分かる。お腹も痛い。奥の方じゃなくてもっと、周りのほうが。

 ああ、絵が脳裏にこびりついて、目を開けられてないけれど浮かんでくる。

 やめてやめて、息が切れそう。

「そ、そんなに笑うなよ、やりにくいだろ……!」

「だって、だって!」

 涙が出てくる。

 どうして悲しくないのに出てくるんだろう。そんなことも今は一瞬思っても、どうでもよくなってしまう。このスッキリとした感覚ははじめてだ。

「俺の渾身の、似顔絵さ……」

「うん、うん、わかってる、すぐわかったよ。はあーあはは、おもしろくて」

「おお、遠目から見ると、……ひどい出来だな」

 ジェスターも一緒に声をあげて笑う。

 尋常じゃないほど、今が楽しくてしょうがない。

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