Episode 6 - V / 痛み
汚れたまま乾いてきた手を見ていると、ベルジは「帰るよ」と下を向きながら横を歩いた。声にならない声で返して、ゆっくり足を運んだ。彼の一歩は石畳ひとつ分程だった。見せられた動画のことがよぎる。彼は会った時から秘めていた牙を見せていた。首から下げたカメラを見て、これがあんなことに使われているものだと知った今、自分の手が汚れているようにも感じてしまった。買ってもらったものなのに、こんなことを感じる自分にも嫌気がさす。
「アヴァ……」
「ん?」
彼の声は震えていた。振り絞るように私を呼んだ。
「ごめん」
目で追っていた足が止まった。押し殺そうとしているのが後ろからもわかる。しゃっくりをしているようで違った。彼を隠していた前髪を払えなかった。何に対する「ごめん」なのか、整理できなかった。そのまま彼は続けた。
「俺がこんなところまで、連れてくるからだ。ただでさえ、大変なのに」
頭の中でいろんなものがせめぎ合っている。彼を許そうとも、許さないとも思えない。私もやっちゃいけないことをしてしまった気がする。ジェスターに何も言わず。危ない魔法を持っていると分かっていながら。街で暮らしている人達は過去がどうとか、自分がどんな人だとか、そんな問題を抱えて生きている人は、たぶんそういない。憧れるあまりに、身の程知らずなことをした。誰かが来てくれる、ジェスターも顔を見せてくれるかもしれないとかも考えたが、そんなことも無かった。
「……あの動画、ほんとなんだ」と彼は言った。そんなことは言われなくてもわかっている。だからこんなにぐちゃぐちゃな感じに襲われているのだ。ベルジはひとりで、ぼそぼそと続けた。
「自分でも、分かってるんだ。昔ああやって、物に当たったりして怒られて」
包み込まれた言葉は、彼の震えを加速させた。「そう……」としか返す言葉が無かった。
「直そうって、頑張ってるんだ……」
「そう……」
「俺が家に行ったせいだよな。こんな、つもりじゃなかったんだけどな」
彼は鼻をすすった。写真に撮ったあのベルジに戻ってほしくなった。私はあの男三人とは違う。過去に大変なことをしたかもしれないのは私も同じで、今もそれと戦っている。抑えられないものを無理やり押し込むことの大変さは、よく知っている。今はただ、少し落ち着きたい。
「嘘ついたでしょ」
「え?」
「ジェスターに用があるから来たって、言わなかった?」
血がつかないように、彼の背中を指でつついた。自分の思っていたより、あっさりとした声で聞いた。気が紛れるかと思って、勘づいていたことを言ってみると、崩れかけた顔がこちらを向いた。目が磨かれた真珠みたいだった。
「あ、ああ……。うん。まあそれもあるんだけど。本当は、ちょっと、気になっただけなんだ……」
ベルジはグッとなにかに掴まれたように喉を鳴らし、目を力いっぱいにつむりながらしゃがみこんでしまった。「ちょ、ちょっとベルジくん?」と私は思ってもいないことに追いつかなくなった。そんなに彼を崩すつもりなんて無かったのだ。
「クソ…………俺ったら……」
「ちょっと……」
栓を抜いてしまったようだった。必死に笑って、顔を振っている彼。そんなことしても隠せていない。見るにも耐えがたかったが、同時に、彼はずっと黙っていたことをやっと言えたんだと分かった。何が彼をせき止めていたのか想像もできないが、声を出して泣いているのを見ると、どこか安心もできた。拳を作ってかるく二度たたくと、彼はふっと息を漏らし、笑みを浮かべた。
遠くで走る車の、石との摩擦を感じながら、静かにただ落ち着くのを待っていると、ベルジの服のポケットから低い音が鳴った。あまりに突然で喉が締まった。
「電話だ……アヴァ出てくれないか」
「でんわ……って?」
音はベルジが取り出したスマホからだった。ジェスターの名前が書いてある。木琴で奏でているような軽快な音楽が鳴っている。
「もしもしって」
スマホを渡された。左手で受け取ると、ずしりとした感触が乗ってきた。思えばスマホははじめて手に取る。思っていたより冷たいし重たい。手が滑りそう。横から見るよりずっと眩しい。
「もしもし……?」
「――アヴァ?なんだ、一緒にいるのか。ベルジはどうした?」
わ、と後ろからつつかれたような感じだった。こんなに小さなスマホからジェスターの声がする。しかも話せる。何をどうやっているのかさっぱりだったが、それも飲み込んで今は伝えることに集中する。
「それが……。それが、あんまり話せる感じじゃないの」
「――はぁそういうことか。んーまあとにかく、暗くならないうちに帰ってくるんだぞ。コンパスはー忘れてないよな?」
「うん。ある」
「――ん、じゃあ待ってるからな。気をつけて帰れ」
「わかった。ありがとう……」
物を落とすような音と一緒に、ジェスターの声は途絶えた。風に揺さぶられて音を立てている窓が、心配そうにこちらを見ている。太陽もまた、雲から顔を覗かせていた。暗いようで明るい空の下で、ベルジは咳払いをした。
「ごめんアヴァ。なんか込み上げてきて、あはは」
元に戻った。顔は晴れていた。目の周りが赤くなっているが、かまわず瞳はちゃんと私を見ていた。それが何よりも嬉しくて可笑しくて、でも怖い彼がよぎって。今度は私が目を逸らしてしまった。
「やっと目合わせてくれた」と、私はそっぽを向いて軽く笑いながら言った。
「う、お、だって見つめてるとさあ……!」
「なに?」
「き、気持ち……悪いとか、思わないのか?」
「ええ?何言ってるのそんなのないよ……そんなこと?」
「うん……」
目を合わせられることを、どう気持ち悪く受け止めるのかは、想像するのが難しかったが、これも彼なりの考えや身についた感性なのかもしれないな、と私は静かに呑んだ。ため息と合わせて吹いてきた風が手のひらにかかり、キリキリとした痛みが走る。
「いたた……」
右手を広げると、無造作に刃物で切ったような傷ができていて、干からびた皮と滲む血は見るのも辛かった。ベルジは立ち上がって「近くに公園ある。手洗おうぜ。黴菌いたら、いけないだろ?」と言ってくれた。私はいつも通りの歩幅で、彼に続いた。
「なんかさ」
「なに?」
「ありがとう……やさしい、よな。アヴァ」
「らしくないよ?」
「いやー、そうか?ははは」
* * *
花壇と形の整った木々に囲まれ、走り回れるくらいに広い砂場の公園。入口の石をすれ違い際にコツンとつつくと、爪が震えた。鮮やかな色をした何かが建っている。ひとつは編み目状に組まれて、骨組みのままの四角い建物。もうひとつは波打つ金属の坂が眩しい建物。さらには振り子みたいなものがある。立ち止まって、何や何やと見つめた。
「アヴァ」
「あ、ごめん、その……何かなって……思って。手洗わないとね!」
「それもそうだけど……ほんとに……なんか、寂しいな」
「え?」
「知らないんだろ?ブランコ」
「そんな名前なんだ。おもしろいね」
これらも知っていて当然なのだろう。彼のまつ毛が長く見えた。ジェスターの、この街の人間ではないかもしれないという言葉がよぎって、お腹の真ん中辺りが引いていく。
「こっちに洗えるとこある」とベルジが十歩先で呼んでくれた。肩に手を当てて待ってくれる彼の元へ、駆け足で向かう。瞬きする度に彼の顔は下がり、指をさした。
蛇口を軽く捻ると、勢いよく音を立てて水が出てきた。排水溝を絶え間なく叩いて、飛び跳ねる水滴が靴を濡らした。
「……たぶん服濡れる」
「ちょっとひねっただけなんだけど……」
よく目を凝らして、まるで細かな線を、間違い無く慎重に描く画家のように、逆にひねる。音も鳴らぬほどだったのに、勢いが目に見えてわかるほど弱まった。
「壊れてるだろこれ……水道」
「あはは、勢いすごかったね」
手を恐る恐る、筒を描いてゆったりと落ちる水にあてる。「ひやっ」首の後ろまで冷たい感触が行き届いた。そのせいで、痛みも吹き飛んでいる。指のほうが痛くなってきた。息を吹きかけたり、曲げたり広げたり、両手をすり合わせたりした。そこまで寒くないのにも関わらず、この水は氷で冷やしているんじゃないかと疑うほどだ。
「冷たいの苦手なのか?」
「あんまり……」
「氷出すのに?」
「たしかに?」
「……これで拭いてから巻いてなよ」
腕の長さほどで真っ黒のハンカチを貸してくれた。
「ケガした時用に持ち歩いてるんだ」
網目模様に入った傷を覆い隠すようにして、人差し指と親指の間に通して一巻二巻する。毛布のような質感だけれど、何も無い左手も相まって違和感が凄まじかった。
公園の橋にあったベンチに「ちょっと休憩」と端っこへそっと座った。彼は相変わらず落ち着きは無く、私の前をぐるぐる歩き回っている。座らないのかは聞かないでおいた。
「言いにくかったらごめん……あの、さっきの人たちは、友達なの?」
「んなわけ」
「なんかちょっと、仲良さそうにしてたじゃん?」
「演技だよ演技。そんなに上手かった?」
「え?ほんと?……うん」
「…………マジか。まあ、あいつらは昔から俺の悪い噂とかをあーやって広めて――うん。まあ、そういうこと」
ベルジは顔を見せず、揺らしながら足元の石を蹴った。鼻で笑ったのが聞こえた。あの三人が何をしているのか、彼の言葉を聞いてもあまり頭に入ってこなかった。それでも確かに感じていたのは、怖さよりも圧倒的な嫌悪感だった。あの時、上唇が勝手に上がって、小鼻が顔の真ん中を押しつぶしていた覚えがある。
「私ね、正直ね、その……苦手かも」
「何が?」
「あの人たち」
「ごもっとも」
「いっぱいいるのかな。学園?だっけ……」
「来るの?」
「……ちょっと、怖い」
「全員あんなヤツなわけじゃない。昔の俺がやらかさなけりゃ、こんなことにも」
「そう……」
「でもさっきんとこは、厄介なやつが住んでたりしてるからさ。ネーベはいい街だよ」
「いい街」
「うん。……アヴァなら学園のみんな仲良くしてくれると思うけどなー」
「そうかな」
「大丈夫だって。さっきのやつらに似たやついっぱいいるけどさ、どかんと怒ってくれる先生とかいっぱいいるよ。特に園長先生めっちゃ怖くってさ」
「えんちょ?」
「そうそう、なんせ元マフィアだからな。やべーだろ、あはは」
「マフィア……」
「はー……ああ、マジで頭真っ白んなって、どこ歩いてるかとか……考えてなかったわ、今日」
「真っ白?大変だねベルジくん……」
「…………おかげさまで」
明日にも明後日にも、外に出て歩いてみようとは思っていた。あの三人みたいな人で溢れているのなら、まだ考えただろう。それでも今日は、カメラという新しい手がかりを見つけられた。レンズのカバーを外して、カメラと目を合わせた。私はあなたを誰かを傷つけるために使いません。大事にします。心の中でそう唱えた。レンズは月を歪ませて円を描いている。
一息ふとつくと、ベルジが傍からいなくなっているのに気がついた。
ブランコと呼ばれたものに、ベルジが乗っかり、彼が一緒になって揺られている。いつの間にやら、と思いながら、荒波に揺さぶられる船みたいに動く彼に近づいた。しゃがんでは立ち上がってを繰り返し、見る見る彼は速くなっていく。錆び付いた柵に手を置いて、じっと見つめてみた。彼の顔はただまっすぐを向いていた。あの細い鎖がちぎれたりしたら。あの手を放してしまったらと考えてしまって、両手を結んで見守った。彼は街灯に負けないほどに光った顔を見せていた。
「いやー、久々にブランコやったわ、あはは。アヴァもやってみる?手痛いか」
「……ちょっとだけ」
* * *
「なんかごめん。こないだ次会ったら楽しいところ行こうって言ったのに、嫌な思いさせた」
二人でブランコに揺られて、足も一緒に振りながら、ふわふわとした感覚を味わっていた。私は肩を鎖にまかせて、両腕を手で軽く掴んで支えていた。風が背中を押してくれるから、揺り籠に入っているようで落ち着く心地の中。ベルジの足が砂に触れた。
「ベルジくんは謝ってばかりだね」
「え……」と言ったベルジは、ブランコから降りて、鎖を掴んで揺らしはじめた。ぐらぐらと音を鳴らすのを見つめているだけの数秒が過ぎる。「ベルジくんがいないと、このカメラと……会えなかったし?」私は彼の手を見ながら言った。
「そ、そうか……。俺さ、慣れてないんだ、その――」
「慣れ?」
「ううん、なんでもないや」
私はつま先とつま先を重ねて擦っている自分の足を、じっと見つめた。
「なあ、俺の事、怖いか?」
彼の方を見ると、まじまじとした真っ直ぐな視線が飛び込んできた。水面の光の波みたいに、その目は揺らめいている。そんなことを言い出すとは思ってなかったもので、彼以外の音がなにかに吸い込まれていくように感じた。足の動きも止まった。
「こ、怖いって……。怖いかと言われたら……うん」
「だよな。そう、だよな」
「だからといってさ、知らんぷりなんか、したくないからね。友達だもん」
息を多く吸って飲み込んだ音。ポケットから鳴っているそれには気づいていない。固まっている。私は瞬きだけを続ける彼の目の前で、手を振った。
「……ベルジくん?大丈夫?」
「……そ、それよりアヴァ、見ててよ」
顔に被ったものを払うように首を振って、ベルジは袖を捲った。視界を点滅させながら彼の手を見ていると、指先に火の玉が小さく煌めいた。腕を大きく上に上げると、それは宙に舞い、どこかへ目がけて飛んでいく。獲物を捉えた鷹のように線を描いた先には、誰かが捨てた飲みかけのボトル。火の玉はそれを一瞬で真っ黒にしてしまった。埃のような臭いが寄ってくる。
「まだ小さい時、魔法はみんなを守る綺麗な必殺技なんだと思ってた」
私は黒焦げになったボトルを見つめる彼の傍に近寄った。
「でも現実違うんだよアヴァ」
「違う?」
「自分に勝てる人にしかできないんだ」
「自分と自分が、戦うの?」
言葉をそのまま吞み込んでしまって、すぐには意味が分からなかったが、彼のジェスチャーでくみ取った。そう、私も同じ。自分の中からあふれ出てくるもの、流れ込んでくるものを受け入れてしまう自分。それを私はぜんぜん制御できていない。負け続けているんだ、自分に。
「俺こんなちっぽけなのじゃないと、抑えられないんだ。ほら、見てよこれ。震えてる。イライラするとさ、勝手になるだろ?こう、吸い取っちゃうっていうか、周りのさ、分かるだろ?はは、大丈夫、アヴァのせいじゃないから。勘違いしないでくれな。ただちょっと、知って欲しかっただけなんだ」
彼は袖で今度はがたがたと震える手を覆い隠し、口を閉じて微笑んだ。同じ。同じだよ。そのちっぽけなのさえ私には無理だ。自分の意思でそうやって、自在に操れもしない。誰かに預けたまま忘れてしまいたい。でも、これが私。なにかを言ってあげたかったけれど、しばらくは彼の微笑みに答えるように笑うことしかできなかった。
そこにひとつ何かが頭の中ではまり込んだ。彼と初めて出会った時のことだ。
「その魔法のせいだったんだね。私に、鉄砲撃ったの」
ベルジは風を切って顔を上げ、私の目を覗き込むように見た。彼の渦巻いた髪の毛がゆっくりと動く。不自然に瞳を上げだす。首も上げて、ああ、と言いながら、足踏みをしている。
「ベルジくん……?」
私にはわかっている。涙を見せようとしていないこと。君の青く沈んだものは、感じ取れてしまう。
「ああ……はは。ごめん。俺もアヴァの魔法、どんなのか想像はついてるよ。良くないのが流れてくるんだろ?」
「……やっぱり、分かってたんだ」
「まあな。はは――だからさ、頑張ろうな」
「がんばる。私も頑張るね」
ベルジは下を向いて笑いながら、ジャケットをはたいた。
「っと、てか暗くね?今何時だろ」
「いまさら……?」
「うわ、ヤバいヤバい九時半!不在着信8件!?ジェスターさんから……あーやっべ、めっちゃ無視してた」
「あちゃ……」
ベルジは両手の指を器用に使って、虫の足みたいな速さでいじっている。私はジェスターが怒ってなきゃいいなと願うばかりだった。
「よし急ぐぞ、アヴァこっち近道!」
「う、うん……!」
ジャケットが追い風でばっさりと開いた彼は、全速力で走りながらジッパーをしめた。じたばたとした靴の音がただ響いている。物音がすっかりしなくなっていた街中、窓から誰かに見られるんじゃないかとよぎりながらも、彼の足を追った。
* * *
窓からカーテン越しに漏れる夕陽色の光。やっと見えてきた。
見るだけでも暖かく感じる。それでも息は戻ってこない。こんなに走ったのははじめてだ。よく休まずに何分も走れたものだ。首のまわりも足の裏も汗ばんでいる。妙に冷たくて気持ち悪い。おたがいへとへとになって、ぜいぜい喘ぐ。
「あ、ありがとう、ベルジくん……」そう言うと、玄関から甲高い音が鳴った。顔を出したのは、マルを抱えて目を半開きにしてこちらを見るジェスターだ。私は無性に彼の元へ、手足の痛みも忘れて駆けて行った。ベルジは手を小さく振ってから、おかしな走り方ですっ飛んでいった。
「え、えっと……」
どんなことを言えばいいのだろう。遅くなってごめんなさい?心配させてごめんなさい?
「家に帰ったら、なんて言うんだっけ?」
玄関に敷かれたマットの模様を見ていると、ジェスターが想像の何倍も柔らかい声でそう言った。私はマルの顔を見てから、ジェスターと目を合わせた。
「ただいま、だろ?」
「た、ただいま……!」




