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ビヨンド オブリヴィオン / BEYOND OBLIVION  作者: 蓮田 希玲
BEYOND OBLIVION / CHAPTER 1

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Episode 1 - I / 空虚の私

 冷たいものが頬を撫でた。


 たったそれだけ。


 違う。左。右。奥のほう。


 ふわりと降りてくる。ぽたぽたと音がする。

 目の奥を締めつけるものが消える。

 硬い。頭の後ろ。痛い。暗闇。

 指。どこも硬い。冷たい。濡れている。

 二滴。三滴。瞼がじわりと湿る。黒い布の向こうで光が揺れている。

 曲げていた膝からふくらはぎにかけて、水滴が滑っていく。

 雨。おかげで体がどこまで続いているかわかる。


 瞼が粘り気のある音を出す。

 灰色の光が滲み、ビーズが少しずつ像を結ぶ。

 息を深く吸って、吐く。喉の下が動く。

 咳がこぼれた。握りこぶしを作って、喉の下を軽く叩く。

 絡まったものが外れた。口から水が出てきた。

 目を中指の腹を使って拭く。

 髪の毛先がくすぐったところをかく。

 手のひらを広げる。

 雫。指が震えている。親指。曲げようとすると曲がる。人差し指。伸ばそうとすると伸びる。他の指。開いたり閉じたりする。

 爪の白いかすり傷を撫でる。目尻をつつく前髪を払う。

 私は背中を粗い石壁に寄せ、膝を崩して足を投げ出している。苔が雨粒を弾いている。細い道が横に続いている。

 服。肩口から下は肌にしっとり貼り付き、自分の熱が少しずつ奪われていく感じがする。関節は地面と変わらないくらい冷たい。

 空。色のない雲。隙間なく埋め尽くされ、ゆっくりとしたうねりを見せている。

 真っ暗闇が左に見える。滴る音。重なっている。何かを蹴る音か、開ける音か。声のようでも、息遣いのようでもある。思わず袖をつまんだ。

 膝を引き寄せ、手をついて立ち上がる。生ぬるい靴下がくしゃりと鳴り、重たい服が胸を締めつける。石のざらつきが掌に刺さって跡をつける。

 気持ち悪くて声に出しそうになると、喉が締まって咳き込んだ。奥の方がまだ絡まっている。太鼓を叩くみたいに、肺の当たりに向かって手のひらを打ち付けた。

 壁に手を添えてブーツを傾け、膝丈のスカートの裾を両手で絞る。音を立てて水がこぼれ落ちる。


 暗がりが手を伸ばしてきている。

 水たまりが踏み抜く度に泣く。

 膝を包んだプリーツのおかげで、足が分かる。

 髪が貼りついてきて視界の邪魔をする。

 建物は窓も扉も閉ざして、瞳孔を開いた瞳ようにこちらを見つめている。窓は割れ、屋根は崩れ、街灯はひどく折れ曲がっている。

 まるで捨てられたような街。

 右手で常に、何かしらに触れながら歩いた。

 キラキラとした小さな音。足元。

 雨が氷になって弾けている。

 足を止め、手のひらを広げる。

 雫が肌に触れると、きらりと光って砕けた。バラバラになった粒も、奇妙に震えながら、水に戻って滑り落ちていく。

 大粒が肩の辺りに落ちると、一瞬にして凍ってしまった。

 突然にカチコチになったショルダーケープを、虫を払うように叩く。氷片は藍色がかっている。肩が動かしづらい。

 砂みたいな粒を払う。左手首に何かある。

 リストレットが揺れた。細かな編み目模様の入った、薄い絹のような手触り。まったくつけていた感触がなかった。

 小さく何かが書いてある。金色で書かれた文字。黒地によく目を凝らしてみる。

 アヴァ・クラリオネ。

 向きを変えながら何度も見るが、間違いなくそう書いてある。

 左手を下げる。

 何かがおかしい。

 ここは何。

 自分の頭をあちこち触ってみるが、痛くない。


 板で封じられた窓の下、風の入りにくい場所。水たまりにしゃがみこむ。

 顔。手。片目を閉じる。ぼやけている。

 髪は黒い。猫みたいな目。丸い鼻……下唇を上げると横に長くなる口。

 横に流して透かした前髪は、鉛筆で丁寧に書かれたように滑らかな曲線を描いて、無数の束をつくっている。もみあげからは、カールを作った髪が顔の輪郭を作るように細く伸びている。

 嚙み合わない。

 髪を揺らす。

 合わない。

 波紋のひとつひとつが縮まって点になって、空へ上がっている。


 後ろ。

 胸が縮こまって、手を引っ込める。

 足音が止まった。さっきまで背中をさすっていた風が弱くなっている。妙に静かだ。振り向く。

 くるくると暴れた髪に鋭い目つきをした男の子。

 青い瞳。姿勢を繰り返し直して、何かを片手に持ってこちらへ向けている。いや、構えている。彼の淡い色をした硬そうなジャケットが風に揺らされる。声を出そうと息を吸うも、それは遮られる。

 彼の手は揺れている。彼は小さく足踏みをしながら、体を後ろへ向けようとした。首を戻しつつ体もゆっくりと彼の方へ向けながら、膝も伸ばし、向き合う。

「話せるか?」

 言葉は分かる。

 それ以上は分からない。

 唾をひたすらに飲む。

 喉を鳴らす。

 彼は眉をひそめ、背中を伸ばしている。持ったものから軽い音がした。何も言わないまま、彼は両手でそれを持ち、左足を後ろに下げた。

 武器だと分かった。

 ――――閃光。

 耳が叫んだのではない。

 瞼が上がったまま閉じなくなった。

 心臓の鼓動に合わせて、刃物でこすられているような痛みが耳に走る。

 すぐ傍の壁に、丸い穴が空いている。

 眉間の奥をねじるような匂いと煙。

 銃だ。

 食いしばった歯を見せ、音を立てていじっている。筒のようなものが飛び出て、そこへ六つの何かを入れた。

 彼はまた構えた。靴が静かに近づいてくる。

 目だけを動かし、伝えようとする。しかし、彼の目は私の目を見ていない。

 彼の後ろで、屋根瓦が落ちたのが見えた。

 振り向いた。

 その隙をついて、私は走り出す。

「ま、待て!」

 身を投げるようにして彼が追いかけてくる。


 虫の大群に襲われているようだ。

 進めそうなところをとにかく突っ切る。

 ブーツの底がすり減っていく。

 幾度も足を石に引っ掛けられそうになりながら、街の静寂を切り刻む。

 また耳を突き刺す音がしたと思えば、右を飛んでいった。

 粉々に砕けた建物。

 その向こうに広間。

 突っ切ろうとした。

 足元にあった瓦礫がひとりでに動き出し、私の足を引っ掛けた。

 頭は打たなかったが、膝を擦りむいた。

 自分の心臓の音で、周りの音がよく分からない。


 向こう側は完全に、塞がれている。


 男の子がゆっくりと近づいてくる。後ろめたそうに構えている。

「……はぁ、もう逃げられないぞ……。はぁ……」

 お互い息を切らして睨み合う。

 一体何を言っているんだろう。

 口が震えすぎている。

 胸の内側が外に向かって殴っている。

「動くなよ。今度こそ……」

 目の前まで来ると、銃を眼前に突き出してきた。

「やめて、おねが――」

 また咳が出る。

 口を両手で抑える。

 不思議な雨が見える。

 彼の肩や手を濡らしては、飛び跳ねている雫。

 徐々に集まって、表面を凍らせている。

 彼は体勢を崩して四肢を軽く振っている。藍色の破片を散らしながら、酷く引きつった顔で私を見た。

「……やめて」

 やっと声を出せた。彼は目を大きくして口を開けたまま、ゆっくりと武器を下ろした。

「君は……?」

 鼻の奥が震える。詰まる喉から振り絞って言葉を出す。

 彼は黙ったまま、また銃を構える。

 私からは銃口は見えない。彼の瞳だけをじっと見た。

「なんだよ、なんだそれ」

 彼はそう言いながら肩を下げていく。

「わかんない、わかんない……痛い」

 私は下を向いて言葉を吐く。

 膝からは紙やすりを常に当てられているような痛痒さが波打っている。破れたところからは赤く腫れているのが見える。

 水たまりが音を立てて凍り始めていた。

 像がどんどん濁って、次第に亀裂だけが模様を作っている。

「お前、誰だ?」

 そう言われた。

 私は――。

 私――。

 奇妙なことに、目を開ける前のことが分からない。

 乾ききった砂で、砂の城を作ろうとするようだ。

 何をどうしたら、何をどう、考えられるのだろう。

「……私は誰?」

 彼は知っていると思った。聞かれたことに、言ってから気がついた。震えを止められないままに、最悪な想像が続く。

「なんでそんなこと聞く?」

「え……?」

「……どっから来た?」

 どこから来たか。

 私は――ここで目が覚めた。

 それよりも前のことは――。

「……たすけて」

 喉がひどく波打ち、鼻水が出てくる。口を閉じても何かが中からこじ開けようとしている。目の重みを感じながら鼻をすする。

 彼のほうを見れなかったが、息を深く吸ったのが分かった。

「いいか、手を乗せてくれ。動くなよ」

 彼の左手のひら。銃を向けながら近づいてくる。私は後ろからも押されているようだった。恨んでいるような目。

「なにするの、やめて」

 何をされるのかがわからず、手を払いのけた。

「動くなって」

 自分の冷えた左手を上からそっと、彼の手に乗せた。

 彼は、私の手を包むように握った。

 指先から暖かい何かが巡ってくる。

 痛みに達していた凍えが溶けていく。麻痺していた何かが和らいでいく。

 彼は静かに、両手を下ろした。その手は行き場を無くしたようにふらふらと動いていた。

 彼の目も、顔も同様だった。


 目を泳がせながら、彼は尖らせた口を動かした。芯が抜けてしまったみたいになっている。

「……ごめん、勘違いだ」

 信じられないほど落ち着いた口。彼はずっと下を見ている。

 自分のせいかもしれない。分からない。

「かんちがい?」

「ああ……まあ……。うん」

 自分の手が勝手にもみあげの髪を触った。

「なにも、覚えてない?」

 彼はこびりついた氷を手でつまみながら呟く。覚えていないのではない。知らない。その違いが分からない。

「そんな顔やめてくれよ」

 そう言われても、自分の顔がどうなっているのか想像できない。

「……私のこと、知ってるんじゃ、ないの……?」

 知りたくなった。彼は追いかけてきた。彼は何かを知っている。

「だから、それは――」

「私、君に悪いこと、してない?」

「え?」

「撃ってきた、から」

 こめかみあたりを人差し指で擦る。

 一切、目が覚める前のことはやっぱり分からない。

 耳がまだじんと痛む。

 手で触ると、がさがさになっているのが分かった。

 火傷。雨粒が染み込むと、誰かにつねられているようだった。

「俺は――知らない。撃ったのは、仕方なかった……ごめん」

 全身に猛烈な寒気が覆いかぶさってくる。私は自分の両手首を無心でさすり続けた。ブーツの中を震える足が音を鳴らして暴れている。

「とりあえず、ここから出ないと。俺ともう一人、一緒に来てる人がいる…………待て、静かに」

 彼の一声で体がさらに縮こまる。呼吸も止め、目だけを動かす。

 音がする。獰猛な動物の足音か、石が勝手に動いているような。

 静かに重い何かが近づいているのが、確かに分かる。

 建物がわめいている。

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