Prologue
【その子はよく泣いていたわ。今でも目に浮かぶのよ。顔はよく思い出せないのだけどね】
虹色の光をほのかに灯す白いポピーが、一面を埋め尽くしている。
下から上へ、上から下へ走る緩やかな風。
ざわめきと爽やかな甘い香りが、儚げながら私を包み込んでくる。
そこに黒い幾何学が倒れている。酷く裂かれたその体から、墨のような体液が流れている。規則正しく並んでいた糸は、今は不規則に曲がっている。
私は剣先を向けた。
弱ったクラゲをじっと見ながら。
右手の震えを抑え、レバーに左手をかけ、人差し指を立てながら落とす。がしゃりと足踏みを揃えるような硬い音が、反響することなく鳴ると、弾き飛ばされた空っぽの弾が、さらりと花に落ちた。冷えた空洞が覗く。
ひらひらとした袖を捲り、ベルトへ伸ばした手で長い一本を抜く。薬室に弾頭を当て、角度を合わせてから押し込む。爪で金属を擦るような音。レバーを戻して閉じると、中が噛み合った。
息を止める。
引き金に指の腹を乗せ、力を入れる。
――視界が一瞬だけ白く、そして藍色に弾ける。
慣れない奇妙に歪んだ音が鼓膜を握る。
右腕に強く響く。
クラゲが動かなくなってしまうところには、目を閉じた。
撃ち込まれた弾からは、氷が網目模様を描くように広がっていき、クラゲをみるみるうちに包み込んでいく。
ついには凍りついて化石とも言える姿になった。
右手にレバーをかけ、細長い剣先を下に向ける。
柄をしっかりと握り、手の甲を前に見せる。このまま握り拳を下に動かせば、凍ったクラゲは粉々になる。
ゆっくりと、ヒビが入っていく。暴れ出しそうな肺を押し殺しながら、刺しこんだ。
剣から土に触れた音が耳に届く。
私は息を深く吸って、吐いた。
【とても穏やかで、優しい子だったわ。それに、怖がりなところもあったわね】
一歩ずつ足元を見て、花がちゃんと起き上がるかを見る。
怒り狂った花は動き出して、足を掴んだり、言葉にならない声で語りかけてくる。その繰り返しの中、ふくらはぎの痺れがひどくなっていた。
それでも歩き続ける。
ポピーを齧っては、煌めく糸を紡ぐ蚕と一緒に。
幽霊、あるいは天使みたいにふわふわと宙を泳ぐ。短くてふわふわな白い毛をなびかせながら、影の元へ導いてくれる。
長くて細い毛が櫛のように並んだ触角を動かしながら、言葉を発さずとも慰めてくれた。
「待って、リンボ……」
涙が頬を滑っていく。
それは顎へ。そして落ちる。
ポピーが受け皿になる。
鼻の下を気にしながらすすり、ガンブレードをそっと捨てるように手放すと、ほどけていく布地みたいにさらりと消えるのを見て、また足を動かす。
【よく話も聞いてくれたのよ。うんうんとうなずきながらね】
リンボは色を飲み込む大きな目のついた小さな頭と、葉っぱみたいな触角を揺らし、羽をおさめて待っていてくれた。
靴紐を結び直して、空を見上げる。
白夜の空には極光が折り重り、雲が形を歪に変えながら動いている。
視線を感じる。
二つの背の高い影が、私を見ている。
「待って……!」
私はそう叫ぶ。
彼らはずっと何もしない。
走っても声をかけても、向こうからやってくることは無い。
二人の間にいる小さな影が手を振っている。
そこで待ってて、お願い。
口にしようとした。
クラゲや、ほかの幾何学模様がふわふわと漂い、迫ってくるのが分かった。
空気を掴むように手で合図をとり、すぐさまガンブレードを手に取った。
小指を前に向け、剣先をクラゲに刺し込み、全身を回しながら腕を後ろに振る。レバーを風で浮かせられたのを感じ、もう一度前に大きく振ってから、硬い音を確かめた。
引き金を押し込んだ。
宙に浮いたまま真っ二つに割れたクラゲは、藍色の氷に覆われたまま、触手から力を抜いた。
柄から手を放しても、手のひらが赤みがかっていた。擦り合わせて痛みを馴染ませながら、影のほうを見る。顔のよく見えない四つの影はまだじっとしている。
凍ったクラゲに視線を戻すと、ひとつのレンガに変わっていた。
次に見た時にはそれが四つになった。
視線を外してまた戻すと、それは十六になった。
リンボは目を私に向けながら、触角を回した。
踏まれた花が、踏まれていない花になる。
水たまりから雨が上がり、波紋は集まっていく。
鳥は後ろへ飛び、虫は怒りを鎮めながら巣に戻る。
リンボは煌めく糸を吐きながら飛び続けた。
いつしか、石でできた立派な家々に囲まれていた。
浮遊感のあった地面は、全く気付かぬうちに石畳になっている。
自分の頬を何度もつねる。
痛い。
【どんな話をしたか、覚えてる。ああ、思い出の話だ】
街。
地面や家々の壁からは、ところどころで真っ直ぐに伸びた糸が見える。触われない。宝石が無限に引き伸ばされたように煌めいている。震わせたピアノの弦を思わせる音もする。
歩く人々の顔は、筆で二度三度撫でられたように、はっきりとは見えない。表情は感じ取れる。
みんな笑った顔で話している。口のあたりにシルエットが見える。遠くにいる人ほど、手足の数が多い。
いつか聞いたことのある声。
耳を澄ましながら首を動かす。
振り返れば二度も同じ光景は現れない。
目を擦っても、下を向いて前を見直しても、街の色がすっかり変わっているのだ。何の音も、兆しも無く。
昼はあっという間に夜になっているし、夏が冬になっていたり。
誰かのアルバムにある写真の中に入って追体験しているようだ。
私の腰くらいしか背丈のない子供が、傍ではしゃいでいる。彼女は目を擦っても、瞼を何度も閉じて開いても、姿形が変わらなかった。はしゃぎ方と声には覚えはあった。でも、いつどこで会ったかは思い出せない。何気ない一日のどこかで出会ったのだと思う。それにしても変わらない。急に周りが変化を起こさなくなっている。
「ねえね、お姉ちゃん遊ぼ!」
麦わら帽子を被った女の子。
足に抱きついてきて、こっちを見ている。
帽子のリボンの色が緑かと思えば赤になったり、青になったりした。こんなに近いのに、顔だけは見えない。リンボは、私の髪の結び目に隠れた。
水の中で目を開けているような視界。足元はくっきりと見えた。目がどちらをとるか迷う。
膝に手をついて、不気味に潰された顔に近づく。
「いいよ、……なにしよっか」
そう返したところ、紫色の腕が女の子の顔を遮った。
「すみません、うちの子が、ついつい。ほら、いくよ」
「うわーん、お姉ちゃーん」
私は微笑みながら小さく手を振った。
アメジストのような深い紫のニットを着た女の人。赤ちゃんを抱っこして、汗もかいているのが分かった。女の子と同じ、ライトアップされた紅茶のような髪だった。遠ざかる麦わら帽子を見て、私がどうしてここにいるかを思い出す。
頭がぼうっとしていたのか分からない。
追っていた影のことをすっかり忘れていた。
頭から静電気が走ったのか、隠れていたリンボが肩にぽつりと乗ってきた。
リンボは顔をかしげている。私はふと息を吹きかけるように微笑んで見せた。
【あの頃に戻りたいって、誰もが思うものだろ。俺はもう一度、会いたいんだ】
「おーい」
今度は男の声がこっちに呼びかけてきている。
よく見えない顔一つ一つに目を凝らしながら、眉毛や口の辺りを見ていく。
ひとり、近づいてくる人影があった。声も近づいてくる。彼で間違いない。
「探したぜ、なあ、ちと時間があれば――」
鼻の当たりを触りながら彼はそう言ってくれた。
「ごめんね、私、ちょっと今忙しくて。ほんと」
「いつならいい?」
「……あー、えっと……次会った時!」
彼は表情を曇らせなかったと思う。
わかった、とだけ言い残して、手のひらをこちらに見せてきた。私はガラス細工に触れるみたいにそっと、ハイタッチした。
顔が見えないから、彼が誰なのか分からなかった。声も聞き覚えがある気がしたが、どれが本当の声かはさっぱりだった。
【そうよ、氷の結晶。その子の魔法、とっても綺麗で】
坂道を下っていくと、人通りが落ち着いてくるのが分かる。
尖った屋根が白く光ったり、夕日の色を映したり。高いのか低いのか分からない鐘の音が鳴り響く。窓ガラスがそれに揺らされて騒ぐ。
私は自分の肩に指を当てて、淡く光る氷の結晶を作る。顔の横にゆらゆらと浮かび、暗がりを青い光が照らす。
「見て、おもしろい」
時計塔を見ながら左に一歩。針が左に動いた。
右に一歩。針が右に動いた。
ぐるりと回って針を見ると、十二時は六時になっていた。
回ったせいか、家の壁から家が生えるようにできている。
首元でリンボのふわふわな毛を感じる。
【綺麗だけど、ちょっと、怖い。それを見ると、目がうずうずしてきて。泣き虫な訳じゃないけど、あれは耐えられないよ。こう、引っ張られる感じがする】
頬に冷たい感触がした。
指で触れると、水だとわかった。
リンボは家や地面、花、空を齧りながら、糸を紡ぎ続けた。
私は足をよりはやく動かす。
あった。
三つに分かれた道の真ん中に立つ、二階建てで、大きな窓からは見慣れた明かりやランプ。花壇に植えられた花。手が震えてくる。
ドアノブに手を近づけると、まったく同じドアノブが、がたがたと震えながら一つから二つに分裂した。どちらも爪を当てると、こつりと音を立てた。
「これ、慣れないね」
リンボが触角を回した。
ゆっくり、ドアノブをぎゅっと握ると、引き伸ばすような金属音が鳴って、ひとりでに玄関が開いた。
「ただいま……!」
私の声にこたえるように、奥までドミノみたいに明かりがつく。誰もいない。何かが違う。いや、大きく違う。
ブーツを脱いで整え、体中の埃を払い、廊下に足を運ぶ。踏み固められた雪のようなフローリングがきしむ。リンボは緩やかに、そして軽やかに飛び回る。
目で追っているからだろうか。ここもめまぐるしく変わっている。確かなのは、外で見た時計塔よりも濃くはっきりとしているということと、足裏でしっかりとここを感じられているということ。
【家の中に、たくさん置かれてた。座って、よく考えた】
【変だと思ったんです。何にも写ってないなんて】
【でも見ているうちに、誰かいたような気がしてくるんだ】
「ただいま……?」
家具は何も置かれていなかった。ただ、テーブルの上に一切れのパンがあった。
床は誰かが雑巾で拭いたのか、ランプや天井の骨組みの影がうっすらと見える。
ここにはこれが、ここにはあれが、と見ているうちに、帰ってきた感じからは遠のいていった。
この手触りは懐かしい。キッチンに置かれたフライパン。棚には何も無かった。
サッチェルバッグの中から、写真を数枚取り出す。家の中を撮った写真。見れば見るほど、像が揺れ動く。写っているランプは、本当に光っているみたいだ。
一枚を見て顔を上げると、この部屋ががらりと模様替えしたように、知っている部屋になった。
足を横にずらすと途端に全部がぼやけて見える。
色のズレはゆっくりと結ばれていく。
私がおかしいのか、ここがおかしいのか。
【自分ごとみたいに僕の話を聞いてくれた。一緒に泣いてくれた。ひどいよね、僕。その子の名前、出てこないんだ】
私は宙で指を動かし、黒い蓮の花を喚び出す。花びらひとつひとつからは、藍色の光の筋が走っている。
心を落ち着かせて、深く息をする。
「がんばるね」
懐にリンボを隠して、突如現れた、あるはずのない扉を開く。よく知っているドアの見た目のせいか、それが気持ち悪さを強くしている。
静かに開いて、隙間から覗いてみると、見覚えの全くない廊下が続いていた。
知っているようで知らない場所。壁も床も家具も、一つ一つに思い入れがある。
ただ、ここに広がっているのは、そのピースをバラバラにして無理やり繋ぎ合わせた空間だった。
吸い寄せられるように廊下に入り、扉を閉めた。
【あの子は――優しかった。優しすぎた】
点滅する電気。ざらざらとした黒ずんだ壁。写真も飾ってある。
手を滑らせながら、忍び足で歩く。向こうから光が差し込んでいる。
左右の壁に空気を圧迫され、私は唇を巻いて、袖をずっとつまんでいた。今いる廊下の突き当たりには、リビングと思われる部屋が見える。白いカーテンがクラゲみたいに揺れている。一歩ずつ、床に黙るよう祈りながら進める。
常に誰かに見られている気がしてならない。影と同化している扉一つ一つ、ドアノブが回らないかを見る。そうして突き当たりにたどり着く。
かすかに、木の軋む音が聞こえる。息使いもだ。いる。恐る恐る死角からリビングを覗いてみる。
後ろ姿。食器棚に反射する顔はよく見えないが険しかった。じっと見ていると手が動いた。たばこを手に取った。カチカチと音がして、鼻をつくにおいが漂いだす。彼が大きく息をするたびに、煙の塊が幽霊みたいに動いて電球に抱きつく。
「――またか」
椅子に座っていた男は、低い声であきれたように言って立ち上がった。冬の夜のように時間が止まった静かな空間を、床の叫び声が断つ。
煙が彼の口から這い出てくる。足がすくむ。
息を飲んで、私は彼を見るしかなかった。迫ってくる。目をそらせない。いや、どこを見ていいか分からない。
重い足音が近づくたびに心臓が飛び出しそうになっていく。彼はたばこを握りつぶして放り投げた。
足が床に貼り付いて動けないまま、胸ぐらを掴まれ、男の鬼のような顔が視界を埋めた。
服にしわを集めた力強く大きな手を、自分の細長い指を見て、敵わないと痛感しながら。彼の指の間に爪を突き立てて、はがすようにしたいところだが、まったく歯が立たない。叩いたり、爪で突いたりするも、握る力が強くなるだけだった。
「約束を、守るのが下手だな。……おい、こっちを見ろ」
男はため息をつくと私を投げ捨てるように突き放した。床にぶつかる音は、残響を使って室内の空気をより重くした。彼の足が有り得ないほど大きく見える。
「黙ってるからっていい気になりやがって」
男はそう言って、いきなり足で壁を蹴った。私は声も出なかった。窓からの光が彼を黒く見せていた。
目が合ってしまった。睨むつもりはなかったのに。影が近づいてくる。髪を鷲掴みにされる。痛くて声が漏れる。
「それが、親に対する態度か?」
吐き捨てられ、手が放された。震えが止まらない。指先が床を探しても何も掴めない。男は一歩下がり、見下ろす影を落とした。膝が沈む。
「……ち、ちょっと、話し合――」
「謝りもしないな――」
そして――
耳鳴りが止んで、目を開くと、辺りは園庭になっていた。
まだじんわりと分厚い手の感触と頭の痛みが残っている。
足元が冷たい。視線を下にずらす。泥まみれだ。私は水溜まりに漬かっている。水溜まりを撫でてみる。茶色く濁った土のにおい。目玉が奥からがらがらと揺さぶられる。
チャイムの音が鳴っている。足が言うことを聞かない。動いてくれない。
「時間だよ、遅れるぜ」
向こうから男の子の声が聞こえる。声を出せない。てんとう虫が泥まみれの膝に飛んでくる。見ているうちにそれはどんどん沈んでいく。出ようと必死にもがいているが、やがて足も動かなくなっていく。
「えー何この子ウケるー」「きったねぇ。おいおいチビ、なにしてんの?」「泥んこ遊び? よーちな子ー!」
だらだら伸びた袖、見せつけるようにお腹を出した服装、しつこいほど音を鳴らして光るアクセサリー。ありえないくらい大きく見える。前を見れなかった。じっと自分の浸かっている水溜まりを眺め、揺れ動く彼らの姿を気にする。
「な、ここでなにしてんの?」
来た。見られている。首をちょっとずつ戻すと、丸い目つきの男のすっとぼけた顔と目が合った。
「じゃ、俺も遊んであげよっか。楽しい? これ」
舌を転がすような喋り方。背後にいる女二人はずっとコソコソなにか話している。
黙っていると、男は泥に手を入れて丸めだした。ほらよ、と言い放ち、私の顔目がけてそれを投げてきた。ざらざらした頬を触って、手に着いたものを見る。胸の奥から何かが間欠泉みたいに噴き上がってくる。
「泣いたらやめてくれるとか思ってんのウケる」
猿みたいに手を叩きながら笑いだした男は、女二人に向かって手招きした。彼女たちの長い足が音を立てて近づいてくる。
口を閉じられない。息が苦しい。
女二人が笑いながら写真を撮っている。
「こっち向いてよー?」
その一声と同時に息遣いが聞こえなくなった。
目をゆっくりと前に向ける。
カメラのレンズ。その横にレンズ。そしてまた、レンズ。
蛾の羽を集めて壁に貼り付けられているようだ。
息が持たない。近づいてくるように見える。
私の手を後ろから、それは掴んできた。
振り返る。
眼鏡をかけた中年の小太りの男。這いつくばってなにか言っている。かなり強く掴まれている。彼の息は荒い。
園庭は暗くて物が散乱した、少々臭い部屋になっていた。水溜まりに浸かっていたはずの下半身は、いつしか湿気を帯びて重く滑らかなシーツの感触を感じていた。
手首を締め付けてきた。
引っ張られる。手元の布につかまって必死に抵抗する。腕毛を見せた男。だらしなく伸びたシャツにベルトを外したズボン。頬が目をつぶすように引きつる。
彼は息を切らしている。足を掴まれる。靴下の繊維の隙間に爪を引っかけて引きちぎろうとしてくる。
我慢できない。もう誰もこっちに来ないで。来ないで。
そう願った。重く鋭くその音は響いた。
ガラス瓶を一瞬で何百と投げつける勢いで、藍色の氷が自分の手から迸った。
男は血走った目のまま凍っている。部屋も半壊した。タンスもキャビネットも、ライトも。
目前に広がるのは大きな水晶のような藍色の氷塊。家具の破片をのぞかせている。
何かが流れ込み始めた。
濁流が襲ってくる。
見えない。私を飲み込み始める。
寒い。声が聞こえる。
無理だ。死んだ。別れた。無くした。消えた。恨んだ。怒った。
目を押さえたり、耳を塞いだり、頭を振ったりして、私の周りを漂うものを振り払おうとした。
あちこちから割れたり、壊れたりする音。
気づけば凹凸のない石の壁だけでできた、独房の中。誰もいない。ここから出して。それしか考え出せない。
良くない言葉がレンガみたいに積み重なって押し寄せてくる。耳を塞いでも聞こえるし、目を瞑っても見えてくる。
【あの子より忘れたいことなんて山ほどあるのに、ほんと】
【忘れたい】
【死に顔を見たことは?】
【僕がずっとひとりぼっちだった時の話、聞きたい?】
【そんな魔法、あったらいいな】
覚えていたくない。こんなの背負っていられない。
いつか思い出すのが、ただ怖い。
「お願い……。全部、全部。忘れさせて……」
冷えた鉄の扉を前に、耳を両手で覆って、涙と一緒に呟いた。
リンボが私の髪の毛を齧った。




