Episode 4 - II / 長調の私
「いつものを頼む。アヴァ、どうする」
カフェの中は、午後の光で満たされていた。木の壁がほのかに温かい。帽子のつばをぼーっといじっていると、エプロンをかけた誰かがテーブル横に立ってこっちを見ていた。私は何をすればいいのか分からない。手元にはいろんな飲み物がたくさん描かれている紙が一枚。いや、二枚。美味しそう。
「どうするって?」
「こん中から、好きなのをお願いするんだ。店員さんに」
「え、あ、うーん、よくわかんないからジェスターと一緒で……」
「マジかよ、めちゃくちゃ苦いぞあれ!」
ベルジが口を大きくして言った。
「まって、えーっと……」
「レモンティー頼む」
「俺、ジンジャーで」
ティーだのコーヒーだの、似たような名前がずらりと並んでいる。ジェスターの紅茶瓶と一緒じゃないか、と思う。お店の人が静かにお辞儀して戻って行く。周りの控えめな話し声が、虫の囁きみたいに聞こえてくる。ティーカップを手に取る音とコースターに置く音の方が大きくて、天井までよく響いていた。
さっきからベルジと目が合わない。私は彼が話している時はずっと目を見ているのだけど、視線はひたすらジェスターの方へ泳ぎ続けている。そのことを口に出すのも、なんだか水面を乱しそうだった。でも、つい言い出しそうになる。
「お気に入りを探しとくんだな」
「何年かかるの……」
「そんな大変じゃないけどなー。コーヒー以外ほぼ甘いもんしかないよ」
ベルジがメニューの写真を指で囲いながら言った。
そんなちょっとした話をしていると、お店の人が盆を持って戻ってきた。これがレモンティー。琥珀みたいで綺麗な色だ。ジェスターのは黒に近くて、湯気を立てている。この何層も重なったような、少し埃っぽい香りは、おそらくコーヒーだ。ジンジャーと言っていたベルジのグラスは、泡が音を立てて上っている、見た目にも爽やかな飲み物だった。
「ごゆっくり」と言って、お店の人は目を細めたまま立ち去った。
とても細長い、紙の筒が刺さっていた。これはなんだ、とまじまじと私はそれを見た。これはレモンティーを美味しくするための何かなのか。でも空洞だ。つまんでみても、押し込んで潰してみても、何も出てこない。
「アヴァ……?」
ベルジが苦笑いしながらこちらを見て言った。彼の表情を見て、私は顔を隠したくなった。
「それ、ストローっていうんだよ」
「……な、なにするの、これ」
「蝶々が蜜を吸うみたいにして使うんだ。見てて」
ベルジは机の端に置いてあった小さな箱から、ストローを取り出した。ジンジャーにさして、それを咥える。彼の口がしぼむのが見えると、うっすらジンジャーが上がっていくのが見える。これは飲むための道具だったのだ。
私もさっそく真似してみる。くわえて、吸うようにして――。
「なにこれすごい。それにこれ、美味しいね」
「レモンティーは好きそうだと思ってた」
酸っぱくて甘い。ほんのり柑橘系の苦味も混じっている。ジェスターには悪いかもしれないけれど、紅茶よりはこっち派かもしれない。ストローをくわえて一口、二口。こんなに細い穴を上がってくるなんて、不思議。ベルジの飲んでいるジンジャーはどんな味がするのだろう。
「ベルジくん、それどんな味す――」
ベルジのグラスが、もう空になっている。氷が、底でカランと鳴った。
「え……」
「ん、これ好きでさ。勢いで飲んじゃうんだよねいつも、ははは」
手をいっぱいに広げたくらいの長さはあるグラスだったのに。ちょっとずつ飲むものではないのか。ジェスターはただ鼻で笑った。
ピアノの高い和音が響いている。どこからか音楽が流れている。弾んでいる。コントラバスの弦が指板を擦る音も、よく聞こえる。ベルジは氷だけになったグラスを、繰り返し口に運んでいる。小さくなった氷は、音を立ててかじっていた。
「そうだ、よく調べられたな?」
ベルジのグラスから氷が無くなると、ずっと笑みを浮かべていたジェスターが口を開いた。
「つっても家の名札をざざっと見ただけですよ」
「ご苦労さん」
「まあ休みだったんでね。結局、何もわかんなかったけど――あ、昨日ほんとにごめんな、……怒ってない、よな?」
「ん」
急に私の方に声がぶつかってきて、何のことを言っているのか、一瞬分からなかった。鳴っている音楽にすっかり耳を奪われていた。
「お前に、その、銃ぶっぱなしたろ、俺」
「ああいいの、全然。助かったから」
本当にそう言っていいのか、言葉を吐き出したあとで迷った。ベルジは、ふう、と怪物から逃げきれたみたいな表情を浮かべた。
「良かった……俺ずっと気にしてたわ……。もっかい会ったら謝ろうと思ってたんだけどさ、頭が回んなくてさっき忘れてた」
ベルジはもう何度も謝っている。でも、怒ってないかと言われると、それはやっぱり嘘になると思う。ここでそれをそのままぶつけても、人柄からして、彼は全部抱え込んでしまいそうだ。
「でも怖かったよ。もうちょっとさ、あるんじゃない?」
「うん……俺もいろいろ、気をつけてるんだけど、なかなかなぁ」
相変わらず、目が合わない。そんなに私は鬼みたいな顔をしているだろうか。でも、怒っているつもりはまったくない。彼にもそうは見えていないはずだ。出会った時から、彼と目が合ったのは指で数えられるほどしかない。
「ベルジくん……」
「な、なに?」
「なんで目……合わせてくれないの?」
ずっと思っていたものだから、つい口に出してみた。良かったのかどうか分からないが、彼の目の魚がすごい勢いで暴れだした。体まで揺れている。そんなに大変なことを言っただろうか。ジェスターにいつも話しているみたいにしてくれればいいのに。
「こ、こうか、あれ?あはは、目、合ってなかった?あれ?ははは」
「ん?」
「いや、べ、別に……」
くすくすとジェスターがずっと笑っている。動揺、というのか。レモンティーがさっきより酸っぱく感じる。冷めてきたからではない。内緒話を目の前でされているみたいで、むず痒い。
「ジェスター、ベルジくんがおかしい……」
「ベルジはあんま人付き合い慣れてないんだよ」
カップで口を隠しながら、ジェスターがそう言ったのが聞こえた。
「ちょ、ちょっと……!」
「そうなんだ、意外」
レモンティーをもう一口。ほんのりと甘くなった。図星な感じが彼らしい。ころころと周りの言葉に流される感じ。私が強く当たってしまった時も、すんなりと別人みたいに態度を変えていた。
「ベルジくんおもしろいね」
「え?あ、ありがとう……?……ありがとうって、なんだ?」
私はくすくすと笑ってしまった。自分が人を茶化していることに、不思議な気持ちになった。私だって人付き合いは慣れていない。ジェスターみたいにいろんな言い回しで会話を弾ませられるのには憧れている。
「ベルジ勘違いすんなよな、褒め言葉じゃないからな」
「え、そんな」
「ジェスター……」
「冗談だよ冗談」
三人いっしょに笑うのは初めてだ。ベルジが一瞬だけ、私を見た。すぐに目をそらしたけれど嬉しかった。
先の見えなかったあの時からは想像ができなかった今。やっぱり、起きるまで何が起こるか分からない。私の過去だって、思いもよらないところで目の前に現れたりするかもしれない。そう考えると、少しだけ前向きな気持ちになれた。
「あ、甘いもん、食べたい……」
ベルジはほっぺを膨らませてメニューを見る。人差し指で音を立てながら。口に出さずとも、すぐ体に出るみたいだ。本当におもしろい。
「パフェ……!アヴァ、パフェ食ったことある?」
「ぱ?……ん?」
「無いな!よしパフェ2つ!と、取ってくる!」
足場がぐらついているかのように、ずっと安定しない歩き方で席を外した。ジェスターは仕事が終わった時みたいな表情でため息をついた。
「あいつ……分かりやすいよな」ジェスターが一口。
「ベルジくん人付き合い慣れてないって、ほんと?」
二人きりになったから、気になっていたことをジェスターに聞いてみた。彼はコーヒーを飲んでいる最中で、私の言葉にスプーンの音を鳴らしながら吹き出した。慌てて咳払いをして、ハンカチで拭き取っている。
「え、ごめん、なんか聞いちゃダメだった……?」
「いや、そんなはっきり言うもんだから……」
ハンカチを丁寧に折りたたんで、カップの横に置いた。
「あいつは――ひとりぼっちだ」
「そうなの?ベルジくんも、迷子とか?」
「いや、そうじゃない。ひとりぼっちっていうか、あいつの友達を見たことないんだ。常に見てる訳じゃないから、ほんとのところはどうだか知らないけどな。でも休みの日とかはよく来てくれたり、それに、あいつの話を聞く感じはな」
「友達……」
「一緒に遊んだり、くだんない話しても楽しいって思える人のことだ」
「ベルジくんだ」
「それ聞いたらあいつ喜ぶぞ?いや、言わない方がいいかな」
「どうして?」
「まあ、嫌なもんなんだよ」
「ベルジくんもいっぱい悩み事あるんだね」
「あったりまえよ。平気なフリしてるやつが実はめちゃくちゃ苦労してたりな?」
「ジェスターも?」
「俺?フリに見えるか?」
「ぜーんぜん」
静かに私は笑いながら、ティーカップをコースターに置いて、遠くにいるベルジを見た。家のと比べ物にならないほど広そうなキッチンを背にした女の人と話している。メニューでも置かれているのか、指をさして口を動かしていた。とても難しそうな顔をしている。パフェっていうものは、あそこまでしないと食べられないのだろうか。彼の目線の先を見ると、女の人の首あたりだった。
「私と話してる時、なんであんなにあわあわしてるんだろ」
「……お前を相手にしてから変な調子の狂い方してる。まあ、うん」
「私……そんなに怖いかな。許してるのに……」
「いや、そういうんじゃなくってな、ありゃたぶんお前のこと好きだぜ」
「……じゃあそう言えばいいのに」
納得いくような、いかないような。そこまで調子を狂わせるほど、私は何かを言っただろうか。ジェスターの言うベルジ像が、私の知っている彼と乖離しすぎている。ぜんぶ受け入れてくれるような優しさで接してくれている。こんなによく私の事気にかけてくれるのに。
「ど、どっちがいい?チョコ多めか、クリーム多めか」
「私は分か……いや、チョコで」
「だと思った!」
大きなグラスにめいっぱい入った白くて冷たいクリームに、カラフルな粒粒が振りかけてある。濃い色のチョコレートが覆いかぶさっていて、その上にまた白。見た目以上に重たくて、つい落としそうになった。
ベルジが私の前に座って、目まぐるしい速さで食べ始める。まさに誰かと競うような速さで。
上から慎重にスプーンですくって口へ運んでみる。甘くて冷たい。溶けて一瞬で飲み物みたいになる。舌が麻痺しそうなくらい、レモンティーの後味が跡形もなく消えてしまう。でも、信じられないほど美味しくて、たぶん私の頬はずっと上がっている。
「パフェ?だっけ、私好き」
「よかったー、ここ来たら食わなきゃ」
「冷たいのは懲り懲りだぜ……」
ジェスターはコーヒーを全部飲み干した。空になったカップがベルのように、スプーンの音を響かせた。
「ねえ、ベルジくんって私のこと好き?」
それを言った途端に、ベルジは飛び出しそうな目と口に含んだクリームを受け止めるように前かがみになった。ジェスターは歯を見せて、口の奥をしめて声をこらえている。なぜか静まり返っているものだから、体を小さくした。
「……えと、え?あ、なんて、いえばいいんだっけ、あはは……」
「そんなに、迷うことなの……?」
「え、いや、めっちゃストレートに聞くなあって……」
「私おかしいことゆった?……ジェスターも、なんで笑ってるの?」
「嫌いじゃない……じゃなくて、うん、好き」
「よかった、嫌いじゃないんだ」
クリームが甘く感じた。ベルジの声が震えているのも、ジェスターがお腹を抱えているのはよく分からないけれど、私は今、両足で立てていることを確かめられたような気持ちになっている。
「……話、変えるけどアヴァ、気になってたんだ、車とか本当に知らなかったのか?」
ベルジは口に含んだものを飲み込んでから言った。
「最初見た時、乗り物かなとは、思ったんだけど……。はじめて見た」
「パフェも知らなそうだしさ、やっぱ普通じゃないよ。ほんとにもっと、病気とかそっち系じゃないかと思うんだけど」
「病院の先生は、体には問題ないって……」
「って言われてもな――そんなに酷い記憶喪失聞いたことないからさ」
先生の言っていた、記憶の粒みたいな概念。私の思っているよりも記憶というのはもっと、手に取って自由に扱えたりするものなのかもしれない。そんなことができるのなら、とっくに私の記憶は戻っているはずだ。それは叶っていない。
すっかり溶けてしまった下の方のクリームもすくって、ぜんぶ食べ終えた。またここへ来た時にはぜひ食べたい。ベルジの食べていた、クリーム多めの方でもいい。チョコレートは好きだった。
「美味しかった。ちょっと、体冷えた」
「良かった、まだいっぱいメニューあるからさ、また今度来ようぜ」
「ありがとう」
「ジェスターさん、パフェ代もぜんぶ、俺が払いますからね!」
「いつもそうしてくれ」
音楽が変わっている。さっきよりもテンポが上がっている。川のせせらぎに鳥のさえずりみたいなフレーズだったピアノが、つい足でリズムを取りたくなるスウィングになっていた。つられて体が揺れて、首が横へ動く。
「アヴァ、もしかして音楽好き?」
動いていたのに気づかれていたらしく、顔を隠したくなった。ずっと目合わせてなかったくせに、私がそっぽ向いている時は見ているんだ。なんだかずるい。
「うん。なんだか音楽って、作った人の思いとかがさ、ギュって固まってる結晶みたいで。ああ、昔の私が音楽家なら、絶対その曲聴いて思い出すのに」
「……なんかすげえ芸術家みたいなこと言うな。ほんとに音楽家だったんじゃないか?」
「まだ16だぞ」
「16!?同じじゃん!」
「でも今までのこと覚えてないし、16年も生きてる実感ぜんぜん無い」
「え、じゃあ0歳?世界一でかい赤ちゃんだなー」
くすくすと、迷惑にならないくらいの声で三人で笑いをこらえる。ジェスターは咳払いを繰り返し、ベルジは太ももを叩いている。くだらない話をしている時が、実は一番くだらなくなかったりするんだろう。だからこそ、日常の中の小さな橋みたいな時間が光るのだと思う。今日ここへ来て、本当に良かった。
音楽が、さっきより少しだけ明るい方へと転調したように聴こえた。




