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ビヨンド オブリヴィオン / BEYOND OBLIVION  作者: 蓮田 希玲
BEYOND OBLIVION / CHAPTER 1

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Episode 4 - III / いつか今日を懐かしむ私

「じゃ、またな。元気そうでよかった」


 外に出るとすっかり、太陽は寝る準備を始めていた。雲にできた影が、彼の炎の魔法のようにきらきらと煌めいている。残った青色との境目は、上から砂浜を見ているみたいだった。その下、大好きなカフェの前で、ベルジとも今日はお別れ。彼はあの路地裏で会った時の顔をかき消すような表情をしていた。


「待て、まだ帰るな。ほら」


 ジェスターはベルジを呼び止めて、ごつごつとした長財布からお金を取り出した。カフェで払っていた分より、気持ち多めに見えた。カフェに行く前は嫌々な顔をしていたのに、今は力を抜いているように見える。


「え、せっかく俺払ったのに……」

「いいんだ。俺一人じゃ、アヴァはあんなに楽しそうにしなかった」


 そんなことないよ、と彼らに聞こえないように口の中で私は言った。事実、ベルジがいたから、今日はより楽しくなったんだと思う。彼に対するちょっとしたモヤモヤや偏見も、少し晴れた。あの落ち着きのなさ、それが彼らしさなのだと受け止められた。衝動的なところを思い返すと、また何かにしがみつきたくなるけれど、きっと大丈夫。


「じゃあ、ありがたく」


 ジェスターから両手で受け取ったお金を、ベルジは大事そうに胸のポケットにしまった。


「ベルジくんも、元気でね。また」

「あ、ああ。次はもっと……なんか遊べるとこ行こうぜ!」

「もちろん。気をつけて」


 彼の目は輝いていた。私は小さく手を振り続ける。昨日と似ている。でも違うのは、彼がスキップでもするみたいな足取りで帰っていくところ。私はまだ知らないこともいっぱいあるし、彼より未熟なところはたくさんあると思う。そんな立場から言えることかは分からないが、どこか子供らしさを、彼の後ろ姿から感じた。


「ベルジくん、おもしろいね」

「ふん、あんなに楽しそうなのは久々に見た。お前にもお礼しないとな」

「もう十分。私、今とっても楽しいよ。こうやって、気を逸らしてくれるっていうか、嫌なことを忘れられる時間って大事だと思う」

「はは、お前が言うと説得力があるな。まあそう言わずに」


 ジェスターは私の背中を軽く叩いて、「行くぞ」と小声で言った。


 カフェ前の緩やかな坂道。肌寒さが吹き飛びそうなオレンジ色に染まっている。帰るのかと思いきや、ジェスターは坂道を登り始めた。帰らないの?と聞いてみたかったけれど、横顔を見て、その答えを得られた気がした。


 商店街を抜けると、広場に出た。それなりに高い場所で、木でできた柵のそばへ行くと、海が地平線の向こうまで広がっているのが見える。磨かれた宝石の放つ小さな光みたいに、ゆらゆらと太陽と空からの光を私の目に届けている。時折それが星の形に見えたりもする。


「わあ、きれい」


 見れば見るほど、夕焼けの色が濃くなっていく。絵の具で上から塗り重ねていくように。


 ジェスターが「見てみろ」と指をさす。その先には、影絵みたいにシルエットだけを見せた、とてつもなく大きなお城。先の尖った塔がいくつも組み合わさっているように見え、時計塔もたくさん見える。ネーベを囲んでいた塀が向こうまで伸びている。海の上ではアーチを作って、長く続く橋になっていた。その上を、笛の音を鳴らす乗り物が走っている。


「あれが都、ルネだ」

「あれが?すっごい……。あんなのどうやって建てたの?」

「さあな。俺はあんまり歴史詳しくない」

「海の上だよ?」

「島まるごと、お城になってるんだ」

「ええ……」


 ジェスターの家族がいるという都は、想像を絶していた。ネーベと比べて堅牢で、二区で感じた華やかさは無いように見える。影のせいで黒く見えているからかもしれない。ケーキのように何層にも重なっているみたいで、雲がかかるほどの高さの塀もあった。尖った屋根はまるで蝋燭だった。四区で感じた寂しさを醸し出しているようでもあった。


「たまにここで、じっと海を見てるんだ。ロマンチストだろ」

「なになに?」


 ジェスターは脚に苔がこびりついた、低めのベンチに腰掛けて言った。隣を手でトントンと叩いて合図された。私は隣に静かに座り、帽子を取って膝の上に置いた。彼の横顔は、誰かの帰りを待っているかのようだった。目線を海へ映すと、あのカフェでの何気ない時間に心を奪われているのが分かった。頭から離れない。この気持ちは、ベルジを見送った時からずっとあるが、不思議とそれが強まった。


「どうだ。何か、こう、出てこないか、あれを見て」


 たしかに言われてみればそんな感覚がある。けれど言葉にできない。見れば見るほど、初めて見るわけではないような気がしてくるのに、確かな感覚とは程遠い。


「うん。今日ほんとに楽しかったなって」

「はは、良かった。なんでか分からんが、夕陽を見ると、なんかこう、一気に込み上げてくるんだよな。俺はそれが好きで」

「こみあげる?」

「ああ、いろいろとな。戻りたいなーとか、こうすればよかったーとか。いろんなこと考えるんだ」

「綺麗だから?」

「ううん、一言じゃ片付かない。懐かしいってのにもちゃんと色があるんだ。花と一緒さ」


 海の面と空の面がひとつになる。歪んだ像が互いに干渉しあって、不思議な瞳のような模様を作っている。それに向かって、後ろから這い上がってくる夜空が手を伸ばして、太陽を押さえつけていく。それでも光はまだ、雲を使ってメッセージを送り続けている。


「私は……よく分かんないな。懐かしいって、どんなだろ」

「帰りたいような、会いたいような……?言葉じゃちょっと安すぎて。たぶん、人によって違う」

「夕焼け、綺麗だけどさ。なんだか寂しいような、切ないような。今日も終わっちゃうんだな、って思う」

「ふん、それも確かに。あと俺は、空だけはどれだけ経っても変わらないからか、子供ん時も思い出すんだ。そういうのが、懐かしいって感じを呼ぶ」

「ん……。私、そういうのは、ないかも」

「……そうか。最高の魔法なんじゃないかと思ったんだけどな。記憶って脆いな」


 ジェスターは自分ごとのように悔しそうだった。木の葉の擦れ合う音が歯ぎしりに聞こえた。彼は空気が抜けていく風船みたいに肩を落として、両手の指を絡ませていた。


「こんなこと言える立場かどうか、分からんが、お前がほんとに、かわいそうだ。本当に。……子供ん時のこととかはな、だいたい結構、覚えてるもんなんだ」

「そう、なの?」


 彼の話に少し置いて行かれそうになって、帽子を手で押しつぶしていた。ジェスターは歯をこするように口を横に動かしている。


「どっかでふと思い出したり、知り合いと笑い話にしたり、写真を見て、そんで、時代の移り変わりとかも、変わり果てた街並みを見て、感じて。どんなに時間が経とうと、みんな大切に持ってるもんなんだ」

「そう……」

「だからだ。お前がベルジと話してるときにずっと、考えてた」


 私は自分の思っているよりも、ずっと酷い状態なのかもしれない。私の、ある意味空っぽな頭からは実感が難しいのだと思う。当たり前にあるはずのものが当てはまらないって、他人から見ると不気味なことなんだろう。かわいそう、という言葉も、そう思われているんだと言われるまでは想像ができなかった。


「好きなものは?アヴァ」

「え、好きなもの?好きなもの――うん、紅茶」

「はは、お前ってやつはほんとに……」


 ジェスターは頭の後ろのほうをかきながら何かを考えている。こっちに顔を見せないまま、立ち上がった。虫の声が聞こえてくると、彼は口を開いた。


「いつかこの日を懐かしむ時が来る。そん時のために、目に焼き付けとけ。今日の思い出もしっかりな」


 この景色は忘れるはずがない。彼の前向きな言葉も含めて、この瞬間は絶対に。太陽もまた、手を振るようにして去っていくが、あなたのこともはじめてこうして見たんだ。カフェだって、ベルジだって。病院で言われた残念なことも、あの信じられないことだって、はっきりと思い出せる。


「懐かしいって、カフェのこと思い出したりすると感じるもの?」

「ちょっと違うな」

「え?」

「何かを懐かしむには、時間が必要だ。それに記憶も。覚えてないと」ジェスターは自分の頭を指でつつきながら言った。

「それか、昔のことを思い出せたら感じられるかもな。まあ、時が経てば分かる。欲しくてもすぐに手に入るもんじゃない。手に入れようとするより、ふっと来てくれた方がいいしな?」


 膝元で潰していた帽子を、彼は手に取って形を整えた。何も言わずに、ただこっちに微笑みかけて。瞬きがおさまらないままにただ微笑み返した。


「カフェ気に入った?」ジェスターが帽子を私の頭に乗せてくれた。自分で整えながら「うん。また行きたい」と返す。


「今度はもうちょっと、ベルジで遊んでみるか」

「えへへ、楽しみ」

「よーし。……ああ、そうだ。せっかく来たんだ。写真、撮るぞ」


 ジェスターがポケットからなにやら黒い板のようなものを取り出す。光沢のある面が光って、写真か何かが映っている。彼が指で触れると、それに合わせて動く。指を滑らせると同時に、絵も滑る。なんだろう。私は空き缶の口みたいに口を開けたまま、ぼーっと見ていた。


「これも覚えてないのか」

「うん。なにこれ」

「若い子はみんなつっついてるんだけどなこれ。それはいいんだ、これはな。えーっと、なんて言えばいいんだろうな。スマートフォンだ。スマホ。まあ、色々できるんだ。えーっとカメラは……」


 写真の上に写真。その上にたくさんの絵が動く。カードを上からいろいろ重ねているみたいだ。街灯の明かりより眩しく感じるのはなぜだろう。こんなに小さなものから……。今まで見たどんなものよりも魔法に見える。生活を便利にしてくれるものに違いない。スマホ。不思議な道具。


「あった、これだ。ふう、あんまりまだ慣れないんだよなこれが……。よしこっち来い。はやくしないと真っ暗になっちまう」


 消えかかる夕陽を背にして、ジェスターの傍に立つ。頭二つ分くらい身長差がある彼は、腰を低くして私の頭の高さと合わせた。スマホには私の顔と彼の顔が鏡のように映っている。瞬きをして、本当に自分かを無意識に確かめた。


「ああ……、写真撮る時はな、手をこうやって、ポーズとるといいぞ。最近の流行りはこんなのか?まあ、何かしらすりゃいんだ」


 人差し指と中指をめいっぱい伸ばす形。親指と人差し指を交差させる形。握りこぶしや手のひらを広げる形。最初の、めいっぱい伸ばす形にしよう。顔の近くに手を寄せてみる。ジェスターも同じポーズをとった。


「よし撮るぞ、はい――」


 カシャ、という音と一緒に、眩い閃光が目に突き刺さる。私もジェスターも、「うわ」と声を出した。赤いような緑のような、光の形が視界に残っている。


「今の、なに……!?」

「悪い……フラッシュだ。切り忘れた。もっかい、いくぞ」


 彼のミスのようだった。とんでもない事でも起きたのかと思った。けれど今度は、カシャ、という音だけだった。鏡みたいに私たちを映し出して、一体何をやっていたんだろう。


「ふう、ほら」


 私とジェスター。さっき映っていたのと同じ。写真だ。しっかりと撮れている。私の顔は──今まででいちばん良い笑顔。ジェスターに負けないくらい。肉眼で見るより色が鮮やかだ。私と彼の間から、太陽が少し顔を出している。二人の輪郭を、オレンジ色が縁取っている。


「すごい……!良い!」

「よく撮れてる。はは、ベルジと一緒にカフェの前でも撮ればよかったな」

「また会った時撮ろ?」

「そうだな」


 かつてこうして、きっと絶対に忘れたくないと願った一瞬一瞬も、今は跡形も無くなっている。今日の記憶もいつか、ふとした時に消えてしまうのだろうか。いや、そうはさせない。


 いつかこの日を懐かしむ時が来る──私は、彼が夕陽を見て感じていたもの、言っていたことを掴もうと思ったけれど、難しかった。それでも確かなのは、十年後、二十年後に、またここにこうしてジェスターと来た時は、絶対に今日を思い出すんだということ。何を感じるかは、まだ想像がつかない。けれど、決して悪いものじゃないということだけはわかる。


 この写真、手元に取っておきたい。私はそれじゃなくて――もっと……。大きなもので……。なんなのだろうか、この何を描くのかを決めているのに、描き方が分からなくていつまで経っても形にならない感覚は。


「さて、帰ろうか。帰ったら――そうだな、また紅茶でも選んでみるか?」

「今度は美味しいの選んでみせるよ」

「さあどうかな」


 街灯がともり始め、霧が屋根と屋根の間に溜まっている。車が石を踏む音も、すっかり聞こえない、静かな夜がやってきた。


「お前の家が見つかったら、写真刷ってやるからな」

「今日のだけじゃなくて、これからのもね」


 帰り道、黄金に光る時計の影絵を、鐘の音と合わせて写真を一枚。噴水広場で一枚。撮るたびに溶けていく感覚があった。洗われるようでもあった。こういう時間の永遠を願った。また寝る時間が近づいてきて、また朝がやってくる。明日は何が起きるのかわからない。また今日みたいなことがあるんだと知っていれば、こんな気持ちにはならないのかもしれない。

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