国民的スター
いま「国民的スター」と呼ばれる「カテゴリー」が窮地に立たされている。
スターが大衆性を持つために必要な「共通認識」を生みだす装置そのものが分散され、「局地化」されてしまったためだ。
国民的スターを名乗るための要件である「国民の9割が、その名前を知っている」状態を作り出すには、各メディアによる「共犯」がなければ、成し得なくなってしまった。
今、かろうじて国民的スターと呼べるのは、若い人物では「大谷翔平」くらいだろう。だが、この後に続くスターを生みだすためには、共犯者を引き入れるための多くの「広告」を打つ必要が出てくるはず。―― ひと昔前であれば、井上尚弥なども、この位置に届いたかもしれない。だが「無関心層」では名前の記憶すら曖昧な存在になっている来ているのが、現状の井上である。
国民的スターは、半ば「押し売り」によって創られる。
かつて、その玄関先はテレビだけで事が済んだ。
しかし今や、その玄関は方々に分散され、「マス」が「局地的なコミュニティ」へと変貌を遂げた。
紅白で「初めて見る」アイドルを「国民的アイドル」と言われても、もうほとんどの人間が、ピンと来ない状況である。
また「昔はオーラびんびんの大スターがいたもんだが」―― と、したり顔で語る老人には、現在の光景の「背景」が果たして正確に見えているのだろうか?
この話。よくよく考えれば、これまでにはあった「大衆」と呼ばれる概念そのものが、消滅へと近づいている。と言い換えることも出来るのかもしれない。
マスという「共通認識を生みだす装置」を失った先の社会には、いったい何が待ち受けているのだろうか。




