AI生成作品に対する冷笑主義
最近、YouTubeのショート動画を見ていると頻繁に見かけるようになった「これAIだろ。くだらねえ」のコメント。衝撃の場面を映した動画。動物が出てくるようなものでは、特にこの文言が目立つ。
正直なところ、筆者は「どっちでもいい」と思っている。
リアルならそのまま驚き、AIならその「アイデア」を楽しめばいい。
皆が「現実」として受け取ってきた、これまでの映像にしても「やらせ」を疑うものは数多く、それをイチイチ気にしていたら、「奇跡の瞬間」はいっさい楽しめなくなる。
街ブラのロケにしても、一か月前からスタッフが現地を回り、当日訪問するお店のひとたちに約束をつけ、客や道を歩く通行人すら、先にピックアップしておいて撮影するのが常。タレントたちはそれを「飛び込み」として演じるというのが、「リアルなロケ現場」であり、そういった台本がなければ、「よく出来た偶然」などは、なかなか発生しない。
大阪の商店街、ファンキーなおばちゃんがチャリで撮影しているタレントの前を横切るハプニング。「よーい、スタート!」から始まり、タレントが大げさにリアクションし、「この商店街はワイルドなひとがほんまに多いなぁ~」などという撮影現場をこどもの頃から見ていれば、それにつっこんでいる人間の方が「いちいちピュアか」ともなる。
―― 写真一枚撮るにせよ、ボクらはそのシチュエーションや構図を意識し、その風景の「演出」を始める(時には加工も加える)。動画生成AIは、その演出の極致を楽しめるツールでもあるため、「想像力のタガを外す」という意味では、非常に有用。ただ、それでもクリエイターの大半は「現実に起こり得る範囲」での自主規制をかけるのだから、「想像しうることは起こり得る」の精神で、それを楽しめばいい。
スピルバーグ作品に対し、「これ、ただのCGやん」などといえば、「どんなピュアやねん」とツッコミが入るようなものである(この喩え合ってるのか?)。
AIへのツッコミは、昭和のじいさんが「新たな文化」に対し、冷笑していたのと同じ光景。かつては笑われた側の文化を愛していた自分が、じいさんの役回りを現在は演じている。―― そのことに自分で気付ける冷笑家たちは、いったいどのくらいいるのだろうか?




