第1章 (第8話) 『運命の師弟』
※ ※ ※
目の前の重厚な木製テーブルが、まるで氷点下まで冷え切ったかのように感じられた。
俺は固まったまま、噛みかけの硬いパンを頬張っていた。頭の中では、オルシクがさっき口にした言葉の意味を理解しようと、必死に思考を巡らせていた。
「……教団? 待て。ちょっと待てよ、おい」
俺、完全に適当なこと言ってただけなんだけど!?
俺はただ、身元も装備も常識もないことを誤魔化すために、手っ取り早くそれっぽい言い訳をしただけだった。
ファンタジー作品でよくある、ありきたりな設定のつもりだったのだ。
だが、オルシクの険しい表情と、鋭い眼差しで考え込むルイスを見ていると、背中に冷たい汗が流れ始めた。
……村を焼き払う教団って、この世界じゃ実際に活動してるヤバい連中なのか!?
うわぁ……やっちまったな、潤也。自分から罠に飛び込んだどころか、わざわざ自分で罠を作ってやがる……!
ルイスは考え込むように眉をひそめ、ちぎったパンを見つめていた。まるで戦場の地図でも分析しているかのようだった。
「いや……」
彼はゆっくりと口を開いた。
「確かな証拠もないのに、憶測だけで決めつけるべきじゃない。だが……」
そこで、ルイスは言葉を切った。
口にされなかった言葉が、重苦しい空気となってテーブルの上に漂う。
さっきまで俺たちの席を包んでいた酒場の賑やかな雰囲気は、いつの間にか消え失せていた。
ほんの少し前まで、俺たちは笑い、酒を飲み、馬鹿みたいに料理を頬張っていたというのに。
今では、経験豊富な三人がそろって、何か恐ろしいことでも考えているかのように沈黙していた。
アエラルは視線を落とし、緑色の髪の間から覗く尖った耳をしょんぼりと垂らした。
「……変なことを聞いてしまって、本当にごめんなさい」
彼女は心から申し訳なさそうに呟いた。
「いや、大丈夫だよ」
俺は慌てて手を振り、何とかこの重苦しい空気を和らげようとした。できる限り気楽に見えるよう、無理やり笑顔を作る。
「本当に気にしなくていいから」
……とは言ったものの、内心では罪悪感に押し潰されそうだった。
はぁ……次からは、もっとマシな身の上話を考えておかないとな……。
つい三十秒前に即興で作った悲劇の過去を、彼女が本気で気に病んでいる。
このまま彼女が自分を責め続けたら、俺の良心が先に限界を迎えそうだった。
架空の故郷が焼け落ちた話から何とか話題を逸らそうと、ルイスは隣に座っている少女へと視線を向けた。
「番堂さん、一つ聞いてもいいかな?」
礼儀正しい口調に戻っていたが、その瞳にはまだ好奇心が残っていた。
「どうして君にはマナがまったくないのか、何か心当たりはあるかい? いきなりこんなことを聞いて申し訳ないんだけど、どうしても気になってね。この世界では、マナは生命そのものの源だと考えられている。だから、マナがまったく存在しない人間がいるなんて、普通じゃ考えられないんだ」
愛子はようやく大量の肉を飲み込むと、満足そうに小さく息を吐き、何でもないことのように頬を掻いた。
「さあ? あたしにもわかんない。たぶん、あたしって特別なんじゃない?」
……出た。
ギルドで聞いたのと、まったく同じ役に立たない答えだ。
俺は額を押さえた。
この場にいる全員が、今の「特別」という言葉に疑いの目を向けたに違いない。
特別?
ただの頑固者の間違いだろ。
「すみません。こいつ、ちょっと……前向きすぎるところがあるんです」
俺はルイスに申し訳なさそうな視線を送りながら、慌てて口を挟んだ。
「はぁ!? 何よ、それ!」
愛子が俺を睨みつける。
俺はそれを完全に無視し、話題を変えるべく身を乗り出した。
「それより! えーっと……今までに受けた依頼で、一番難しかったのって何ですか?」
ルイスは顎に手を当て、考え込んだ。
話題がいつもの冒険者らしい会話に戻ったことで、張り詰めていた空気も少しずつ和らいでいった。
俺は彼の様子を観察した。
このパーティーの関係性は、なかなか興味深い。
真剣な話になると、皆が自然とルイスに意見を求めている。普段は遠慮なく自分の意見を口にするオルシクでさえ、さっきの教団の話ではルイスの判断に任せていた。
……なるほど。
やっぱり、こいつが間違いなくリーダーなんだな。
「間違いなく、魔将軍だね」
ルイスは表情を引き締めて答えた。
「俺も同感だ」
オルシクも力強く頷いた。
アエラルも静かに頷く。
「間違いありません」
……魔将軍、か。
俺は興味をそそられ、少し身を乗り出した。
やっぱり、この世界ではゲームや物語に出てくるような悪魔も、実際に存在する魔物として扱われているらしい。
「以前、俺たちは地図作成のための調査中に、誤って闇の大陸へ転移させられたんだ」
ルイスが説明を始めた。話の深刻さに合わせるように、彼の声も少し低くなった。
「それも、闇の森のど真ん中にね。人間の住む地域へ戻れる魔法陣を偶然見つけられなかったら、あそこで全滅していたかもしれない」
「魔法陣を見つけるだけなら簡単だったんだがな」
オルシクは荒っぽく笑いながら、ジョッキを持ち上げた。
「その魔法陣を守ってた魔将軍が、とんでもなく厄介な野郎だったんだよ」
ルイスも小さく笑った。
「まったくだ」
三人は、あのときの命懸けの脱出劇について語り始めた。
見知らぬ森を覆う、息苦しいほどの闇。
鋼と闇の魔法がぶつかり合う、激しい戦闘。
そして、逃げ道を必死に探し続けた時間。
俺は自分でも驚くほど真剣に、彼らの話に聞き入っていた。
危険な未開の森。
予想もしなかった転移。
圧倒的な力を持つ敵との死闘。
……想像するだけでも恐ろしい。
それなのに。
彼らの冒険譚を聞いているうちに、俺の胸の奥で、今まで感じたことのない何かが小さく燃え始めた。
いつか俺も、自分自身の冒険を経験してみたい。
そんなことを、本気で思い始めていた。
もちろん、今すぐ強敵だらけの森に突っ込むつもりなんてない。
俺だって、そこまで馬鹿じゃない。
……いや、そこまで馬鹿じゃない、はずだ。
それでも、この広大な世界を探索し、自分に何ができるのかを知り、どんな困難にも立ち向かえるくらい強くなる。
そう考えると、不思議と胸が躍った。
……あ。
そういえば、もう一つ聞きたいことがあった。
俺はスプーンをそっと置き、軽く咳払いをして皆の注意を引いた。
「すみません。俺みたいな人間が魔法を使えるようになるには、どうすればいいんですか?」
その質問を口にした瞬間、全員の動きがぴたりと止まった。
何人かは、スプーンを持ち上げたまま固まっている。
そして、示し合わせたかのように一斉に俺を見た。
……え?
俺、また何か変なこと言ったか?
ルイスは首を傾げ、心底不思議そうな顔をした。
「待ってくれ。君、暁の魔法学院には通っていなかったのかい?」
……暁の何だって?
魔法学院?
……そりゃ、学校くらいあるよな。
何で俺は、そんな当たり前のことを考えもしなかったんだ?
冒険者がいて、魔法陣が機能していて、悪魔が住む大陸まで存在する世界だぞ。
魔法を専門的に学ぶための教育機関があっても、何もおかしくないだろ。
……この世界の基本的な仕組みを、わかった気になって考えるのはもうやめよう。
「いえ、通ったことはありません」
俺は正直に答えた。
ルイスはオルシクと意味ありげに視線を交わしてから、再び俺へと向き直った。
「そういうことなら、魔法の基礎くらいは僕が二人に教えてあげてもいいよ。ただ、魔法使いのクラスを本格的に学びたいということなら、残念だけど僕では力になれそうにないな」
「魔法使いのクラス?」
……そうだった。
この世界には、クラスという仕組みもあるんだった。
くそっ。覚えなきゃいけない基本知識が多すぎるだろ……!
「俺、サヴァンとして登録されてますよね? 具体的には、どういうクラスなんですか?」
俺が尋ねた瞬間、反応は一斉に返ってきた。
カチン。
ガチャッ。
何本ものスプーンがテーブルに落ちた。
全員が目を見開き、俺を凝視している。
……。
……え?
ルイスの目は、今にも飛び出しそうなほど大きく見開かれていた。
「サヴァン……? それは……本当にすごいことだよ」
「ははっ、やっぱりな!」
オルシクは立派に編み込まれた髭を撫でながら、満面の笑みを浮かべた。
「最初に会ったときから、どこか興味を引かれるものがあると思ってたんだ。なるほど、そういうことだったのか!」
アエラルまで、緑色の瞳を大きく見開いて俺を見つめていた。
「すごい……サヴァンなんですね」
……へへへ。
俺って、やっぱり相当すごい奴なんじゃないか?
俺の自尊心が、秒単位で膨れ上がっていくのを感じた。
ついに!
ようやく!
このふざけた異世界で、俺にもいいことが起きたじゃねえか!
だが、ルイスが咳払いをしたことで、膨らみかけた俺の自尊心はあっさり現実に引き戻された。
「ただ、魔法使いのクラスを教えるのは難しいね。すまない、潤也くん。俺は戦士なんだ」
……戦士、か。
俺は近くにいた熟練冒険者たちの腰に吊るされた、手入れの行き届いた武器に目を向けた。
つまり、武器を使った戦闘や肉体的な戦いを得意とするクラスってことか。
なるほど。理にかなっている。
「戦士は、必ずしも複雑な魔法に頼って戦うわけじゃないんだ」
ルイスは丁寧に説明してくれた。
「マナを操って一時的に身体能力を強化したり、武器にマナを纏わせたりすることはできる。でも……」
「技術も同じくらい重要ってことだな」
オルシクが言葉を引き継ぎ、頷いた。
「残念だが、俺たちには魔法の細かい仕組みを学問的に教えられるほどの知識はないんだ」
ルイスは少し顔を傾け、緑髪のエルフへと視線を向けた。
「でも、魔法を学びたいなら、アエラルに少し教えてもらうといい」
その瞬間、アエラルの身体がびくりと強張った。
まるで全身が板になったかのように固まっている。
「えっ?」
俺は彼女を見た。
彼女も俺を見返した。
そして次の瞬間、彼女の顔が一気に真っ赤に染まり、俺と目が合わないように勢いよく顔を背けた。
よっしゃあああ!!
これだよ、これ! 俺が待ち望んでいたラノベ展開!!
美人でミステリアスなエルフの女の子が、俺に魔法を教えてくれるだと!?
待て待て、これはもしや……!
ついに初日から隠し恋愛ルートが解放されたってことか!?
……落ち着け、潤也。調子に乗るな。期待しすぎるんじゃない。
俺は背筋を伸ばし、胸を張って、できる限り冷静で余裕のある表情を作った。
「アエラルさんさえよければ、ぜひ教えていただきたいです」
アエラルは深く、震える息を吸い込んだ。何とかいつもの威厳を取り戻そうとしているらしい。
彼女は俺を見ないまま、少し顎を上げた。
「わ、わかりました……」
一瞬言葉を切り、尖った耳を緊張でぴくりと動かす。
「ただし……私のことは『師匠』と呼ぶこと。いいですね?」
……。
俺は一瞬たりとも迷わなかった。
すぐさま両手を合わせ、敬意を込めて頭を下げる。
「はい、師匠!!」
ルイスが突然、大声で笑い始めた。
オルシクもすぐに笑い出し、テーブルを叩きながら、飲んでいたものを吹き出しそうになっている。
……げふっ。
すぐ隣から、盛大な音が響いた。
俺はゆっくりと顔を向けた。
愛子が椅子にもたれ、満足そうに腹を撫でながら、大きなげっぷをしていた。
……おい。
人前で少しくらい礼儀ってものを見せられないのかよ!?
ルイスは目尻に浮かんだ涙を拭い、ようやく笑いを収めた。
「さて……番堂さんはどうかな?」
愛子は何度か瞬きをした。どうやら食べすぎて、少しぼんやりしているらしい。
「ん?」
「君のクラスのことだよ。自分に何ができそうか、何か心当たりはあるかい?」
愛子は何でもないことのように頬を掻いた。
「冒険者証のクラス欄に、でっかいハテナマークがついてたし……さあ?」
ルイスは小さく唸りながら、考え込むように頷いた。
「それなら、戦士を目指してみるのはどうかな?」
愛子の手が、頬を掻く途中でぴたりと止まった。
「……あたしでもなれるの?」
「もちろん」
ルイスは微笑んだ。
「意外かもしれないけど、戦士になるのに大量のマナが必要なわけじゃないんだ。マナで身体を強化することもできるけど、純粋な身体能力や戦闘技術も同じくらい重要だからね」
彼は少し間を置き、慎重に言葉を選んだ。
「マナがないことで選択肢は多少限られるかもしれない。でも、戦士を目指す価値は十分にあると思うよ」
愛子の目が、一瞬でキラキラと輝いた。
「よっしゃああああ!!」
彼女は両手を勢いよくテーブルに叩きつけた。皿がガタガタと揺れる。
まるで、たった今この国を征服したとでも言わんばかりの喜びようだった。
……まあ、そうなるよな。
少なくとも、マナがないことを嘆きながら、一生座り込んでいるつもりはないらしい。
それに、本当に身体を鍛えるだけで戦士として活躍できるのなら、彼女にもこの世界で自分の居場所を見つける方法があるのかもしれない。
さて、俺はというと……。
再びアエラルに目を向けた。
彼女はまだ、俺と目を合わせないように必死になっていた。顔もほんのり赤いままだ。
……俺が初めて魔法を使えるようになるまで、どれくらいかかるんだろう?
数日?
一週間?
一か月?
……。
うん。
たぶん、一か月くらいだな。
神様、どうかお助けください。
第8話を読んでいただき、ありがとうございます!
サヴァンという凄そうなクラスを手に入れた潤也。
……ですが、本人はまだ魔法のことすらよくわかっていません(笑)。
果たして、彼はこの世界で無事にやっていけるのでしょうか?
引き続き、潤也と愛子の冒険を楽しんでいただければ幸いです!




