第1章 (第9話) 『最弱の魔力しか持たない、情けない敗北者と一緒に転生した、美人で魔力ゼロのポンコツ女!』
※ ※ ※
薄暗い石畳の路地をしばらく歩き、俺たちは今夜泊まる宿へとたどり着いた。
『ドラコーノの宿』
入口に掲げられた看板には、ジョッキに巻きついた竜が描かれている。冷たい夜風が吹くたび、看板はギシギシと音を立てて揺れていた。
宿の中は意外にも居心地がよかった。古い木材や蜜蝋、それにラベンダーの香りがほのかに漂っている。
やがて俺たちは二階の廊下に集まり、それぞれの部屋へ向かう準備を始めた。
……正直、ここまで親切にされると、さすがに申し訳なくなってくる。
異世界に来てまだ一日目だというのに、俺はすっかり甘やかされていた。
「ルイスさん、さすがにここまでしてもらうわけには……」
差し出された重たい鉄製の鍵を受け取りながら、俺は首の後ろをかいた。
「気にしなくていいよ。君たちはもう俺たちの仲間なんだから。それに、こっちの通貨を持っていないんじゃ、まともな宿に泊まるのも大変だろう?」
ルイスはいつもの人懐っこい笑顔で答えた。
……まあ、厳密に言えば、俺たちにも金はあった。
いや、あるはずだった。
愛子がギルドのサイコロ賭博で、手持ちの金を一枚残らず賭けてしまったのだ。
そのことを思い出すと、ルイスの厚意がありがたい反面、罪悪感が一気に押し寄せてきた。
「ありがとうございます。本当に……」
俺は軽く頭を下げた。
礼を伝えていると、廊下の薄暗がりからアエラルが静かに歩み寄ってきた。
彼女は厚手のウールの服をきれいに畳んで抱えており、うつむきながら俺に差し出してきた。
「こ、これ……。潤也くんの体格に合うかどうか、ちょっと自信がないんだけど……」
「さっき、俺の身体測定でもしたのか?」
思わず口をついて出た言葉だった。
アエラルの顔が一瞬で真っ赤に染まった。
緑色の瞳を大きく見開き、長い耳をぴくぴくと震わせながら、彼女は慌てて床に視線を落とした。
「ちょっ、待ってくれ! 別に気にしてないから!」
自分の発言がどれだけ怪しく聞こえたかに気づき、俺は慌てて言い足した。
「むしろ、魔法使いならそれくらいできてもおかしくないよな! ありがとう。マジで助かる!」
アエラルは小さくうなずくと、両手をぎゅっと握りしめ、その場を離れようとした。
ところが、廊下を数歩進んだところで、突然ぴたりと立ち止まった。
「お、おやすみなさい……」
壁に向かって小さくつぶやくと、彼女は逃げるように自分の部屋へ駆け込んでしまった。
……この子、筋金入りの人見知りだな。
階段の下から、ルイスが手を振りながら声をかけてきた。
「おやすみ、潤也くん!」
「ゆっくり休めよ、坊主!」とオルシクも続いた。
……本当に、みんな親切な人たちばかりだ。
まあ、アエラルとは少し話しづらいところもあるが、別に悪気があるわけじゃない。
ただ、エルフの姿をした不安の塊みたいな子なだけだ。
廊下の奥へ目を向けると、愛子の部屋はアエラルの隣にあった。
愛子はすでに鍵を開けていたが、俺のことなど完全に無視している。
……いや、お前さ。
せめて「おやすみ」くらい言えないのか?
異世界に来てからというもの、こっちはお前に振り回されっぱなしなんだぞ。
自分の部屋に入ると、俺は何気なく室内を見回した。
豪華とは言い難いが、いかにもファンタジー世界の宿屋といった部屋だった。
木製のベッドに、藁を詰めた厚手のマットレス。小さな書き物机と椅子が一脚。それに、最低限くつろげるだけの空間。
特別なものは何もない。
それでも、雨風をしのげる屋根があって、ドアには鍵までかかる。
……十分すぎるだろ。
俺はベッドに身体を投げ出し、心底疲れたといった具合に長いため息をついた。
「ふぅ……」
……マジで疲れた。
今日は大した肉体労働をしたわけでもないのに、ここ十二時間ほどで起きた出来事のせいで、精神的にはすっかり消耗していた。
歩き回ったせいか、足も少し痛む。
まあ、無理もないか。
異世界に来て、冒険者として登録して、魔法学院の存在を知って、ベテラン冒険者のパーティーと知り合って……そのうえ、怪しいカルト教団に村を焼かれたなんて嘘までついた。
……そりゃ疲れるわ。
ポケットに手を入れると、指先にひんやりとした、見覚えのある感触が伝わってきた。
取り出してみる。
俺の古いガラケーだった。
……そもそも、なんでこいつが手元にあるんだ?
現実世界で死んだとき、一緒に置いてきたはずじゃないのか。
どう考えてもおかしい。
深く考えないようにしながら、俺はガラケーを開いた。
液晶画面が点灯し、青白い光が顔を照らす。
そこには、新しいメッセージが二件表示されていた。
[LOG #001] COMPLETED: Junya Kugo
[LOG #002] COMPLETED: Aiko Bando
……何だ、これ?
表示された文字をじっと見つめているうちに、ふと気づいた。
「待てよ……あのときは、こんな表示じゃなかったはずだ」
日本にいた頃、あの事件が起きる直前、画面には不気味なカウントダウンが表示されていた。
それが今は、どちらも COMPLETED になっている。
……まさか。
胃のあたりに、冷たい塊ができたような感覚が広がった。
いや、まだ決めつけるのは早い。
このガラケーは、俺たちの魂でも追跡しているのか?
そもそも、俺たちが異世界に転生したこと自体、最初から仕組まれていた出来事だったりするのか?
……いやいや、待て待て。
俺は顎に手を当て、頭に浮かんだ考えを振り払おうとした。
考えすぎだ、潤也。
ただの不具合かもしれないし、俺たちをここへ連れてきた何かが、こういう形で表示されているだけかもしれない。
ガラケーを閉じ、ベッド脇の小さなテーブルに置いた。
そして、重たい頭を枕に預ける。
……もういい。今は考えるのをやめよう。
そう思った直後、視界の端が急速にぼやけ始めた。
……そんなに疲れていたのか?
意識は、あっという間に闇へと沈んでいった。
※ ※ ※ ※ ※ ※
目を開けると、部屋は真っ暗だった。
小さな窓から差し込む銀色の月明かりだけが、室内をかすかに照らしている。
俺はうんざりしたようにうめいた。
……まったく。昔からの習慣ってのは、そう簡単には抜けないもんだな。
日本にいた頃、俺はひどい不眠に悩まされていた。
眠りにつくこと自体が一苦労で、ようやく眠れたと思っても、なぜか夜中に目が覚めてしまう。
しかも、一度目が覚めると妙に頭が冴えて、なかなか寝直せない。
今夜も例外ではなかった。
……どうせ、もう眠れそうにない。
俺はゆっくりと身体を起こして目をこすり、トイレに行くため廊下へ出ることにした。
軋む床板を避けながら静かに歩いていると、廊下の突き当たりにある大きな窓のそばに、人影が見えた。
銀色の月明かりに照らされながら、じっと座っている。
……あれ、愛子か?
俺は音を立てないように近づいた。
彼女は膝を抱え、見知らぬ街の暗い輪郭をぼんやりと眺めていた。
何か悩んでいるように見える。
……いや、悩んでいるというより、何かに腹を立てているような顔だった。
「眠れないのか?」
俺が静かに声をかけると、愛子は少しだけ顔を上げ、こちらを見た。
いつもなら鋭く睨みつけてくるような目つきが、ほんのわずかに和らいだ。
まるで、見知った顔を見て安心したとでもいうように。
「あ……アンタか。うん。昔からの癖」
普段の騒がしさはどこにもない。
「俺もだよ」
そう答え、俺は彼女の隣に腰を下ろした。背中を木の壁に預け、床に座る。
……それにしても、愛子が眠れないタイプだとは思わなかった。
あの図太さなら、どこでも熟睡できそうなものだ。
むしろ、寝ることそのものを趣味にしていてもおかしくない。
知り合ってからまだそれほど長くないとはいえ、俺の中での彼女の印象は、出会った頃からほとんど変わっていなかった。
だからこそ、こういう意外な一面を知ると、どうにも調子が狂う。
「なあ、愛――」
「ねえ、潤也」
俺が名前を呼びかけたところで、彼女が先に口を開いた。
その声は、いつもの彼女からは想像できないほど小さかった。
「ん?」
「……アンタ、元の世界が恋しくなったりする?」
……へえ。
ずいぶん意外な質問だ。
今日の愛子は、異世界で起こることすべてに興奮していたように見えた。
笑って、食べて、テーブルを叩いて、魔力ゼロでも戦士になれると大喜びしていたくらいだ。
そんな彼女が、こんなことを聞いてくるとは思わなかった。
「まあ、あの世界は大嫌いだったけど……でも、ここにいるのも怖いんだよね」
……ああ。
それは、わかる気がした。
死んだと思ったら、見たこともない世界で目を覚ます。
知っている人も、知っている場所もない。
頼れる学校もなければ、将来の計画もない。
明日まで生きていられる保証すらない。
これまでの人生で積み上げてきたものが、突然、何の意味も持たなくなってしまう。
……そりゃ怖いよな。
「向こうでは、なりたい自分だってあったのに……今は、もう何もない」
愛子は窓の外を見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。
「それに、置いてきた人たちのこともさ……。あたしがいなくなったら、母さん、どうなっちゃうんだろう……」
その声は、廊下の静けさに溶けるように消えていった。
俺は自分の手を見下ろした。
……ああ。
俺の叔母さんだって、今頃ひどく悲しんでいるに違いない。
俺だって、あの世界が嫌いだった。
社会から距離を置いて、与えられた人生なんてどうせろくでもないものだと、自分に言い聞かせていた。
けど、それは大切な人が一人もいなかったという意味じゃない。
俺にだって、本当に大事な人たちがいた。
心から大切に思っていた人たちが。
何も言えないまま、別れすら告げられずに置いてきてしまった人たちが。
「……わかるよ。でも、いつまでも過去を振り返っていたら、前に進めないだろ。俺たちは、これからのことを考えなきゃいけない」
俺は壁に頭を預けたまま、静かに答えた。
少し間を置いてから、彼女の横顔に目を向ける。
「それに、自分にはもう誰もいない、なんて言うなよ」
愛子は不思議そうにこちらを向いた。
俺は、いつもの調子で大きく笑ってみせた。
「だって、アンタは一人じゃないだろ? この俺、久吾潤也がいるんだからな! 最弱の魔力 しか持たない、情けない敗北者だ! しかも、美人なのに魔力ゼロのポンコツ女と一緒に転生しちまった!」
……いや、我ながらひどい自己紹介だな。
「だから、忘れんなよ……いいな?」
愛子はしばらく、目を丸くしたまま俺を見つめていた。
やがて、張り詰めていた肩の力が抜け、表情がゆっくりと和らいでいく。
そして、心からの笑顔が浮かんだ。
「……少なくとも、美人って言ってくれたのはよかったわ」
彼女は小さく笑い、目元をぬぐった。
俺たちもつられて、声を抑えて笑った。
いつもの軽口のおかげで、張り詰めていた空気が少しずつ和らいでいった。
その後、俺たちはしばらく何も話さなかった。
ただ、見知らぬ世界の月明かりに照らされながら、隣同士で静かに座っていた。




