第1章 (第7話) 『見知らぬ感謝』
空を見上げると、夕日が街を暖かな光で包み込んでいた。
正直……綺麗だった。
オレンジ色の光が屋根や石造りの建物に反射し、街並みを黄金色に染め上げている。
ほんの一瞬だけ、俺は自分が死んだことも、異世界に転生したことも、そしてその日のうちに冒険者になったことさえ忘れかけていた。
……ほんの一瞬だけ、な。
「ほら、二人とも。着いたよ」
ルイスの声に、俺は物思いから引き戻された。
俺たちが到着したのは酒場だった。
外から見る限り、ごく普通の店に見えたのだが、扉をくぐった瞬間――
……クソッ、マジかよ。
店内は冒険者でごった返していた。
ほとんどのテーブルが埋まり、笑い声や口論、酔っ払いの話し声が絶え間なく響いている。誰かが自分の倒した魔物について大声で自慢しているかと思えば、カウンター付近では、何が面白かったのか、数人の冒険者がどっと笑い声を上げていた。
そして、この匂い……。
くそっ。
焼きたての肉に、パン、香辛料、それから甘い何かの香りが店内に漂っていた。
そういえば、愛子も俺も今日はろくに食べていなかった。
ぐぅぅぅ……。
……そうだ。俺、クソほど腹が減ってるんだった。
街を探索したり、ギルドに登録したり、この世界でどうやって死なずに生きていくか考えたり……そんなことばかりに気を取られて、生きていくうえで最も基本的なことを忘れかけていた。
食事。
……不思議なもんだな。
ルイスに案内され、俺たちは混雑した酒場の奥へと進んだ。隅のテーブルには、すでに二人の人物が座っていた。
一人は緑色の髪をしたエルフ。もう一人は、きちんと編み込まれた髭が特徴的なドワーフの男だった。
なるほど。こいつらがルイスのパーティーメンバーか。
「オルシク、アエラル」
俺たちが近づくと、ルイスが二人に声をかけた。
「こちらが久吾潤也くんと番堂愛子さんだよ」
そう言って俺たちを紹介してから、ルイスは二人へと向き直った。
「潤也くん、愛子さん。こちらが僕のパーティーメンバーのオルシクとアエラルだよ」
エルフの少女――アエラルが、俺に視線を向けた。
……なんだろう。
少し、威圧感がある。
どうしてそう感じたのか、自分でもよくわからなかった。ただ、まるで俺がこれまでに下してきた人生のあらゆる選択を、無言で批判しているかのような目つきだった。
俺は気まずさを感じながらも、しばらく彼女の視線を受け止めた。
そして、俺が何か失礼なことでもしたのかと考え始めた、そのとき。
彼女はふいっと顔を背けた。
「ふんっ」
……。
くっ……おい、俺が何したってんだよ!?
会ったばかりだぞ!?
俺の顔がそんなに気に入らなかったのか? 歯に何かでも挟まっていたのか? それとも、俺がどうしようもないバカだってことを、すでに見抜かれていたのか?
いや、落ち着け、潤也。考えすぎだ。
俺は姿勢を正し、二人に軽く頭を下げた。
「よ、よろしくお願いします」
……うん。実に滑らかな挨拶だったな。
ぎこちなさすぎて泣けてくる。
ドワーフの男――オルシクは、くすりと笑いながら席を立った。
がっしりとした体格に、広い肩。整然とまとめられた髭は、俺が普段、自分の身だしなみにかけている時間よりも、彼が髭の手入れに費やしている時間のほうが長いんじゃないかと思わせるほどだった。
オルシクは俺に手を差し出した。
「ルイスが君たちを連れてきたってことは、それなりの理由があるんだろうな。ということは、君たちが新しいパーティーメンバーってわけか? よろしく頼むよ」
人懐っこい笑顔を浮かべながら、彼はそう言った。
……クソッ。
このパーティー、みんないい人すぎないか?
ルイスに続いて、今度はこの人まで。
なんだここは?
冒険者の勧誘詐欺か何かか? 全員が親戚のおじさんみたいに優しいんだけど。
俺は差し出された手を握った。
「はい、ありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします」
オルシクは最後にもう一度、俺の手を力強く握ってから離した。
そして、今度は愛子へと向き直る。
「それで、君が番堂さんだね?」
彼は愛子の手をそっと取り、持ち上げると、その甲に礼儀正しく口づけをした。
「お会いできて光栄だ」
俺は愛子を見た。
……顔が赤い。
赤くなっている。
……待て。
こいつ、照れることなんてあったのか?
俺はこの女と知り合ってから、他人に怒鳴り散らしたり、くだらないことで喧嘩を売ったり、常識をまるで任意参加のルールみたいに扱ったりする姿を散々見てきた。
それなのに、紳士的な挨拶をされただけで照れているだと?
……これは新発見だ。
俺があまりにも長く見つめていたせいか、愛子はすぐさま警告するような視線を飛ばしてきた。
――見るな。
……いや、まだ何も言ってねえだろ!
俺はただ、珍しい現象を観察しているだけなんだが!?
この一生に一度あるかどうかの貴重な光景を、もう少し楽しもうとした、そのとき。
突然、アエラルが席から立ち上がった。
「あ、あの……」
彼女は両手をぎゅっと握りしめ、俺たちと目を合わせないように、あちこちへ視線を泳がせていた。
「よ、よろしくお願いします。こ、これから仲良くしていただければと……」
……お?
おお?
くっ……可愛いじゃねえか。
さっきまで威圧感たっぷりだったエルフの少女が、突然、緊張でいっぱいの女の子に変わってしまった。
緑色の髪が顔の周りにさらりと落ち、彼女がどうにか平静を取り戻そうとするなか、耳の先まで頬と同じくらい赤くなっているように見えた。
……待てよ。
もしかして、恥ずかしがり屋なのか?
さっき顔を背けたのも、そのせいだったのか?
……いや、ないな。知り合ってまだ三十秒ほどしか経っていない相手について、勝手な決めつけをするのはやめておこう。
それにしても、このパーティー……知れば知るほど面白くなってきたな。
ルイスは全員に向かって微笑んだ。
「さて、みんな挨拶も済んだことだし、座ろうか。そろそろ食事にしよう」
※ ※ ※
しばらく話をしていると、ようやくウェイトレスが料理を運んできた。
テーブルに皿が置かれた瞬間、俺の目はキラキラと輝いた。
……クソッ。
めちゃくちゃ美味そうじゃねえか。
焼きたての肉、濃厚なスープ、温かいパン。その香りが鼻をくすぐる。俺の胃袋は、早く食べろとばかりに悲鳴を上げていた。
くっそ、腹減ったぁぁぁ!!
俺はテーブルの向かいに座る愛子へと視線を向けた。
彼女は、まるで獲物を狙う腹ペコの狼のような目つきで料理を見つめていた。
……うん。今にもテーブルの料理を一瞬で吸い尽くしそうな勢いだ。
俺はすぐにルイスへと向き直った。
彼は微笑みながら、料理に手を向けた。
「どうぞ、召し上がれ」
その言葉を待っていたかのように、愛子と俺は迷いなく手を合わせた。
「いただきます!」
そして、俺たちは料理に飛びついた。
まるで三日間何も食べていなかったかのように、俺は夢中で料理をかき込んだ。
肉は柔らかく、スープは濃厚で、パンは口の中でとろけそうなくらい温かかった。
……ああ、天国だ。
俺はほとんど息をする暇もなく、次々と料理を口へ運んだ。
……そのせいで、テーブルの向かい側から妙な視線を向けられていることに、まったく気づいていなかった。
ようやく一口飲み込んだところで、俺は顔を上げた。
……ん?
なんだ?
なんでみんな、こっちを見ているんだ?
俺たちの顔に何かついているのか?
最初に口を開いたのはルイスだった。
「失礼だけど……君たち二人は、リュウジンの出身なのかい?」
リュウジン?
……日本っぽい名前だな。
少なくとも、発音は。
……待てよ。
この世界には、日本みたいな国まであるのか?
「こんなことを聞いて申し訳ないんだけどね」と、ルイスは続けた。「あちらの出身者は、食事の前に感謝の言葉を口にすることが多いんだ。それに、さっき君たちが話していた言葉も、彼らの言語によく似ている気がしてね」
……なるほど。
予想どおりか。
まあ、ファンタジー世界の酒場で「いただきます」なんて言えば、目立つに決まっている。
俺は咳払いをした。
「いえ、出身というわけではないんですが、行ったことはあります。実はそこで育ったので、つい昔の習慣が出てしまって」
隣では愛子が、何の助けにもならないまま、ひたすら料理を口へ運び続けていた。
……相棒、少しくらい協力してくれよ。
「なるほど」
ルイスはそう答えると、それ以上深く追及することなく納得してくれた。
……助かった。
この場しのぎの嘘を、いつまで続けられるか自分でもわからなかったからな。
「ところで、君たちはどれくらい一緒に冒険者をやっているんだい?」
ルイスはパンを手に取り、ちぎりながら答えた。
「そうだね……七か月くらいかな」
「七か月か」
飲み物を飲み終えたオルシクが、しみじみと繰り返した。
「いやあ、もっと長い付き合いのように感じるな。俺にとって、この二人は家族みたいなもんだからな。そこに新しい仲間まで加わったわけだ」
そう言って、彼はルイスに、それから俺たちに、温かな笑みを向けた。
……家族、か。
彼の言葉には、不思議と安心させられるものがあった。
ただ一緒に仕事をしているだけの集まりじゃない。
本当に、お互いを大切に思うようになった人たちなんだ。
アエラルはスープを一口飲んでから、呆れたように首を振った。
「オルシクって、ほんと恥ずかしいことばっかり言うんだから……」
そう言いながらも、彼女の声に本気の苛立ちは感じられなかった。
彼女はスプーンを置き、愛子と俺を交互に見た。
「それで、二人はどうやって知り合ったの?」
……しまった。
俺はアエラルを見た。
それから愛子を見た。
……こいつ、まだ食ってやがる。
おいおい、俺に全部丸投げするつもりかよ!?
愛子は一瞬だけ俺に視線を向けると、何事もなかったかのように食事を再開した。
……まるで、こう言っているようだった。
――聞かれたのはアンタなんだから、アンタが何とかしなさいよ。
俺は心の中でため息をついた。
……信じられねえ。どこが相棒なんだよ。
「ええと……愛子と俺は、昔、ある村に住んでいたんです。その村が焼き払われて……俺たち二人だけが生き残りました」
考え直す間もなく、言葉が口から飛び出していた。
一瞬、テーブルが静まり返った。
ルイスは驚いたように俺を見つめ、アエラルは自分の質問を後悔したかのように、すぐさま表情を曇らせた。彼女の耳も、しゅんと垂れ下がっている。
オルシクの笑顔も消えていた。
「ルイス……」
オルシクが、急に真剣な声で切り出した。
「まさか、あの教団の仕業じゃ……?」




