第1章(第5話)『歩く死体』
しばらくして、俺と愛子はギルドの外にある古びた木製のベンチに腰掛けていた。
分厚い木製の扉の向こうから、ギルド内の喧騒がかすかに聞こえてくる。一方、目の前の大通りでは、アストリアの午後の賑わいが、俺たちの混乱など知る由もないといった様子で、何事もなかったかのように流れていた。
俺は深いため息をつき、どんよりとした午後の空を見上げた。
……はぁ。俺たち、この世界に来てから一体どれくらい経ったんだ?
正直、目の前を歩く異世界の住人たちを見ても、ここが現実だということを、頭のどこかではまだ信じられずにいた。
俺は前かがみになり、両肘を膝に乗せて頭を抱えた。
受付嬢のあの引きつった顔と、周囲の冒険者たちの異常なまでの怯えようが、どうにも頭から離れない。
どうやら、この世界における『マナ』というのは、単に魔法をぶっ放すためのMPのようなエネルギーというだけではないらしい。
この世界では、マナこそがあらゆる生命の根源そのものなのだ。すべての生き物が生まれながらに宿しているはずの不可欠な要素――人間で言えば、身体の隅々まで巡る燃料のようなものらしい。
つまり、体内にマナが存在すること自体が、この世界における『生きている証』というわけだ。
だというのに、それが微塵も存在しないとなると……?
そんなこと、この世界の理からすれば、本来ならあり得ないはずなのだ。
……じゃあ、俺の隣でケロッとしている愛子は、一体全体何なんだ?
俺は隣の相棒に視線を向けた。
ギルドを這うようにして出てきてからというもの、愛子は不自然なほど静かだった。いつものように生意気な冗談を飛ばすこともなければ、また新しい騒ぎを起こそうとする気配もない。
……さすがのゴリラ女も、ギルド中からゾンビ扱いされたショックで、精神崩壊しかけているんだろうか。
いや、マジでどう声をかければいいんだ?
こんな状況で口にするべき正解のセリフなんて、俺のオタク知識のどこを探しても見当たらない。
「愛子、心配するな! この世界の生命の源であるマナを持っていない、あり得ないバグみたいな存在だって、生きているだけで丸儲けさ!」
……
うん、クソみたいな励ましだな、潤也。
最高に滑ってるぞ。誰かこいつの口を今すぐ縫い合わせてくれ。
俺は少しためらってから、おそるおそる彼女の肩に手を伸ばした。
「なあ……愛子――」
その瞬間だった。
彼女は突然、勢いよく両腕を頭上に突き伸ばし、大げさなほど長いため息を吐き出した。
「はああああ~~~っ! マジで最悪なんだけど!!」
差し出した俺の手が、空中でピタリと止まった。
……
……は?
確かに、彼女はものすごく不満そうだった。
でも……それだけ?
俺は完全に毒気を抜かれ、呆然と彼女の横顔を見つめた。
「まあ、でも、別にいっか!」
「……別にいいって、お前な」
驚きを隠せず、思わず声が裏返った。
なんでこいつは、微塵も落ち込んでないんだ?
俺なんて、せっかく手に入れた超レアクラス『サヴァン』が、とんでもなく低いマナ容量という呪い付きだと知らされて、まだ心の中で血の涙を流しているというのに。
それなのに、当事者であるはずの愛子は……?
彼女はフンと鼻を鳴らし、誇らしげに肩をすくめてみせた。
「だってさ、考えてもみなよ! この世界の有象無象がみんなマナを持ってるのに、あたしだけが持ってないんでしょ? ってことはさ――あたしって唯一無二の、超特別な存在じゃん!」
そう言って、愛子は悪びれもせず、ニヤリと勝ち誇ったように笑った。
「もしかしたら、世界をひっくり返すレベルの超レアな例外なのかもしれないし! ま、知らんけどね!」
……
本気でそう考えてるのか、コイツ?
どこまでも底抜けにポジティブなだけなのか。それとも、俺に心配をかけまいとして、必死に強がっているだけなのか。
俺の拙い人間観察力では、その真意を測ることはできなかった。
……まあ、おそらくその両方なんだろう。
いずれにせよ、この女はいつまでも被害者面をして座り込んでいるようなタマではないらしい。
愛子の笑みが、さらに意地悪く広がった。
「というわけで、潤也! あたしは世界一特別な女の子なんだから、今日の夕飯はアンタのおごりね!」
「ふざけんなああああ!!」
俺は絶叫しながら、彼女を睨みつけた。
どうしてこんな破天荒な女と一緒に異世界へ来てしまったのか。神のキャスティングミスを、改めて呪いたくなる。
そして何より、どうして無一文の俺が、このクソビッチに飯を食わせる奴隷になっているのか。
やっぱり、あのままギルドのギャンブルテーブルに放置して、全財産をスらせておけばよかったのだ。
……
……いや、待て。
愛子のことだ。放っておいたら、どうせ調子に乗って夕飯代まで全部賭けて、今ごろ文字どおり路頭に迷っていただろう。
……クソッ。結局、俺が面倒を見る羽目になるのかよ。
神様、頼むから俺にまともな胃薬をくれ。
※ ※ ※
俺たちは結局、重い腰を上げて再びギルド内へと戻り、依頼書が貼られた巨大な掲示板の前に立っていた。
大きな木製の掲示板には、何枚もの依頼書が鱗のように重なり合ってピン留めされている。ギルドの紋章が押された公式な書類もあれば、一般市民がノートの切れ端を破り、殴り書きしたようなものまで、実にさまざまだ。
周囲には、いかにも手慣れた様子の冒険者たちが群がり、品定めするように依頼書を確認しながら、どの仕事を受けるべきか熱心に議論を交わしていた。
俺たちが生き延びるための第一歩だ。
絶対に怪しい罠みたいな依頼に引っかからないよう、慎重に見極めなければならない。
俺は渋い顔で顎に手を当て、並んだ依頼書を一枚ずつ眺めていった。
……さて、どれどれ。
【低級薬草の採取】
【近隣商店への荷物配達】
【害獣扱いされる小魔物の討伐】
【隣町へ向かう商人の護衛】
依頼の報酬は、難易度に応じて上下していた。当然、中にはほかとは一線を画すような、目の眩むほどの報酬額が提示されているものもある。
もちろん、無一文の俺たちの目を引いたのは、そういう『高額報酬』の文字だった。
「さて、どれどれ……」
「ねえねえ! 見てよ、潤也!」
「あん? 何だよ」
愛子が俺の隣でぴょんぴょんと跳ねながら、掲示板の最上段――普通の人間では手が届きそうにない高さに貼られた一枚の依頼書を、興奮気味に指差していた。
……
あ、アホの顔だ。
これ、絶対に関わっちゃダメなやつだ。
「【ナイル湖を荒らす多頭大蛇・ヒュドラの討伐】! ねえ、報酬はなんと二千ダマルカだって!!」
彼女は目をキラキラと輝かせ、獲物を見つけた野良犬みたいな顔で俺を見つめてきた。
「ねえねえ、これめっちゃ面白そうじゃない!? 一発で大金持ちだよ! 行ってみようよ!」
俺はすかさず、感情を無にして彼女の脳天へ鋭いチョップを振り下ろした。
**ゴツンッ!**
「痛っ!? 何すんのよ、いきなり!」
「この大バカ者! 俺たちは今日登録したばかりの、ひよっこ以下のEランク冒険者なんだぞ! っていうか、そもそもこの依頼を受ける最低条件すら満たしてねえんだよ!」
「じょ、条件ぇ?」
愛子は痛む頭を押さえながら、不満げに首を傾げた。どうやら本気で、何が問題なのか分かっていないらしい。
俺はこめかみを押さえた。
……コイツ、絶対に説明書を読まずにゲームを始めるタイプだろ。
俺も彼女の視線を追い、依頼書の最下部を指差した。
そこには、この依頼を受けるために必要な最低ランクが、血のように赤いインクで小さく記されていた。
――【推奨ランク:Aランク以上】。
……
よりにもよって、Aランクだ。
俺はしばらくその書類を見つめながら、ギルドが初心者用の掲示板に間違えて紛れ込ませたのではないかと疑った。
……いや、そんな都合のいい話があるわけない。
報酬も本物なら、そのヒュドラという化け物の脅威も本物。そして、俺たちに受ける資格が爪の先ほどもないのも、紛れもない現実だった。
二千ダマルカ、か……。
掴み損ねた大金が、指の間から砂のようにサラサラとすり抜けていく幻が見えた気がした。
この世界、異世界転生者にはもうちょっとイージーモードで優しいと思ってたんだけどな……。
せめて最初くらい、初心者ボーナスをくれてもいいだろ。
チート級のクラスを手に入れたと思ったら、マナは最低値。相棒はマナゼロで、金が手に入ればすぐに賭け事か飯に消える。
……
……俺、これ本当に主人公なのか?
「いいか、よく聞け、愛子」
俺は現実を突きつけるように、掲示板の下の方を指差した。
「俺たちは大人しく、自分の身の丈に合った地道な依頼を探すんだ。簡単で、安全で、数日後に湖の底から俺たちの無惨な土左衛門が引き揚げられるような結末にならないやつをな」
「ふん。相変わらずつまんない男ね、タンポポくんは」
「稼いだ金を、五体満足で使える日まで必死に生き延びたいだけなんだが?」
愛子はつまらなさそうに腕を組み、再びフンとそっぽを向いて掲示板を眺め始めた。
……おい。今の話、ちゃんと聞いてたか?
どうやらコイツは、俺たちの命を一瞬で刈り取るための別の特攻依頼を、脳内で探し出すつもりらしい。
俺は本日何度目かも分からない深いため息をついた。
……本当に、今日はとんでもなく長い一日になりそうだ。
そう思った、その時だった。
「――なあ」
背後から、不意に低い男の声がかけられた。
「ん?」
俺は振り返った。




