第1章(第3話)『異世界で無一文』
しばらく、俺たちは街を歩き回った。
あちこちを見回しながら。
石畳の道。木骨造りの建物。見たこともない生き物に引かせた馬車。革鎧を身につけ、剣を腰にぶら下げて歩く人々。
尖った耳を持つ女性が商人と値段交渉をしている一方で、全身を重厚な鎧で覆った男たちが、金属のブーツを石畳に響かせながら通り過ぎていった。
信号機はない。
車もない。
コンビニもない。
電光看板すら、一つも見当たらなかった。
……マジかよ。
本当に、こんなことが起きてるのか。
まあ、俺はRPGを散々プレイしてきたから、この世界の雰囲気には覚えがあった。
中世風のファンタジー都市。見慣れない種族。何か大事な用事でもあるかのように歩き回る武装した冒険者たち。
もし今、
「近くの山にドラゴンが住んでるぞ」
と言われても、もう驚かないかもしれない。
……いや、ゲームの中で見慣れていることと、実際にその世界のど真ん中に立っていることは、まったくの別物だった。
ゲームなら、ドラゴンに遭遇したってリセットすればいい。強敵に負けたらレベルを上げて再挑戦すればいい。
でも、ここは現実だ。
少なくとも、俺の感覚ではそうだった。
もし本当に死んだら、コンティニューなんてできない。
……いや、そもそも一度死んだはずなんだけどな。
俺、いったい何回死ねば気が済むんだよ。
近くの店から、焼きたてのパンの香りが漂ってきた。
通りの向こうでは、鍛冶屋のハンマーが金属を叩く音が響いている。
商人たちは人混みの中で商品の値段を叫び、馬車が俺たちのすぐそばを通り過ぎた。
「うわっ、危ねえ!」
俺は慌てて愛子の腕を引っ張り、馬車の進路から彼女を引き離した。
……本人は、まったく気づいてなかったけどな。
「ん? 何よ、急に」
「お前、今の馬車が見えなかったのか!?」
「見えてたわよ?」
「じゃあ、なんで避けねえんだよ!」
「アンタが引っ張ってくれたから、避ける必要なかったじゃん」
「そういう問題じゃねえ!!」
愛子はケラケラと笑った。
……こいつ、マジでいつか事故に遭うぞ。
しかも、そのときは俺まで巻き込まれる気がする。
「うわぁ……」
愛子はきょろきょろと辺りを見回した。
「潤也、見て! 見て見て! あの人、角が生えてる!」
「見りゃわかる」
「それに、あの女の子、尻尾がある!」
「はいはい」
「それと、あっちの人、腕が四本もあるんだけど!?」
「だから、いちいち大声で叫ぶなって!」
近くを歩いていた四本腕の男が、ちらりとこちらを振り返った。
俺は反射的に目を逸らした。
……おい、愛子。
お前のせいで、こっちまで変な奴だと思われてるじゃねえか。
「だから、聞いてんの!?」
「聞いてるわよ! だって、すごいじゃん!」
「何がだよ!」
「腕が四本よ!? 四本! アンタ、あれでどうやって服着てんだろうね!?」
「俺が知るか!!」
……こいつ、聞いてねえ。
愛子は俺の言葉を完全に無視して、つま先立ちになりながら、四本腕の男が人混みに消えていくのを眺めていた。
さっきまで精神崩壊寸前みたいな顔をしてたくせに、今じゃ世界最大の遊園地にでも来た子供みたいにはしゃいでいる。
……まあ、気持ちはわからなくもないけどさ。
俺だって、さっきから驚きっぱなしだ。
こんな光景、ゲームや漫画の中でしか見たことがない。
それなのに、今は目の前で人々が普通に歩き、商人が商売をし、馬車が行き交っている。
この世界の住人にとっては、これが日常なんだろう。
……なんか、すげえな。
俺は、さっき通り抜けた巨大な石造りの門を振り返った。
その向こうには、明るい午後の空の下、視界の果てまで街並みが広がっていた。
屋根が隙間なく並び、遠くには巨大な城がそびえ立っている。いくつもの塔が、周囲の建物よりも高く空へと伸びていた。
こんなの、映画撮影用の安っぽいファンタジーセットなんかじゃない。
ここには人が暮らしている。
働いている。
喧嘩して、笑って、買い物をして……きっと税金に文句を言ったりもするんだろう。
……いや、最後のは俺の勝手な想像だけど。
でも、そう考えると、少し不思議な気分になった。
この世界にも、俺たちの知らない誰かの日常がある。
俺たちが突然現れたところで、世界そのものが止まるわけじゃない。
誰も俺たちのことなんて知らないし、気にも留めていない。
……当たり前だよな。
俺はこの世界じゃ、ただのよそ者なんだから。
そんな世界のど真ん中に、俺たちはなぜか放り込まれていた。
「ねえ、潤也!」
「……ん?」
俺は振り返った。
愛子はすでに数歩先を歩いていて、店先のショーウィンドウに並べられた剣や短剣を指さしていた。
「ちょっと見に行ってもいい!?」
「買う金なんてあるのかよ?」
「見るだけだってば! 買うなんて言ってないじゃん!」
「じゃあ、見てこいよ」
「うわ、アンタって本当にノリ悪いよね」
「お前こそ、ほんっと――」
俺は言いかけて、口を閉じた。
愛子がゆっくりとこちらを振り向く。
「……最後まで言ってみな?」
……やべ。
この女、絶対に面倒なことになる。
ここで余計な一言を口にしたら、間違いなく殴られる。
しかも、今度はさっきの馬車みたいに引っ張って逃げることもできない。
……いや、待て。
俺は男だぞ?
十八歳の男が、同い年の女にビビってどうする。
「素晴らしい人だなって。素晴らしい人って言おうとしたんだよ」
「そう。それならいいのよ」
愛子は満足げにニヤリと笑うと、店へ向かって駆け出した。
……ちょろい。
いや、今のは俺のほうが助かっただけか。
俺はため息をつきながら、その後を追った。
……まあ、こいつがこうしてはしゃいでるのを見ると、少し安心する。
少なくとも、もうパニックにはなっていないらしい。
さっきまでの様子を思い返すと、あのまま泣き出してもおかしくなかった。
それなのに、今では剣を見て大騒ぎしている。
……切り替えが早いっていうか、なんていうか。
もっとも、ショーウィンドウに顔を押しつける勢いで剣を眺めているあたり、俺たちが置かれた状況なんて、すっかり忘れていそうだけどな。
「ねえ、これって本物かな!?」
「本物じゃなかったら、何なんだよ」
「飾りとか!」
「わざわざ剣の形をした飾りを売る意味あるか?」
「あるかもしれないじゃん!」
「どんな意味だよ……」
愛子は店のガラス越しに、短剣の柄をじっと見つめた。
……ああ、もう。
こいつを見てると、こっちまで頭がおかしくなりそうだ。
……いや、無理もないか。
建物も、服装も、武器も、市場でやり取りされている硬貨でさえ、何もかもが初めて見るものばかりだ。
俺だって、本当は一日中この街を歩き回って、ほかにどんなものがあるのか見てみたい。
ドラゴンを見つけて、魔法の仕組みについて質問してみたい気持ちだってある。
……できることなら、危険な目に遭わずに観光だけしていたいところだ。
だが。
俺の中の冷静な部分が、ある重大な事実を思い出させた。
俺たち、金がない。
完全に。
徹底的に。
笑えないくらい、金がない。
……いや、笑えないどころか、これからどうやって生きていくんだよ。
食費。宿代。服や道具だって、いずれ必要になるだろう。
この世界の物価もわからないし、そもそも俺たちが持っているものを売れるかどうかすら怪しい。
……待てよ。
俺、今のところ何も持ってないんじゃねえか?
俺は習慣でポケットを探った。
役に立ちそうなものは何もない。
財布も、現金もない。
あるのは今着ている服と……まあ、死んだときに身につけていたものくらいだ。
「あれ……俺のガラケーだ」
……変だな。
異世界に来たってのに、持ってきたのは携帯だけかよ。
どうしてこれだけ残ってるんだ?
何かのバグなのか?
……いや、ゲームじゃあるまいし、バグってなんだよ。
でも、俺が死んだときに持っていたものが、これだけ残っているってのは妙だ。
何か意味があるのか?
それとも、本当にただの偶然か?
……考えてもわからねえな。
今ここで悩んだところで、答えが出るわけでもない。
俺は深く考えず、携帯をポケットにしまった。
ほかの持ち物も見当たらなかった。
ワインの瓶も、買った食べ物が入っていたビニール袋もない。
……ま、いいか。
今は考えることが多すぎる。
携帯のことは、あとでゆっくり考えればいい。
……もし、あとで考える余裕があればの話だけどな。
「おい、愛子」
「ん?」
彼女は相変わらず、剣を眺めていた。
「俺たち、金が必要だ」
「そう?」
「それと、寝る場所も」
「うんうん」
「あと、食い物もな」
「潤也、今ちょっと剣を見てるんだけど」
「だから金がねえんだよ!!」
愛子はようやくこちらを振り向いた。
「……あ」
彼女は一瞬、俺の顔を見つめた。
そして、もう一度剣へと視線を戻した。
「それは残念ね」
「残念ね、じゃねえよ!?」
「じゃあ、どうしろっていうの? 泣けばいい?」
……こいつ、マジでクソビッチだな。
いや、クソビッチっていうか、単純に人の話を聞いてねえだけか。
俺は眉間を指で押さえた。
……あぐぶだばだぬいすぃあじ!!
そうだよな。
この女にまともな返事を期待した俺が間違ってた。
マジで使えねえ!!
とにかく、何か考えないと。
早急に。
この世界にも、普通の人間が金を稼ぐ方法くらいあるはずだ。
今まで見てきた限り、この街には商人や職人、衛兵、それに……モンスターと戦うことを生業にしているような連中もいた。
冒険者だ。
そうだ、それだ。
「本当に異世界なら、冒険者ギルドがあるはずだ……」
愛子はようやく武器から目を離した。
「ぼ、冒険者ギルド……?」
「ああ。冒険者が登録して、クエストボードから依頼を受けて、達成したら報酬をもらえる場所だ。そこで登録できれば、食費と宿代くらいは稼げるかもしれない」
俺は一度言葉を切った。
少なくとも、今までプレイしてきたゲームじゃ、そういう仕組みだった。
……頼むから、現実までいきなり計画をぶち壊してくれるなよ。
俺は心の中で、まだ見ぬ冒険者ギルドに向かって祈った。
登録に面倒な条件がありませんように。
身分証が必要とか、登録料が必要とか、そういう展開は勘弁してくれ。
……いや、待て。
そもそも、俺たちの身分を証明するものなんて何もないじゃねえか。
……ああ、もう!
考えれば考えるほど、不安になってくる。
俺は愛子を見た。
愛子は俺をじっと見つめた。
そして、ゆっくりと皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「へえ。見直したわ……オタクニートとして過ごしてきた時間も、無駄じゃなかったみたいね」
「俺はオタクでもニートでもねえ!!」
「はいはい、タンポポくん」
「たんぽ……何だって!?」
「タンポポくん。アンタにはぴったりじゃない?」
「どこがだよ!!」
愛子は笑いながら歩き出した。どうやら俺の尊厳を傷つけるだけ傷つけて、満足したらしい。
俺はぶつぶつ文句を言いながら、その後を追った。
それでも……認めたくはないが、愛子がいてくれてよかったと思う。
こんな世界で一人きりで目を覚ましていたら、どうなっていたか想像もつかない。
……たぶん、今ごろ泣きながら道端に座り込んでいたんじゃないか?
いや、そこまで情けなくはない……と思いたい。
少なくとも、今みたいに文句を言い合える相手がいるだけで、少しは気が楽だった。
……まあ、本人には絶対に言わないけどな。
そんなことを言えば、一生からかわれるに決まっている。
「ねえ、潤也!」
「今度は何だよ!?」
「この世界って、ドラゴンとかいると思う?」
俺は愛子をちらりと見た。
またニヤニヤしてやがる。目なんてキラキラ輝いていた。
……さっきまで不安そうにしてたくせに、もうドラゴンの話かよ。
本当に切り替えが早いな、このクソビッチ。
「……たぶんな」
「最高じゃん!!」
「いや、最高って……ドラゴンだぞ? 普通に考えて、めちゃくちゃ危険だろ」
「えー? でも、見てみたいじゃん!」
「見るだけで済めばいいけどな……」
「何よ、アンタ。怖いの?」
「怖いに決まってんだろ!!」
愛子は大笑いした。
……くそっ。
こいつ、絶対に俺をからかって楽しんでやがる。
そう叫ぶなり、愛子はまた走り出した。
俺がギルドを探すんだろ、と注意する間もなく、人混みの中をすいすいと進んでいく。
「おい! そっちはギルドと反対方向かもしれねえだろ!」
「だったら、アンタが道案内しなさいよ!」
「まだ場所も知らねえんだよ!!」
「じゃあ、早く探す!」
「人の話を聞けえええ!!」
俺は長いため息をつき、慌てて後を追った。
まずは冒険者ギルドを見つける。
それから登録して、金を稼ぐ。
簡単な話だ。
……そうだよな?
なんだか、これから先も愛子に振り回される未来しか見えない。
しかも、あいつは楽しそうで、俺はすでに疲れ切っている。
……不公平すぎるだろ。
どうにも、今日はとんでもなく長い一日になりそうな気がした。
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