第1章 (第24話)『夢 I』
すべてが白かった。
どこまでも続く、果てのない白。あまりにも白く、どこまでが自分のいる場所で、どこからが世界の果てなのかさえ分からない。足元に広がる地面も白い。ただ、そこだけは濡れていて、まるで広大な水面の上に立っているようだった。
頭上に広がる空も、同じように色を失っている。雲も、太陽も、影さえも見当たらない。
ただ、白い。
そして、静かだった。
風の音も、鳥の声も、何ひとつ聞こえない。まるで世界そのものが息を潜めているかのようだった。
「……ここはどこだ?」
待て。ちょっと考えろ、潤也。確か、泣き疲れて眠りについたんだよな。それで……。
「……ああ、これ絶対夢だわ」
そう口にしたものの、どこか違和感があった。
妙にリアルすぎる。
靴の裏に伝わる湿った感触。肌を撫でる空気。そして、どこまでも続く奇妙な静けさ。
俺は周囲を見回し、ここがどこなのかを探ろうとした。
そこで、一本のヤシの木が目に入った。
そう。何もない場所のど真ん中に、なぜかヤシの木が一本。
……なんでだよ。
近づいていくと、その木の下に、いかにも高級そうな二脚のソファが向かい合わせに置かれていた。その間には、同じく高級そうな黒いテーブル。上にはティーポットと、空のティーカップが二つ並んでいる。
俺は足を止めた。
……誰かが俺をお茶会に招待したのか?
「お茶に招待するなら、せめてコーヒーくらい用意しとけよ」
紅茶なんて泥水みたいなもんだ。
俺はヤシの木の方へ視線を向けた。
そこには、一人の少女が座っていた。
雪のように白い髪が、細い肩に沿って流れている。肌は不自然なほど白く、頬と唇にだけ、かすかな赤みが差していた。目元は黒い目隠しで覆われている。
モノクロ。
真っ先に思い浮かんだ言葉はそれだった。
何もないこの世界に、まるで絵の具で描き足されたかのような存在。いや、色がないことそのものが、この場所では異質に感じられた。
「まあ、失礼な人間じゃの。自分の名も名乗っておらぬというのに、いきなり妾の名を尋ねるとは」
「……いや、先に話しかけてきたのはそっちだろ」
「それに対して、そなたは妾の素性を問い詰めた。なんと無礼なことか」
「今ここで礼儀作法の講義でも始めるつもりか?」
「テーブルマナーの方がよいかの? 料理ごとに使うフォークの種類を教えてやってもよいぞ」
「……は?」
「素晴らしい。では、決まりじゃな」
なんなんだ、こいつ……。
俺は少女を見つめた。
彼女は膝の上で両手を重ね、口元にかすかな笑みを浮かべていた。この奇妙で何もない世界に、まるで最初から住んでいたかのように馴染んでいる。
一方の俺は、寝る前に頭でも打ったんじゃないかと疑い始めていた。
「まあいい。ここがどこなのか教えてくれないか?」
「どこかじゃよ」
「……どこか?」
「これ以上なく正確な説明だと思わぬか?」
「ふざけてんのか?」
「まあ。そんなことはせぬよ。妾、おしっこを無駄にするのは嫌いでの。あれほど貴重なもの、きちんと取っておかねばな」
俺は瞬きをした。
今、こいつ……。
……は?
少女はくすりと笑った。
その笑い声は小さく、上品で、まるで自分の言葉そのものを楽しんでいるかのようだった。
「ふふっ。そなた、なかなか面白いのう」
「おい、話を逸らすなよ。今、お前……」
「さて」少女は向かいの椅子を指し示した。「こちらに座らぬか?」
俺は椅子を見て、それから少女に視線を戻した。
……。
「これ、もしかしてお茶会か?」
「察しがよいのう」
「コーヒーはあるか?」
「ないぞ」
「じゃあ、何の意味があるんだよ」
「おしゃべり相手がおるじゃろう?」
「いや、今は別に誰かと話したい気分じゃないんだが」
「じゃろうな。いかにも楽しそうな顔をしておるもの」
俺は目を細めた。
少女はただ微笑んでいた。
なぜか、その笑顔が妙に癪に障った。
それでも俺は歩み寄り、向かいの椅子にどっかりと腰を下ろした。両腕を背もたれに広げ、まるで自分の席だと言わんばかりにふんぞり返る。
夢なら夢で、どうなるのか見てやろうじゃないか。
少女はティーポットに手を伸ばした。
「紅茶はいかがかの?」
「だから、コーヒーが欲しいって言っただろ」
「妾も、コーヒーはないと言ったじゃろう?」
「……わざとやってるだろ」
「察しがよいのう」
少女は自分のカップに紅茶を注いだ。
俺は、黒い液体がカップの中に満ちていくのを眺めた。
「それで、名前は教えてくれるんだろうな?」
少女はカップを口元に運んだ。
「エヴァじゃ」
「エヴァ……それで?」
「何でも一度に知りたがるのう」
「質問してるだけだろ」
「そして、妾は答えたぞ」
俺は椅子の背もたれに体を預けた。
「はいはい。素晴らしい会話だな」
「気に入ってもらえて嬉しいぞ、潤也」
俺の動きが止まった。
「……なんで俺の名前を知ってる?」
エヴァは、まるでその質問が意外だったかのように首を傾げた。
「妾がずっとそなたを見ておったというのに、名を知っていてはならぬのか?」
俺は彼女を見つめた。
「……は?」
「聞こえなかったかの?」
「見てたって……?」
「うむ」
「いつから?」
彼女はティーカップを口元に運び、少しだけ紅茶をすすった。
「それなりに長い間じゃよ」
「それなりって……答えになってないだろ」
「それでも、今のところはそれが妾の答えじゃ」
俺はゆっくりと姿勢を正した。
「おい、ちょっと待て。つまり、お前……俺のことをストーカーしてたってことか?」
「ストーカー? ずいぶんな言い方じゃの」彼女はカップをソーサーに戻した。「妾はただ観察していただけじゃ。わざわざ追いかけ回す必要などない。欲しいものがあれば、手に入れるだけじゃよ」
「言い方を変えただけで、やってることは同じだろ!」
「ふふっ。そなた、気に入ったぞ」
「本人の知らないところで見てたとか言いながら、そんなこと言うなよ……」
なんか、妙に……。
いや、いやいや。
少女はまた笑った。
くそっ。この女、いちいち腹立つな。
俺は顔を擦り、頭の中を整理しようとした。
これは夢のはずだ。そう考えるのが一番筋が通る。真っ白な世界。足元に広がる水。場違いなほど豪華なお茶会。どれもこれも、まともじゃない。
それなのに……。
指先にはテーブルのひんやりとした感触が伝わってくる。紅茶の香りもする。エヴァがカップを持ち上げるたび、陶器が触れ合う小さな音まで聞こえる。
すべてが現実みたいだった。
いや、現実以上にリアルだった。
「つまり、お前は俺の行動を全部見てるってことか?」
「全部ではないぞ」
「それは安心した」
「妾にだって、ほかにやることくらいあるものじゃ」
「例えば? ほかの人間を観察するとか?」
「まあ、賢いのう。ようやく自分以外にも人間がおると気づいたのか?」
俺は彼女を睨んだ。
エヴァはティーカップに口をつけ、笑みを浮かべている。
「それにしても潤也。そなた、ずいぶんと質問が多いのう。なのに、一番大切なことは自分に問いかけておらぬようじゃが」
「一番大切なこと?」
「どうして、そなたなのか?」
俺は動きを止めた。
彼女の笑顔は変わらない。けれど、その声には何か違うものが混じっていた。
相変わらず軽く、楽しげな声。
それなのに、彼女と出会ってから初めて、冗談を言っているわけではないのだと感じた。
「……どういう意味だ?」
「同じような状況に置かれる可能性のあった人間は、ほかにもいたはずじゃ。それなのに、どうしてそなたが選ばれたのか?」
俺は眉をひそめた。
「夢だからじゃないのか?」
「本当にそうかの?」
俺は口を開いた。
けれど、何も言えなかった。
エヴァはティーカップを、かちゃりと小さな音を立ててソーサーに置いた。
「なあ、潤也。妾はそなたをずっと見てきた。そして、正直に言うと……」
彼女は片手に頬を預けた。
「最近のそなたには、少々がっかりしておるぞ」
「うわ。ありがとう」
「あら、どういたしまして」
「いや、マジで言ってるんだけど」
「妾も本気じゃよ」
彼女の笑みが深まった。
「普通の人間なら決して得られぬような機会を与えられたというのに、そなたは小さな画面ばかり眺めて、意味も分からぬメッセージに頭を悩ませておる」
俺の腹の奥がきゅっと締まった。
携帯。
LOG《》。
俺は椅子から身を乗り出した。
「……なんでそれを知ってる?」
「潤也。そなたに言ったじゃろう? ずっと見ていたと」
「じゃあ、お前はあのとき何が起きたのかも知ってるんだな」
思った以上に鋭い声が出た。
エヴァは何も答えなかった。
「あのメッセージだよ。LOG《》のことだ。あれが何なのか、お前は知ってるんだろ?」
彼女は珍しく、すぐには答えなかった。
カップを持ち上げ、もう一口紅茶を飲む。まるで味を確かめるようにしてから、ようやく微笑んだ。
「さあ、どうかのう」
俺は身を乗り出した。
「だったら教えてくれよ」
「まあまあ。せっかくのお茶会じゃというのに、ずいぶんとせっかちじゃの」
「エヴァ、ふざけてる場合じゃないんだ」
「妾もふざけてはおらぬぞ」
彼女の声は相変わらず穏やかだった。
それが、かえって不気味だった。
エヴァは目隠しの奥に隠された顔を、俺の方へ向けた。
「答えが欲しいのじゃな、潤也? よかろう。ただ、その前に一つ、妾から質問させてもらおうか」
俺は唾を飲み込んだ。
「……何だよ?」
エヴァの口元に、再び笑みが浮かんだ。
「もし、あの瞬間に戻れるとしたら……そなたは本当に、違う行動を取るのかのう?」




