第1章 第23話『悲しみ』
翌朝、目を覚ました俺の胸には、相変わらず重苦しいものが居座っていた。ベッドから起き上がることすら億劫になるような、そんな感覚だ。
数秒間、天井を見つめながら、どうしてこんなにも気分が沈んでいるのか思い出そうとした。
そして、すべてが蘇った。
仲間たち。宿屋。そして、アエコ。
「……クソッ」
俺は寝返りを打ち、毛布を頭からかぶった。
何も考えたくなかった。
彼女に言われたことも。俺が「お前にはわからない」と言ったときの、あの顔も。
それから、俺がここ二日間ほとんど何もせずにいる間、彼女が俺たちを生き延びさせるために動き回っていたことも。
俺には俺なりの理由があった。
仲間を失った。疲れ果てていた。共に旅してきた人たちが目の前で惨殺されるのを見た。
それで、あいつは俺にどうしろっていうんだ?
そもそも、相手の言い分に一理あると認めたからといって、何もかも相手が正しいことにはならない。
……少なくとも、俺はそう自分に言い聞かせていた。
やがて、空腹に耐えきれなくなってベッドから起き上がった。顔を洗い、着替え、いつもの癖でスマホを確認する。
何もない。
そりゃそうだ。
俺はスマホをポケットに突っ込み、階下へ向かった。
食堂はすでに賑わっていた。人々は朝食を食べ、今日の予定について話し、まるで世界が誰かにとって終わってしまったことなどないかのように笑っていた。
そんな連中が、どうしようもなく憎らしかった。
いや、別にあいつらが悪いわけじゃない。何も悪くないのはわかっている。
ただ、俺には理解できなかった。
俺の知っている人たちがいなくなったのに、どうして世界はこうも平然と回り続けているんだ?
食堂の隅にアエコの姿を見つけた。
一瞬、目が合った。
けれど、どちらも何も言わなかった。
先に目を逸らしたのは俺だった。
俺は一人で席についた。
いいさ。向こうが無視したいっていうなら、好きにすればいい。
別に、あいつに話しかけてもらわなくたって困らない。
腹が鳴らなくなる程度に朝食を食べると、俺は再び部屋へ戻った。
午前中は、特に記憶に残ることもなく過ぎていった。
部屋にこもり、何度もスマホを確認し、これからどうするのかを考えないようにした。
そのほうが楽だった。
……そう、思っていた。
そう思えなくなるまでは。
昼を過ぎて再び階下へ降りると、アエコが食堂の入り口付近で待ち構えていた。
「ねえ。何? 今度はあたしを無視するつもり?」
俺はスマホから目を離さなかった。
「お前がそうしてほしいんだと思ってたけど」
「あたしがやめてほしいって言ったのは、アンタがあたしをクソみたいに扱うこと。無視しろなんて言ってない」
「はいはい」
俺はスマホの画面を消し、ポケットにしまった。
「じゃあ、どうしてほしいんだよ? 謝ればいいのか? はいはい、悪かったな。これで満足か?」
アエコの顔が歪んだ。
「……本気で言ってんの?」
「お前がいちいち突っかかってくるからだろ」
「アンタがずっとクソみたいな態度を取ってるからでしょ!」
俺は笑った。
別に面白かったわけじゃない。
ただ、黙ってほしかった。
「はいはい。何でもお見通しってわけか。すげぇな」
「……それ、どういう意味?」
「俺が何を考えてるのかもわからないくせに、偉そうに口出ししてくるって意味だよ」
「だったら話してよ! アンタが何を抱えてるのか!」
本気で苛立っている声だった。
ここでやめることだってできた。
わかっていた。
けれど、ここで引いたら、自分にはもう言い返す言葉がないと認めることになる。
俺が傷ついているからこそ、あいつの言葉が刺さったんだと認めることになる。
そんなの、耐えられなかった。
「わかったよ。俺がいつまでもウジウジしてるのに、いい加減うんざりしてるんだろ? 普通に振る舞えってことだろ? 悪かったな。お前に迷惑かけて」
「そんなこと言ってないでしょ!」
「だったら、自分の言いたいことくらいまともに伝えろよ」
「ジュンヤ……」
「はぁ……マジで疲れるわ、お前」
アエコが口を閉ざした。
一瞬、胸の奥が嫌な感じにねじれた。
けれど、俺はそれを押し殺した。
「ていうかさ、俺がいなかったらお前、どうしてたんだよ? 何もかもわかってるみたいな顔してるけど、お前だって俺と同じで、この世界のことなんて何も知らないだろ」
「アンタだって知らないでしょ!」
「少なくとも、俺様は仕切ってますみたいな顔はしてねぇよ」
「誰かが決めなきゃいけないでしょ! アンタが何も決めようとしないんだから!」
俺は一歩、彼女に近づいた。
「へぇ。そりゃご立派なことで。ずいぶんと上手くやってるみたいだな」
アエコの目が細くなった。
「……それ、どういう意味?」
「自分だけがまともにやれてるみたいな顔するなら、せめてちゃんとやってみろよ」
言葉が、あまりにも滑らかに出てきた。
滑らかすぎるくらいに。
自分でも、どれだけひどいことを言っているのかわかっていた。
それでも、もうどうでもよかった。
……いや、どうでもいいと思い込もうとしていただけなのかもしれない。
アエコは信じられないものを見るような目で俺を見つめた。
「……もういい。アンタなんかクソ食らえよ」
「こっちのセリフだ、バカ」
「少なくとも、あたしは何かしようとしてる!」
「それで? 俺がまともになるまで引きずり回すつもりか?」
「アンタを生かしておくために頑張ってんのよ、この大バカ!」
「だったら勝手にやれよ! 誰も止めてねぇだろ!」
彼女の顔が怒りで赤くなった。
「……信じらんない」
「お前も大概だろ。お互い様だ」
アエコが一歩、こちらへ踏み出した。
「あたしだって、みんなを失ったんだからね」
その言葉を聞いた瞬間、何かが俺の中で弾けた。
「ああ、またそれかよ」
アエコの動きが止まった。
「何かあるたびに、あたしだって悲しい、あたしだって失ったって……。それで? だから何だよ? 俺様に感謝でもしてほしいのか?」
彼女の表情が変わった。
その瞬間が、はっきりと見えた。
それでも俺は、口を止めなかった。
「俺様に同情してほしいのか? わかったよ、かわいそうにな。これで満足か?」
「……黙れ」
「何だよ? 自分が言われるのは嫌なのか?」
「ジュンヤ、黙れっつってんのよ」
俺は笑みを浮かべた。
自分の顔に張りついたその笑みが、ひどく気持ち悪かった。
「何だよ? 人に自分の気持ちを押しつけられるのは、そんなに嫌か?」
次の瞬間、アエコの拳が俺の顔面に叩き込まれた。
**――バキッ!**
頭が横へ弾かれた。
足が床から浮き、次の瞬間には背中から木の壁へと叩きつけられていた。
**――バリィッ!**
背後で木の板が砕け散った。
鋭い亀裂が壁を走り、俺の肩を囲むように木材が大きく割れた。
一瞬、息ができなかった。
顔面に激痛が走る。視界がぼやけ、耳鳴りが響く中、俺はなんとか体勢を立て直しながら、壊れた壁からずり落ちた。
上唇を何か温かいものが伝っていく。
指で触れてみる。
赤い。
血だ。
俺は呆然と、その指を見つめた。
それから、アエコへと視線を向けた。
彼女は数歩離れた場所で立ち尽くしていた。拳を握りしめたまま、荒い息を吐いている。
顔に浮かんでいた怒りは、いつの間にか驚愕に近いものへと変わっていた。
俺たちは、どちらも何も言わなかった。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
そして、遅れて痛みが押し寄せてきた。
「……何しやがった、お前!?」
「……やめて」
「やめてって何だよ!? お前、頭おかしいんじゃねぇのか!?」
「アンタがクソみたいなことばっか言うからでしょ!」
俺は鼻の下を押さえた。
指に、さらに血がついた。
「だからって殴っていい理由になるのかよ!?」
「ならないわよ!」
アエコの声が部屋に響いた。
「そんなの、わかってる! わかってるけど……もう、アンタの話を聞いてるのが限界だったのよ!」
俺は彼女を見つめた。
顔がズキズキと痛む。
背中も痛い。
服には木の破片がいくつも引っかかっていて、背後の壁は斧でも叩きつけられたように無残な有様だった。
……こいつ、俺を壁ごとぶっ飛ばしやがった。
一瞬だけ、謝ってくれるかもしれないと思った。
けれど、彼女は壊れた壁を見て、それから俺の顔へと視線を戻した。
「……もう、アンタにどう接したらいいのかわかんない」
俺は手の甲で鼻を拭った。
「だったら、何もしなきゃいいだろ」
声が、自分でも驚くほど冷たくなった。
「最初から、放っておいてほしかったんだろ?」
アエコは、もう一度俺を見つめた。
何を考えているのか、俺にはわからなかった。
もう一発殴りたいのかもしれない。
叫びたいのかもしれない。
それとも、これ以上ひどいことになる前に何か言おうとしていたのかもしれない。
結局、彼女は何も言わなかった。
背を向け、そのまま廊下へと歩いていった。
遠ざかる足音が聞こえた。
そして、どこかの扉が勢いよく閉まる音が響いた。
俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
鼻血は、まだ止まっていなかった。
「……いてぇ、クソッ」
壊れた壁から体を離し、ふらつく足で立ち上がる。背中が痛み、思わず顔をしかめながら服についた木片を払い落とした。
それから、壁に開いた穴を見つめた。
「……あいつ、何なんだよ」
もう一度鼻を拭い、俺は自分の部屋へ戻った。
扉を閉める。
鍵をかける。
しばらくの間、鼻を押さえたまま立ち尽くし、何が起きたのかを理解しようとしていた。
本当に殴りやがった。
平手打ちでも、突き飛ばしでもない。
壁に穴が開くほどの力で、俺をぶっ飛ばしやがった。
俺は信じられないという気持ちで笑い、ベッドの端に腰を下ろした。
「……マジかよ」
あいつ、何なんだ?
確かに、言いすぎたことくらいはわかっている。
それは認める。
腹が立っていた。疲れ果てていた。ここ二日間、ほとんど眠れず、まともに食べることもできず、共に旅してきた仲間たちが死んだ理由を考え続けていた。
だからって、殴っていいのか?
俺は布を鼻に押し当て、血が止まるのを待った。
……いや、ふざけんな。
俺様が怒るタイミングまで、あいつに決められる筋合いはない。
どうやって悲しむかを指図される覚えもない。
自分の言いたいことを聞いてもらえなかったからって、相手に手を出していいわけがない。
その点に関しては、俺様が正しい。
……少なくとも、そう思っていた。
俺はベッドに横になり、天井を見つめた。
部屋は静かだった。
その静けさが、どうしようもなく嫌だった。
ベッドも、壁も、クソみたいな天井も嫌いだった。
本当なら、こんな宿屋じゃなく、どこに行けばいいのかもわからない場所で途方に暮れていることだって嫌だった。
そして何より、アエコが俺を見たときの、あの表情が嫌だった。
まるで、俺が知らない誰かになってしまったかのような顔。
俺は寝返りを打った。
あいつが先に始めたんだ。
……いや、全部が全部、あいつのせいってわけじゃない。
それでも、あいつはしつこく聞いてきた。
何度も話しかけてきた。
頭の中を整理することすらできない俺に、あれこれ求めてきた。
俺にどうしろっていうんだ?
笑ってろって?
世話を焼いてくれてありがとう、とでも言えばよかったのか?
あいつが俺の相手をするのに疲れたからって、平気なふりをすればよかったのか?
俺は平気じゃない。
これっぽっちも平気じゃないんだ。
毛布を握りしめた。
みんな、死んだ。
ルイが死んだ。
オルシクが死んだ。
アエラが死んだ。
それなのに俺は、こうして柔らかいベッドに横たわり、生き残った唯一の仲間と喧嘩している。
「……クソッ」
目の奥が熱くなった。
俺は両手のかかとで目を押さえ、込み上げてくるものを必死に抑えようとした。
泣くもんか。
もう、泣くのは十分だ。
俺は十八歳だ。
子供じゃない。
誰かに何をすべきか教えてもらう必要なんてないし、何もできない役立たずみたいに扱われる筋合いもない。
俺様は自分のことくらい、自分でどうにかできる。
できるはずだ。
呼吸が引っかかった。
俺は目を固く閉じた。
数秒間は、なんとか耐えられた。
けれど、ルイのことを思い出してしまった。
あいつは、いつだってそこにいてくれるような気がしていた。
明日だって、その先だって、いくらでも話せると思っていた。
俺は、それを当たり前のことだと思っていた。
顔が、くしゃりと歪んだ。
「……兄ちゃん」
声にならないほど小さな声だった。
俺は横向きになり、毛布を頭からかぶった。
怒っていたかった。
怒りは楽だった。
怒っていれば、責める相手がいる。戦うものがある。すべてがうまくいかなかった理由を、何かのせいにできる。
けれど、その奥には、何一つ直せるものなんてなかった。
生き返らせられる人もいない。
スマホに答えが届くこともない。
そこにあるのは、空っぽの部屋と、死んだ仲間の形見の白いマント。そして、俺が覚悟できていようがいまいが、明日がやって来るという残酷な事実だけだった。
俺は声を押し殺すために、毛布を噛んだ。
それでも、無駄だった。
頭が痛くなり、胸が苦しくなるまで泣いた。
アエコに腹を立てているのか、自分自身に腹を立てているのか。それとも、自分がすべてを台無しにしたわけじゃないと、誰かに言ってほしかっただけなのか。
もう、自分でもわからなかった。
やがて、疲労が意識を奪っていった。
俺は枕に顔を埋めたまま眠りに落ちた。
それでも最後まで、アエコの言い分がすべて間違っていたわけじゃないとは認められなかった。
あいつが俺を殴ったことを憎んでいるほうが、ずっと楽だった。
だから、俺はそうすることにした。




