第1章 第22話『前に進み続けろ』
朝は、俺が望もうと望むまいとやって来る。
窓から差し込む光がクソうっとうしかったおかげで、それがよくわかった。
俺は寝返りを打ち、枕に顔を埋めた。
あと五分。
それだけでいい。
何も考えずにいられる五分間。何が起きたのか思い出さなくてもいい。これからどうするかなんて考えなくてもいい。
ルイが死んだことを思い出さなくてもいい、五分間。
……
クソッ。
俺は目を開けた。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。見慣れない天井に木造の壁。薄い毛布が体に掛かっている。
だが、すぐにすべてを思い出した。
馬車。
血。
アエラ。
ルイ。
俺はぎゅっと目を閉じた。
……いや、無理だわ。
何も変わらなかった。
ゆっくりと上半身を起こし、両手で顔をこする。頭は痛いし、目は砂でも入ったみたいにゴロゴロする。
いつ眠りに落ちたのかは覚えていない。ただ、夜の大半を天井を見つめながら過ごしていたことだけは覚えていた。
ベッド脇の椅子には、ルイの白い外套がきれいに畳まれて置かれていた。
俺はしばらくそれを見つめた。
それから、目をそらした。
……だから何だっていうんだ。
何をしたところで、もう何も変わらない。
そんなことを考えていると、ドアの向こうからノックの音が聞こえた。
「おーい。起きてんだろ?」
愛子だ。
俺は返事をしなかった。
「潤也?」
「……何だよ」
「よし、生きてるな。ドア開けて」
俺はドアを見つめた。
……今の、冗談のつもりか?
そんなことを考える気力すらなかった。
「入っていいぞ」
ドアが開き、愛子が入ってきた。
髪は相変わらずボサボサで、顔や腕の傷もそのままだった。愛子だって疲れているはずなのに、いつの間にか着替えまで済ませて、普通に動ける状態になっている。
……いいよな。お前は。
「ひっでぇ顔」
「どうも」
「どういたしまして」
いつもなら、ここで何か言い返していたはずだ。
だが、俺は毛布をどけ、ただ床を見つめていた。
愛子の表情がわずかに変わった。
「……寝た?」
「少し」
「少しって、どんくらい?」
「知らねぇ」
愛子は鼻から息を吐いた。
「はぁ……。まあいいや。下に来な。飯食って、それからこれからどうするか考えないと」
俺は頷いた。
愛子は待った。
俺は動かなかった。
「……潤也」
「何だよ」
「聞いてた?」
「聞いてたよ」
「じゃあ、とっととベッドから出ろ」
愛子を見上げた。
それだけのことすら、妙に億劫だった。
「……あとで」
愛子はもう一秒ほど俺を見つめてから、ドアのほうへ向かった。
「はいはい。先に下で待ってるから」
ドアノブに手を掛けたところで、彼女は足を止めた。
「あと、二度も呼びに来させんなよ」
そう言い残し、ドアを閉めた。
俺はしばらくその場に座っていた。
着替えた。
それから、またベッドに座った。
……俺、何やってんだ?
そうだ。飯だ。
何か食わないと。
どうやら人間ってのは、起きたら飯を食うものらしい。
俺はもう一度立ち上がり、携帯を掴んでポケットに突っ込んだ。ルイの外套は、まだ椅子の上に置かれている。
少しだけ迷った。
それから外套を手に取り、腕に掛けて部屋を出た。
宿屋の食堂は、すでに大勢の客で賑わっていた。
壁沿いのカウンターでは、淡い金髪をゆるく編んだ若い女性が客の相手をしていた。尖った耳に、人間より少し鋭い顔立ち。緑色の目で客を追いながら、棚に並んだ瓶やカップを手際よく扱っている。
……エルフ、かな。
その彼女が今、がっしりとした体格の男と口論していた。男の肌には、灰色の硬い鱗がまだらに広がっている。
「だから、昨日はその値段だったって言ってんだろ!」
「だから、昨日アンタが椅子を壊したって言ってんだよ!」エルフの女性は帳簿から目も上げずに言い返した。「修理代を払う気がねぇんなら、部屋代に文句つけんのはやめな!」
鱗の男は何やらぶつぶつと文句を言った。
エルフの女性はにっこりと微笑んだ。
「はいはい。そんじゃ、お代を払ってもらおうかね?」
……うわぁ。
なんか、ちょっとだけ男に同情した。
食堂には人間だけでなく、尖った耳や角、尻尾を持つ者たちもいた。暖炉のそばではドワーフが二人、皿に盛られた肉を取り合うように言い争っている。
その近くでは、ふわふわした獣耳の生えた小さな女の子が、青く光る虫を追いかけ回していた。母親らしき女性が襟首を掴んで捕まえると、虫は光の軌跡を残しながら天井へ飛んでいった。
誰も気にしていなかった。
……まあ、こっちじゃ普通の光景なんだろうな。
昨日、目の前で人が死んだ。
そして今日は、どこかの男が卵が冷めていると文句を言っている。
世界ってのは、本当にクソみたいに無関心だよな。
「おーい! こっち!」
壁際のテーブルから愛子が手を振っていた。
俺はそちらへ向かい、彼女の向かい側に腰を下ろした。
テーブルには二人分の皿があり、そのうち一枚はすでに俺の席へ押しやられていた。
「食え」
皿を見下ろす。
パンに卵、何かの焼き肉。それから、オレンジ色の根菜を潰したようなものが小鉢に入っていた。
「……何これ?」
「朝飯だよ、バカ」
「それはわかってる」
「じゃあ何で聞くんだよ?」
俺は愛子を見た。
愛子も俺を見返した。
「……何でもねぇ」
俺はパンを手に取り、一口かじった。
パンの味がした。
……うん。それだけだな。
次にオレンジ色のやつを食べてみる。ほのかな甘みと土っぽい風味があって、サツマイモに少し似ていた。
悪くない。
……まあ、どうでもいいけど。
愛子はしばらく俺の様子を窺っていたが、やがて自分の食事に戻った。
俺たちは黙って食べた。
……いや、食べていたのは愛子だけかもしれない。
俺は口に運んで、噛んで、飲み込んで……たまに、まだ口の中に食べ物が残っていることを思い出した。
しばらくすると、愛子がフォークを置いた。
「……なあ。ちょっと話がある」
俺は皿を見つめたまま答えた。
「何の話?」
愛子が呆れた顔をする。
「……マジで言ってんの?」
「……悪い。アホな質問だった」
「だろうな」
彼女は椅子にもたれ、腕を組んだ。
「今いる場所も、残りの金も、これからどうするかも。ちゃんと考えないといけないだろ」
「……ああ」
「……ああ?」
「うん」
愛子は俺の返事を待った。
俺は何も言わなかった。
「……何か考えはある?」
「ない」
「自分たちがどこにいるかもわかんない?」
「わかんない」
「金がいくら残ってるかも?」
「……よくわかんねぇ」
愛子はゆっくりと目を閉じた。
そりゃそうだ。俺が愛子の立場だったら、こいつをぶん殴りたくなっていると思う。
「潤也」
「何だよ」
「あたしに全部やらせる気?」
俺は顔を上げた。
「……何をしてほしいんだよ」
「考えろ! そのデカい頭は飾りかよ!」
「わかんねぇって言ってんだろ!」
思ったより大きな声が出てしまった。
近くのテーブルにいた客たちが、何人かこちらを振り向いた。暖炉のそばのドワーフも、マグカップを口に運ぶ途中で動きを止めていた。
愛子は黙り込んだ。
俺は再び皿に目を落とした。
「……悪い」
彼女はすぐには返事をしなかった。
やがて、フォークを手に取った。
「……いいから、朝飯食え」
それで終わりだった。
説教もなければ、言い争いもない。もっとしっかりしろだの、いつまでも引きずるなだの、そんなドラマみたいな台詞もなかった。
……なのに、どうしてだろうな。
余計に胸が苦しくなった。
俺は無理やり次の一口を飲み込んだ。
本当は、伝えたかった。
ちゃんと頑張ろうとはしているんだ、と。
わざと役立たずを演じているわけじゃないんだ、と。
目を閉じるたびに、みんなが死んでいく光景が蘇るんだ、と。
だが、そんなことをどう言えばいいのか、俺にはわからなかった。
口にすれば、ただ情けないだけの言い訳になりそうで。
だから、俺は何も言わなかった。
---
午前中は、今いる場所について調べて過ごした。
……正確には、愛子が調べていた。
どうやら、馬車の御者は近くの町へ向かっている途中で俺たちを見つけたらしい。残っていた金の一部を払って、町まで乗せてもらったそうだ。
愛子が御者と話をつけている間、俺はただ隣に立っていた。
彼女が質問する。
俺は聞いている。
彼女が硬貨を数える。
俺は見ている。
御者は額から曲がった角を生やした、体格のいい獣人だったが、愛子は臆することなく旅費の値段を交渉していた。
……あいつ、何の獣人なんだろうな。
まあ、愛子も御者も、そんなことは気にしていないらしい。まるで当たり前のように金の話をしていた。
結局、御者は愛子の提示した金額で了承した。
俺だったら、最初に言われた額をそのまま払っていただろう。
宿屋に戻る頃には、次の行動を決めるまで、もう一晩ここに泊まることになっていた。
俺はそれに同意した。
愛子の判断が間違っていると思ったわけじゃない。
ただ、自分で何かを決める気力すら残っていなかった。
部屋に戻ると、俺はベッドに腰を下ろして携帯を取り出した。
ログのメッセージは、まだ画面に残っていた。
俺はそれを見つめた。
そして、画面を消した。
数秒後。
また画面をつけた。
……何やってんだ、俺。
一体、何を期待している?
すべてを説明してくれる新しいメッセージか?
俺たちが生き残った理由を教えてくれる、何か見落としていた手掛かりか?
何度も読み返した同じ文章を、また最初からスクロールしていく。
何も変わらなかった。
意味はわからないままだった。
それでも、見れば見るほど、何か大切なことを見落としていたんじゃないかという考えが頭から離れなくなった。
何か、明らかなことを。
何か、気づいてさえいれば、みんなを救えたかもしれないことを。
俺は奥歯を噛み締め、携帯の電源を切った。
「……クソッ」
ベッドに放り投げる。
携帯は枕に当たって跳ね、その隣に落ちた。
もう一度拾おうかとも思った。
だが、結局、俺はベッドに横になり、天井を見つめた。
あと五分だけ。
五分経ったら起きよう。
そう思って、目を閉じた。
---
誰かがドアをノックする音で目が覚めた。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
やがて、愛子の声が聞こえた。
「潤也ー! 夕飯!」
俺は上半身を起こした。
……首が痛ぇ。
俺、そんなに長いこと寝てたのか?
窓の外を見ると、日差しはすっかり弱まり、部屋の中も薄暗くなっていた。
ガラス越しに見える町の通りでは、小さな光がいくつも浮かび始めていた。まるで蛍のような光が道路の上を漂い、店の看板や、店じまいを始めた露店の色鮮やかな日よけを照らしている。
下の通りでは、誰かが値引きされた果物について大声で宣伝していた。
遠くから鐘の音も聞こえてくる。
……へぇ。
ちょっといいな、これ。
俺はもう少しだけ光を眺めてから、自分がどこにいるのかを思い出した。
「……今行く」
立ち上がってドアを開けると、愛子が腕を組んで待っていた。
彼女は俺を頭から足元まで見た。
「昼過ぎまで寝てたのかよ?」
「いや」
愛子が眉を上げた。
「……ちょっとだけ」
「はぁ……」
彼女はくるりと背を向けて歩き始めた。
俺もその後を追い、階段を下りた。
夕飯の時間は、朝食のときよりも静かだった。
俺たちは同じテーブルに座り、愛子が二人分の食事を注文した。やがて宿屋の主人が、肉や野菜の入った濃いシチューと、黒っぽいパンの籠を運んできた。
シチューの器を揺らすたび、青白い光がかすかに浮かび上がった。
俺はそれを見つめた。
「……これ、普通なのか?」
カウンターの向こうにいたエルフの店員がこちらを振り向いた。
「温まると青く光る根菜が入ってんだよ。アレルギーでもなきゃ、食っても問題ねぇさ」
そう説明すると、彼女はそれ以上何も言わず、別のテーブルへ料理を運んでいった。
俺はシチューを見下ろした。
……なるほど。暗闇でも夕飯が見えるってわけか。
愛子はすでに食べ始めていた。
「いつまで見てんだよ。眺めてたって秘密がわかるわけじゃねぇぞ」
「毒じゃないかと思って」
「じゃあ、エルフに聞けよ」
「もう行っちまっただろ」
「残念でしたー」
俺は恐る恐るスプーンで一口すくい、口に運んだ。
……普通にうまい。
そりゃそうだろ。何もかもが俺を殺そうとしているわけじゃないんだから。
愛子が町のことを話している間、俺はちゃんと聞こうとしていた。
本当に、そうしようとはしていた。
話の内容は主に物価の高さや、宿屋の主人が隙あらば俺たちから金を巻き上げようとしている、といった愚痴だった。
だが、彼女が値段について文句を言っている途中で、俺の意識は再び馬車の中へと引き戻された。
血。
あの男が俺たちの前に立っていた瞬間。
そして、ルイが戦っていた姿。
俺は噛むのをやめた。
「……潤也?」
顔を上げる。
愛子が俺を見つめていた。
「ん?」
「何考えてたんだよ?」
「別に」
愛子は眉をひそめた。
「……お前、嘘つくの下手すぎだろ」
「だったら、聞かなきゃいいだろ。どうせ聞きたくない答えなんだから」
言葉が勝手に口から飛び出した。
愛子の表情が険しくなる。
俺は目をそらした。
「……忘れてくれ」
それから夕飯が終わるまで、愛子は何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
周囲の食堂では、相変わらず人々が騒いでいた。冒険者たちが地図を広げ、赤い線で記された道を指差しながら言い争っている。カウンターのそばでは、誰かが周りの客が振り返るほど大声で笑っていた。エルフの店員は飲み物の載った盆を運び、誰かに呼ばれるたびに尖った耳をぴくりと動かしていた。
みんな食べている。
みんな話している。
みんな生きている。
その中で俺だけが、食事の味すらほとんどわからないまま、ただ座っていた。
……試験に受かるかどうかなんてことで悩んでいた、あの頃に戻りたかった。
---
その夜、俺は早めにベッドへ入った。
……いや、早めに寝ようとはした。
毛布の下で目を開けたまま、宿屋が静かになっていく音を聞いていた。
廊下を歩く足音。
階下でドアが閉まる音。
まだ起きている客たちの、くぐもった話し声。
やがて、それらの音も聞こえなくなった。
俺は横向きになった。
ベッド脇の椅子には、ルイの外套が畳まれて置かれていた。
暗闇の中でも、その輪郭だけはかろうじて見えた。
ルイがそれを俺に渡してくれた日のことを思い出す。
まるで大したことじゃないみたいに、当たり前の顔で渡してきたこと。
俺も、深く考えずに受け取ったこと。
それが何を意味するのか、考えもしなかったこと。
俺は唾を飲み込んだ。
「……兄ちゃん」
暗闇の中で、自分の声が妙におかしく聞こえた。
口に出すつもりなんてなかった。
俺は毛布を頭まで引っ張り上げた。
明日のことなんて考えたくなかった。
何も考えたくなかった。
だが、目を閉じるたび、あの場所へ引き戻される。
何度思い返しても、あの結末を変える方法なんて見つからなかった。
---
二日目の朝も、何もよくならなかった。
……一応、眠ったことにはなるんだろう。
そう言うのが精一杯だった。
太陽が昇りきる前に目が覚めた俺は、ベッドから起き上がる気になるまで、しばらく天井を見つめていた。
だが、そんな気持ちはいつまで待っても湧いてこなかった。
結局、無理やり体を起こした。
テーブルの上には携帯。
椅子の上にはルイの外套。
何もかも、昨日と同じ場所にあった。
……それが、どうしようもなく嫌だった。
部屋は昨日と何も変わっていない。
なのに、世界は何事もなかったかのように回り続けている。
俺は着替え、顔を洗ってから階下へ向かった。
食堂には焼きたてのパンと、何か香辛料の効いた料理の匂いが漂っていた。暖炉のそばには早起きの客が何人か座っており、その中には短い角と長い鱗の尻尾を持つ女性もいた。彼女はマグカップに蜂蜜を混ぜながら、ぼんやりと火を眺めている。
カウンターの向こうでは、エルフの店員が鼻歌を歌いながら皿を積み重ねていた。
俺に気づくと、彼女は顔を上げた。
「おはよう。朝食なら、もう出せるよ」
俺はろくに彼女を見ないまま頷いた。
「そこのテーブル、空いてるから使いな」
彼女は壁際を指差した。
愛子はすでに席についていた。
俺が近づくと、彼女は顔を上げた。
「遅ぇよ」
窓をちらりと見る。
「まだ日も昇りきってねぇだろ」
「それでも遅ぇもんは遅ぇんだよ」
いつもの俺なら、うるせぇとでも言い返していただろう。
だが、俺は黙って椅子に座った。
愛子が水の入ったカップを押し出してきた。
「飲め」
俺は水を飲んだ。
「それで、今日はどうするか決めないとな」
俺はテーブルを見つめた。
「……お前が決めろよ」
沈黙が落ちた。
愛子はカップを置いた。
「……嫌だ」
顔を上げる。
「嫌?」
「そう。もう昨日みたいなのはごめんだ」
彼女は身を乗り出した。
「昨日は、お前も疲れてたし、ショックだったんだろうからって何も言わなかった。時間が必要なのもわかってた。だから、まあいいかって思ったんだよ」
彼女の指がカップを強く握る。
「でも、もう二日だぞ。お前は何一つ手伝わない。ろくに飯も食わない。何時間も携帯を眺めてるくせに、あたしが話しかければ邪魔そうな顔をする」
俺は目をそらした。
「……別に、お前に世話してくれなんて頼んでねぇだろ」
口にした瞬間、失言だったと気づいた。
愛子がぴたりと動きを止めた。
「……は?」
俺は額をこすった。
「だから、俺の面倒を見ろなんて頼んでねぇって言ってんだよ」
一瞬、二人とも動かなかった。
やがて愛子が、信じられないというように短く笑った。
「……面倒を見ろ?」
俺は答えなかった。
「お前、あたしが何してたと思ってんだよ?」
「知らねぇよ。何て言ってほしいんだよ?」
「お前だけが好き勝手にぶっ壊れていいと思うなって言ってんだよ!」
愛子の声が大きくなり、近くのテーブルから何人かがこちらを振り向いた。
俺はびくりとしたが、何も言い返さなかった。
「あたしだって、みんなを失ったんだよ! 目の前で殺されるのを見たんだ! それで、あたしがここに来てから何してたか、お前わかってんのか?」
彼女は食堂をぐるりと指差した。
「泊まる場所を見つけた。部屋代も払った。ここがどこなのかも調べた。飯を食う金も、次に行く場所も、全部あたしが考えてきたんだよ!」
一度息を吸ったが、怒りは収まらなかった。
「その間ずっと、あたしだって何があったのか思い出さないようにしてたんだよ!」
俺は愛子を見つめた。
彼女は怒っていた。
だが、その顔の奥には疲れも見えた。
「……別に、そこまでやれなんて言ってねぇだろ」
「言わなきゃいいってもんじゃねぇんだよ! お前が何もしないから、あたしが全部やるしかなかったんだろ!」
俺はテーブルの下で拳を握りしめた。
「……今は何も考えられねぇんだよ!」
「だったらそう言えよ! 考えられないって言え! 助けてくれって言え! 何でもいいから言えよ! 『お前が決めろ』だの『放っとけ』だの、そればっかじゃねぇか!」
口を開いた。
何も出てこなかった。
愛子はテーブルに目を落とし、荒い息を吐いていた。
やがて、少し落ち着いた声で言った。
「あたしは、お前に立ち直れなんて言ってねぇ。みんなのことを忘れろとも、平気なふりをしろとも言ってねぇよ」
彼女はまっすぐ俺を見た。
「……でも、あたしだって悲しいんだよ、潤也」
俺は目を合わせられなかった。
「それでも、誰かが決めてくれるのを待ってるわけにはいかねぇんだ。お前も、あたしも」
俺は唾を飲み込んだ。
「……お前にはわかんねぇよ」
小さくこぼれた言葉だった。
愛子の表情が変わった。
怒りではなかった。
もっと冷たい、何かだった。
「……そうだな。あたしにはわかんねぇよ」
彼女は椅子を後ろへ引いた。
「自分に何ができたのかもわかってねぇのに、そうやって自分を責め続ける理由が、あたしにはわかんねぇ」
俺は固まった。
「それに、お前だけがあいつらを大切に思ってたみたいな顔をする理由もな」
愛子は立ち上がった。
「でも、一つだけわかることがある」
彼女は俺を見下ろした。
「……あの出来事を言い訳にして、あたしに八つ当たりするのはやめろ」
そう言い残すと、愛子は背を向けて歩き去った。
俺は、彼女が座っていた場所を見つめたまま動けなかった。
周りの食堂は、何事もなかったかのように続いていた。
スプーンが器に当たる音。
誰かが店員にお茶のおかわりを頼む声。
ドワーフが椅子を引き、立ち上がる音。
世界は、何事もなかったかのように回り続けていた。
俺が今まで見たこともない種族や生き物が溢れるこの場所でも、みんなは何事もなかったかのように生きている。
俺は、いつものように言い返すことができなかった。
言葉が思いつかなかったからじゃない。
……心のどこかでは、愛子の言っていることが正しいとわかっていたからだ。




