第1章(第1話)『異世界転生』
「……俺、動いてる……?」
目が痛い。視界もぼやけている。
俺はゆっくりと顔を上げ、木製の天井を見上げた。
くそ……目が痛え……。
徐々に視界がはっきりしてくると、目の前の木製ベンチに、一人の少女が横たわっているのが見えた。彼女は俺に背を向けたまま眠っている。
……誰だ、あの女?
車輪が道を転がる音と、馬の蹄が地面を叩く規則的な音が聞こえてくる。
外からは人々の話し声も聞こえるが、何を言っているのかさっぱりわからない。
……待てよ。
俺、馬車の中にいるのか?
一体どうなってんだ……?
とりあえず、状況を整理する前に、自分の身体を確認することにした。
手。胸。脚。
血はない。
痛みもない。
……俺、生きてんのか?
いや、そんなわけがない。
俺は確かに死んだはずだ。
愛子と一緒にトラックに轢かれた。あれは間違いない。
俺たちは死んだはずなんだ。
絶対に。
俺は改めて馬車の中を見回した。
壁際には木箱がいくつも積まれており、それぞれに何やら文字が書かれている。
……読める。
読めるんだが、日本語じゃない。
……は?
馬車の窓から外を覗こうと身を乗り出した、その瞬間。
黄金色の光が視界を横切り、目がくらむほどの眩しさに襲われた。
「うおっ!?」
慌てて頭を引っ込め、両手で目を覆う。
しばらくして視界が落ち着くと、俺は恐る恐るもう一度外を覗いた。
そして、その瞬間。
目の前に広がる景色の壮大さに、思わず息を呑んだ。
馬車は、眩い日差しに照らされた巨大な広場へと入っていくところだった。
なんて言えばいいんだろうか……。
まるで、金持ちが支配するファンタジー世界みたいだ。
広場の中央には、何段にも重なった巨大な石造りの噴水がそびえ立っていた。上段から勢いよく湧き出した澄んだ水が、幾重もの段差を流れ落ち、下にある広々とした水盤へと注ぎ込んでいる。
建物の造りも、俺が想像していた以上に洗練されていた。
広場の両側には、白い漆喰の壁と鮮やかなオレンジ色の瓦屋根が特徴的な、三階建てのタウンハウスが整然と並んでいる。
まるで高級ヨーロッパ旅行のパンフレットから、そのまま切り取ってきたような街並みだった。
街の緑まで、きちんと手入れされている。
石畳の道沿いには木々が植えられ、枝も丁寧に剪定されていた。明るい朝日を浴びた木々が、地面にくっきりとした影を落としている。
だが、俺の目を本当に引いたのは、もっと遠くにあるものだった。
街の住宅区を覆うように、赤茶色の巨大な石造りのアーチがそびえ立っていたのだ。
……なんだ、あれ?
巨大な水道橋か? それとも、防衛用の高架橋か何かか?
どちらにしても、街の空を横切るほどの大きさだ。
さらに、その壮大なアーチの向こう側には、街の高台を見下ろすように、巨大なコロッセオを思わせる建造物がそびえていた。
真っ白なドームが、朝日の下で目がくらむほどに輝いている。
……いや、デカすぎだろ。
広場には、あまりにも多種多様な人々が行き交っていて、見ているだけで頭がクラクラしてきた。
ここは、人間だけが暮らす街じゃない。
市場を歩く獣人たちは、商人たちの威勢のいい呼び込みに反応するように、耳をピクピクと動かしていた。
姿勢が異様なほど優雅で、長く尖った耳を持つ男女。あれは間違いなくエルフだろう。彼らは商人と布地の値段について交渉している。
その近くでは、がっしりとした体格のドワーフたちが鉄製品の品質について大声で言い争っていた。身振り手振りに合わせて、見事に編み込まれた髭が揺れている。
その低い声は、広場の喧騒の中でも不思議なくらいはっきりと聞こえてきた。
そして、武器を並べた露店のそばに立っていたのは……。
オークの冒険者だった。
いや、マジで。
どうやったら目を逸らせっていうんだよ!?
大抵の物語じゃ、オークってのは知性のない化け物として描かれている。
なのに、目の前のオークは銅貨を一枚ずつ落ち着いて数えていた。まるで、ギルドから依頼を受けるのを待っている、ごく普通のフリーランスみたいに。
……なんなんだよ、この世界。
そんな光景を眺めていると、地元の騎士たちが一団となって広場を行進してきた。
全身を覆う重厚な銀色のプレートアーマー。歩くたびに、金属がぶつかり合う威圧的で規則正しい音が響いている。
鎧は鏡のように磨き上げられており、朝日を反射してキラキラと輝いていた。
先頭を歩く男は、明らかに彼らの指揮官だろう。
真っ白なマントが、歩みに合わせてゆったりと揺れている。
騎士たちが通り過ぎると、一般市民も獣人たちも、誰一人として口を挟まずに道を空けていた。
誰かが命令する必要すらない。
この国で誰が本当の権力を握っているのか、見ているだけで嫌でも理解できた。
……なるほどな。
俺が死んで、幻覚でも見ているのか……。
それとも……。
……異世界に来ちまったってことか?
俺は目の前で眠っている少女へと視線を戻した。
彼女はまだ眠っていて、ベンチの上で少し身じろぎしている。
……悪夢でも見てんのか?
起こそうと近づいた、そのとき。
彼女の髪に見覚えがあることに気づいた。
色。
長さ。
……いや、まさか。
俺は彼女の身体をそっと動かし、顔がこちらを向くようにした。
愛子ォォォ!?
やがて馬車が止まった。
俺は愛子を抱えて外へ出ると、石畳の上にそっと寝かせた。
はああ……。
……お前もいるのかよ。
正直、こんなことになるとは思っていなかった。
普通、異世界転生って一人でするもんじゃないのか?
俺が特別な存在だと思ってたんだが……。
いや、知り合いが一人でもいるのは、別に悪いことじゃない。見知らぬ世界で目を覚ましたうえに、何もかも一人で解決しなきゃならないなんて、考えただけでも最悪だ。
そこは文句を言うつもりはない。
……ないんだが。
愛子?
マジで?
数ある人間の中から、どうしてよりにもよってこいつなんだよ。
ちょっと目が合っただけで喧嘩を始めそうな、口の悪いトラブルメーカー。
……まあ、退屈だけはしなさそうだけどな。
愛子はすやすやと寝息を立て、時折小さく唸りながら、ゆっくりと目を開けた。
半分寝ぼけたような目で周囲を見回し、俺の顔に目を向ける。
そして、何事もなかったかのように、再び目を閉じた。
……この野郎ォォォ……!
「おい」
反応なし。
俺は指先でつついた。
「愛子」
それでも反応なし。
「おーい、愛子ちゃーん。今すぐ起きないと、イタズラしちゃうぞぉぉぉ!」
彼女の目が、ほんの少しだけ開いた。
……と思ったら、すぐに閉じた。
へえ……そういう態度を取るわけか。
いいだろう。
その勝負、受けて立つ。
「わかった。そこまで言うなら――」
そう言いかけたところで、周囲の人々がこちらを見ていることに気づいた。
しかも、何やらヒソヒソと話している。
「おい、あの男……寝ている女の子に何をしてるんだ?」
「衛兵に通報したほうがいいんじゃないか?」
「変態!」
くそっ……!
他人から見れば、俺は完全に不審者だった。
最悪だ。トラックに轢かれて死んだと思ったら、異世界で目を覚まして、まともに立ち上がる前から犯罪者扱いかよ……!
そのとき、愛子が小さく鼻を鳴らした。
次の瞬間。
「っぷ……あはっ……!」
腹を抱えて笑い出した。
「アッハハハハ! アンタ、完全に変態扱いされてんじゃん! このオタクニート!」
ぐぬぬ……! この役立たずのボンクラ女め……!
「この野郎ォォォ! 起きてたのかよ!?」
愛子はさらに大きな声で笑い続けた。
信じらんねえ……。馬車に置き去りにしてくればよかった。
……いや、待て。
どうせ後になって目を覚まして、「なんであたしを置いていったのよ!」とか文句を言うに決まっている。
まったく、面倒くさい女だ。
ようやく笑いが収まってきた愛子は、周囲を見回し始めた。
すると、隣でガタガタと震え出した。
「ひゃああああ……じゅ、潤也! ここ、どこなのよ!?」
愛子は俺の袖をつかみ、巨大な石造りの建物や、見慣れない姿の人々を忙しなく見回した。
「な、なんなのよ、あれ!?」
彼女の視線を追う。
そこには、トカゲの頭をした男が、野菜の入った籠を抱えて通りを歩いていた。
ああ、俺も最初は同じ反応だったよ。
「落ち着けよ、このビンボー女」
「び、ビンボー……?」
「それはさておき――」
次の瞬間、愛子は俺のトラックスーツの胸元をつかみ、顔がぶつかりそうなほど強引に引き寄せてきた。
「二度と! 二度と! 二度と! あたしのことをビンボー女って呼ぶなああああ!!」
「ぐえっ!? お、おい! 離せって!」
くそっ、なんつー握力だよ!?
こいつ、実はゴリラなんじゃねえのか!?
「わかった!?」
「わ、わかった! よーくわかったから!」
ようやく愛子は俺を解放した。
俺はよろめきながら一歩下がり、襟元をさすった。
……マジかよ。自分がどれだけ力持ちなのか、こいつは理解してんのか?
……ったく、マジで腹の立つ女だ。
「おい、いい加減にしろよ! 周りの人たちが見てるだろ!」
実際、周囲の人々は俺たちに注目していた。
近くの商人はリンゴを並べる手を止め、通りかかった老婆は、問題児を見るときのような目で俺たちを見ている。
……最高だな、おい。
この世界に来て、まだ五分くらいしか経っていない。
それなのに、もう騒ぎを起こしている。
この調子じゃ、自分たちがどこにいるのかもわからないうちに、街から追い出されるぞ……。
俺は愛子に目を向けた。
彼女はまだ俺を睨みつけている。今にも口喧嘩を再開しそうな勢いだ。
……しかも、まだ朝飯すら食ってねえ。
俺は深いため息をついた。
こんな女と一緒に、どうやって異世界で生き延びろってんだよ……。
※※
しばらく周辺を歩き回っていると、突然、少女の声が耳に入った。
大通りから少し外れた、細い路地の奥から聞こえてくる。
俺は足を緩め、そちらへと顔を向けた。
周囲の喧騒に邪魔されて、何を話しているのかまでは聞き取れない。
だが、少女の声から察するに、どうも様子がおかしい。
……もしかして、強盗か?
俺は路地の入口で足を止めた。
落ち着け、潤也。よく考えろ。
ただの勘違いかもしれない。誰かと言い争ってるだけかもしれないし、単に怒ってるだけかもしれない。人間なんだから、喧嘩くらいするだろ。異世界だって同じはずだ。
……でも、本当に困ってるんだとしたら?
俺は目を凝らし、細い路地の奥にいる人影を確認しようとした。
くそっ……なんでこういうことって、いつも何の準備もできてないときに起こるんだよ?
この世界に来て、まだほんのわずかな時間しか経っていない。
金もない。武器もない。この世界の仕組みもわからない。
そして何より――自分に誰かと戦えるだけの力があるのかどうかすら、わかっていない。
俺に何をしろってんだ? あそこに乗り込んで、「おい、お前ら!」って怒鳴りつけるのか?
……うん、最高の作戦だな、潤也。
トラックスーツを着た男が一人怒鳴り込んできたところで、怪しげな男三人がビビるとでも?
……いや、普通に考えて無理だろ。
このまま立ち去ったほうがいい。
誰かが助けてくれるはずだ。
……そうだろ?
俺はもう一度、少女の声に耳を傾けながら、その場に立ち尽くした。
くそっ……。
もし、このまま立ち去って、あの子に何かあったら……俺は本当に、何も聞こえなかったふりをしていられるのか?
俺は歯を食いしばった。
そもそも、あの子のことなんて何も知らない。助ける義理だってない。
……
……なのに、なんで俺はまだここに立ってんだよ?
俺は慎重に一歩、路地へと足を踏み入れた。
「……ああ、くそ。これって……?」




