プロローグ : 急死
降りしきる雨が、まるで銃弾の雨のように、濡れたアスファルトを叩きつけていた。
激しい雨音にかき消されそうになりながらも、遠くから救急車のサイレンが響いてくる。嵐の夜を切り裂くような、切迫した音だった。
「なあ……これ、俺の……血か?」
視界は完全にぼやけ、目の前が赤く染まっていた。
頬を伝う液体は、吐き気がするほど生温かく、どろりとしている。
そんな中、俺に見えていたのは、たった一つ。
暗がりから俺を見下ろす、冷たく無機質な目だった。
ああ……俺はここで死ぬんだ。
意識が完全に途切れようとした、その瞬間。
鋭い光が目に飛び込んできた。
俺の携帯電話からだった。
光が強くなる。
もっと強く。
さらに強くなって――
**カチッ。カチッ。カチッ。**
マウスをクリックする音が、暗闇の中に響き渡った。
狭苦しい部屋を照らしているのは、モニターから放たれる無機質な光だけ。俺はコントローラーを握りしめ、画面に食い入るようにしていた。
「おい、ヒーラーはどこだよ!? おい、そこのバカ! さっさと回復しろって! 早くしろおおお!!」
ヘッドセットから、耳障りな電子音が鳴り響いた。
操作していたキャラクターのHPが、ついにゼロになった音だ。
「クソがあああ!!」
完全にブチ切れた俺は、ヘッドホンを引っぺがし、机に叩きつけた。
疲れ切った目をこすりながら椅子にもたれかかると、腹の底から低い音が響いた。
「……ああ、そういや今日、あんまり食ってなかったな」
空腹に突き動かされ、俺はようやく自分の巣穴から這い出した。
少し歩いたところにある、いつものコンビニへ向かう。
俺の身長は、175センチ。同年代の平均よりは少し高い。
これといって特徴のない見た目を少しでもマシにしようと、もともと茶色だった髪を真っ白に染めてみた。もっとも、染め方は決して上手いとは言えなかったが。
毛先や襟足には、しぶとく茶色が残っている。そのせいで、意図せず妙にキマった髪型になっていた。
一日中部屋にこもってゲームばかりしている同年代の男なら、運動不足でだらしない体つきをしていると思うだろう。
だが、俺の体は意外にも引き締まっていた。
昔、必死になってスポーツに打ち込んでいたおかげだろう。無駄のない、細身でしなやかな体つきになっていた。
俺はコンビニの棚の前にしゃがみ込み、安いカップラーメンを前に、まるで生死を分ける決断でも迫られているかのように悩んでいた。
「チッ……今日に限ってビーフ味が売り切れかよ……」
大きくため息をつき、渋々チキン味に手を伸ばす。
そのとき、耳障りな女の声が店内の静けさをぶち壊した。
「お願いです! ワインだけでも持っていかせてください! レディとしての誇りにかけて、残りのお金は明日必ず払いますから!」
……うるせえな。
面倒事に巻き込まれるのは御免だったが、気になって棚の隙間から様子をうかがった。
そこには、短く切りそろえられた、暗いワインレッドの髪をした少女がいた。
服装は、まるで何も気にしていないかのようにラフだった。黒いシャツの上に短いジャケットを羽織り、足の形もよく分からないほどダボダボのグレーのスウェットを穿いている。
後ろ姿だけなら、二十歳そこそこに見えた。
小柄な体格と短いジャケットが、どこか少女らしい雰囲気を漂わせている。
……それなのに、酒瓶一本をめぐって店員に食ってかかっている。
マジでうるせえ女だ。
「お客様、今週これで三回目ですよ。それに、前回のワインの代金だって、まだ全額払っていただいていませんよね……」
疲れ切った店員が、うんざりした様子でぼやいた。
俺は関わらないように、その場を離れようとした。
だが、背を向けた瞬間、少女の声が俺を捕まえた。
「そこの少年!」
振り返る間もなかった。
少女は一瞬で俺の目の前まで距離を詰めてきた。
いや、近い近い近い!!
「ねえ、こんなに可愛い女の子のために、ちょっとだけお金を恵んでくれない……?」
「はあ!? お、おい、近すぎるだろ! 離れろって!」
そこで初めて、俺は彼女の顔をまともに見た。
そして、衝撃を受けた。
*……めちゃくちゃ美人じゃねえか!*
少女は恥じらいの欠片もなく、その場にしゃがみ込むと、俺の古びたジャージの裾をつかんだ。
「お願い!! ほんのちょっとでいいから……! 絶対返すから!!」
……なんなんだ、この女。
恥も外聞もないとは、まさにこのことだ。
見ず知らずの男に金をせびるために、ここまで堂々としゃがみ込めるとは。とんでもない度胸である。
数分後。
俺たちは一緒にコンビニを出た。
俺は深く、敗北感に満ちたため息をついた。
「絶対に返せよ! 分かったな?」
「はいはい……分かってるって」
……ふざけんなあああ!!
助けてやった直後から、その態度かよ!
「あ、そうだ。あたし、番堂愛子。よろしくね」
愛子は気軽に手を振りながら言った。
「連絡先交換しよ。携帯貸して。番号入れとくから」
「……俺は久吾。久吾潤也だ」
彼女の携帯に自分の番号を入力しながら、ふと浅はかな考えが頭をよぎった。
……まあ、こんな美人に自分の番号を知られるのも、悪くないかもしれない。
「じゃ、またねー」
愛子はくるりと踵を返した。
……はあ。
俺の所持金、これで完全にゼロである。
やったね!
俺は空を見上げた。
重苦しい嵐の雲が、地平線を不気味な紫色に染め上げていた。
「……もうすぐ雨が降りそうだな」
俺は再び、去っていく愛子の背中に目を向けた。
彼女が何かをつぶやいている。風に乗って、その声がかすかに届いた。
「さっきの潤也って男、髪型ちょっとカッコよかったな……あたしも染めようかな――」
「おい!」
俺は小走りで追いつき、声をかけた。
「よかったら、家まで送っていこうか?」
性格が救いようのないほどアレでも、こんな時間に女の子を一人で歩かせるわけにはいかない。
俺の良心が、それを許さなかった。
愛子は立ち止まり、わざとらしく頬を膨らませて振り返った。
「はああ!? あたしがチンピラに絡まれるとでも思ってんの!?」
「いや」
「返事早すぎでしょ!? ……はあ、もういいわよ」
……ああ、気まずい。
なんでこんなに気まずいんだよ……。
まあ、俺がこういうタイプの人間だから仕方ないのかもしれない。
いや、待て。潤也。せめて何か話題を振れ。
「そ、そういえば……お前、何歳なんだ?」
「おほ?」
愛子の口元に、意地の悪い笑みが浮かんだ。
「へえ? あたしのことが気になるんだ?」
「……変な勘違いすんなよ。高そうなワイン買ってたし、見た目も若いから、何歳なのか気になっただけだ」
「そういうことね……。あたしは18歳。あと1週間で卒業する予定なの。まあ、新しい生活が始まるのが怖くて、現実逃避してるって感じ?」
現実逃避、か。
まあ、ストレスの発散方法なんて人それぞれだろう。
……ただし、酒に頼るのはやめておこう。うん。
「じゃあ、俺と同い年か……」
とはいえ、俺は卒業できるとは思っていない。
学校をサボりすぎた。今さら卒業なんて、到底無理な話だ。
「ワインを飲むと、少し気が楽になるのよね。自分だけの世界にいられるっていうか……。あーあ、人間関係ってほんっと面倒くさい」
愛子はぼそりとつぶやいた。
……意外なことを言うんだな。
「分かるよ。人間関係って疲れるよな」
俺はうなずいた。
「周りに合わせるために、本当の自分を隠して、別人のふりをしなきゃいけない……。あれって、マジで疲れるんだよ」
スポーツができて、勉強もできて、周りを笑わせることもできる。
昔は、それが自分の取り柄だった。
けど、いつの間にか全部がつまらなくなっていた。
何もかもが嘘くさく思えて、俺は少しずつ人との距離を置くようになった。
……俺は一体、誰に認められたかったんだろうな。
「ほらほら、元気出しなさいよ、陰気くん!」
愛子が笑いながら、俺の肩を小突いた。
「ところでさ、お前ってアル中なの?」
「俺はアル中じゃねえええ!!」
――グフッ!!
次の瞬間、愛子の拳が俺の腹にめり込んだ。
ぐはっ……!
なんなんだよ、この女……!?
言動が完全に男じゃねえか!
顔だけはいいのに。
性格が最悪すぎる!!
――ブブブブブッ。
――ブブブブブッ。
ポケットの中で、耳障りな振動音が鳴った。
メール……?
こんな時間に一体誰が――
そこまで考えた瞬間、背筋に冷たい静電気が走ったような感覚がした。
画面を見下ろした途端、胸の奥に嫌な予感がどっと押し寄せてきた。
【LOG #001】
対象:久吾潤也
死因:圧迫による内出血
残り時間:00:01:15
【LOG #002】
対象:番堂愛子
死因:圧迫による内出血
残り時間:00:01:05
「……なんだよ、これ」
俺はぼそりとつぶやいた。
自分の声が、ひどく空虚に響いた。信じられないという気持ちと、じわじわと膨らむ不安が胸の中で入り混じっていた。
どこの誰だか知らないが、こんな気味の悪い迷惑メールを送りつけてくるとは。
まったく、嫌な世の中だ。
深く考えないことにして、俺はガラケーをパタンと閉じた。
「大丈夫? なんか、幽霊でも見たみたいな顔してるけど……」
……まさにその通りだ。
こんな悪趣味な冗談、年寄りなら心臓発作を起こしてもおかしくないぞ。
「……大丈夫だ」
そのとき、愛子が突然立ち止まった。
彼女の表情が、みるみるうちに驚愕へと変わっていく。
「これ、持ってて」
息を切らし、震える声でそう言うと、愛子は冷たいガラス瓶を俺に押しつけた。
そして、前方の交差点へ向かって駆け出した。
何もかもが、あまりにも急だった。
愛子の向かった先に目をやると、交差点の暗がりで、酔っぱらったホームレスの男が女子高生に乱暴しているのが見えた。
「なあ、いいだろ……? 優しくしてやるからさぁ……」
「やめてください! 誰か、誰か助けて……!!」
愛子は迷うことなく飛び出し、男の顔面に拳を叩き込んだ。
だが、男はほとんどひるまなかった。
「なんだてめえ、クソアマが!!」
男はポケットに手を突っ込み、刃がきらりと光る小型のナイフを取り出した。
自分でも、どうしてそうしたのか分からない。
俺は逃げようとしていたはずだった。
なのに、気づけば足が勝手に動いていた。
……何やってんだよ、潤也。
お前、本当にヒーロー気取りで突っ込むつもりか!?
クソッ……この女のことなんて、まだほとんど知らないってのに。
それなのに、俺の体は――
俺は全身の体重を乗せて、男に体当たりした。
男は足を滑らせ、雨で濡れたアスファルトの上によろめいた。
そして、その頭が歩道の縁石に激突した。
男の体から、力が抜けた。
女子高生は慌てて立ち上がり、助けを求めて叫びながら暗闇の中へ走り去っていった。
「……あの子、礼の一つも言わずに行っちまったな。なあ、番堂さん……」
俺は男が落としたナイフを拾い、手の届かない場所へ蹴り飛ばそうとした。
だが、愛子のほうを振り返った瞬間、心臓が止まりそうになった。
番堂さんが、アスファルトにうつ伏せで倒れていた。
揉み合っているうちに転んで、頭でも打ったのだろうか。
「愛子!! おい、愛子! しっかりしろ!」
俺は慌てて膝をつき、彼女の首筋に指を当てて脈を確認した。
……生きてる。
だが、意識がもうろうとしているようだった。
どうすればいい。
俺は必死に周囲を見回し、地面に落ちている灰色のガラケーを見つけた。ポケットから落ちたらしい。
「救急車を呼ばなきゃ――」
その瞬間、脳が状況を理解するよりも早く、目の前がまばゆい光に包まれた。
けたたましいクラクションが鳴り響く。
暗闇の中から、一台の車が現れた。
雨で滑ったのか、制御を失った車が交差点へ向かって突っ込んでくる。
降りしきる雨が、まるで銃弾の雨のように、濡れたアスファルトを叩きつけていた。
激しい雨音にかき消されそうになりながらも、遠くから救急車のサイレンが響いてくる。
俺は痛みを感じなかった。
ただ、体の中に熱く煮えたぎるような感覚が広がっていく。
視界はぼやけ、赤黒い霧の中に沈んでいった。
頬を伝う液体は、吐き気がするほど濃く、どろりとしていた。
「なあ……これ、俺の……血か?」
まだ、ほんの少しだけ目が見えた。
俺はゆっくりと視線を動かし、すぐそばに倒れている愛子を見た。
彼女の体は、車に押し潰されていた。
それでも、目だけは動いている……。
生きているのか?
ああ……俺はここで死ぬんだ。
意識が完全に途切れる直前、鋭い光が目に飛び込んできた。
濡れたアスファルトに落ちた、俺の携帯電話の画面だった。
雨音と混乱の中、けたたましい着信音が鳴り響く。
冷たい地面の上で、ガラケーが震えていた。
最後の瞬間、俺には画面の文字がはっきりと見えた。
【LOG #001】――完了:久吾潤也
【LOG #002】――完了:番堂愛子
――俺、死んだのか?
……たぶん、そうだ。
脈絡のない記憶が、次々と頭の中を駆け巡り始めた。
ああ……よく言うよな。
死ぬ間際には、人生が走馬灯のように蘇るって。
俺の人生が、今まさに目の前を流れている。




