第1章 (第18話)『出会う』
何をやっても、悪いことは起こるときには起こる。
マーフィーの法則。
前世の俺は、そんな言葉をいつもくだらないと思っていた。
だってそうだろ? 失敗した怠け者が、自分のミスを認めたくなくて言い訳するために作った言葉にしか聞こえなかったんだから。
「マーフィーの法則のせいで失敗したんだ!」
はいはい、そうですか。
だったら言い訳してる暇があるなら、少しは自分の生活を立て直す努力でもしたらどうだ?
……
ああ、なんて傲慢なガキだったんだろうな、俺は。
現実は、こっちがどれだけ頭がよかろうと、どれだけ綿密に計画を立てようと、どれだけ物事がうまくいってほしいと願おうと、そんなことはお構いなしだった。
考えられる限りの事態に備えることはできる。細かいところまで何度も確認して、これで何もかも対策できたはずだと自分に言い聞かせることだってできる。
それでも、物事はうまくいかないときにはうまくいかない。
最悪なのは、それが決まって予想もしていないときに起こることだ。
※ ※ ※
道のりは長くなかった。歩き始めてから、まだ数分しか経っていない。
それなのに、この階層にはどこか違和感があった。
迷宮ルイナのほかの階層は、洞窟や地下通路が大半を占めていた。けど、ここには本物の空があった。
そう。本物の空だ。
頭上には青空が広がり、雲が地面――というか、ここで地面と呼べるものがあるのかも怪しいけど――のすぐ近くを流れていた。
俺は近くにあった崖の縁から、そっと下を覗き込んだ。
……
うわ、マジかよ。
雲が、はるか下に見える。
つまり……。
ここ、めちゃくちゃ高い場所にあるってことだよな?
俺は慌てて崖から離れた。
いやいや、遠慮しとくわ。もう一生分の死にかけ体験は済ませたつもりなんでね。
「ふむ。魔物はこの辺りにいるはずなんだが」
ルイスが呟いた。
「魔物?」
愛子が聞き返す。
「ああ。ただ、もう手遅れかもしれないな」
オルシクの言葉に、俺はそちらを振り向いた。
「手遅れって、何が?」
オルシクはすぐには答えなかった。
代わりに、前方の何かへと視線を向けた。
俺もその視線を追いかける。
そして、足を止めた。
開けた場所に、誰かが立っていた。
白樺の木々の間に佇む、全身黒ずくめの人影。
その後ろには、さらに四人の人物が立っている。
……なんだ、あれ。
「残念だな」
アエラルが小さく呟いた。
何かがおかしい。
うまく説明できない。けど、その姿を目にした瞬間、胃の奥に嫌な感覚が広がった。
警告だ。
この世界に来る前から、俺はこういう感覚を頼りにしてきた。
嫌な予感に従ったおかげで助かったことは、一度や二度じゃない。何かがおかしいとき。状況が取り返しのつかない方向へ転がり始めるとき。そして、手遅れになる前にさっさと逃げるべきとき。
今、俺の本能は全力で逃げろと叫んでいた。
昔の俺なら、とっくにここから逃げ出していただろう。
なのに、俺はためらっていた。
この世界での生活に慣れすぎたのかもしれない。信頼できる仲間と過ごすうちに、かつて俺を生かしてくれた警戒心が鈍ってしまったのかもしれない。
理由はどうあれ、俺は動けなかった。
「ねえ、あいつ誰――」
愛子が言いかけて、口を閉ざした。
俺は彼女のほうを向いた。
顔が真っ青になっていた。
愛子が怯える姿を見たことはある。けど、ここまでの表情は初めてだった。
あの顔に一番近いものを見たのは、この世界に来たばかりの頃だ。
……何を見てるんだ?
俺は再び前方へ視線を戻した。
ルイスは完全に動きを止めていた。
オルシクも同じだった。
アエラルでさえ、身動きひとつ取れずにいる。全員の身体が硬直し、ほんの少しでも動けば相手を刺激してしまうとでもいうように、謎の集団を凝視していた。
このパーティーに加わってから、初めてだった。
何を言えばいいのか、まったく思いつかなかったのは。
やがて、先頭の人物が一歩前に出た。
そこでようやく、その姿をはっきりと捉えることができた。
男というより、黒鉄とボロ布を組み合わせた巨大な石碑のようだった。
全身を覆う黒い板金鎧には、凍りついた稲妻を思わせる、鋭く不規則な溝が刻まれている。
頭部は完全に兜で覆われていた。顔の中央には縦に細い隙間が走っているが、その奥にあるはずの顔はまったく見えない。さらに黒いフードが兜に覆いかぶさり、その輪郭を覆い隠していた。
何重にも重なった巨大なマントが肩幅を大きく見せ、その姿を人間離れしたものにしている。
肩には、分厚い黒い毛皮と、ぼろぼろになった革を組み合わせた外套が掛けられていた。その下からは、光さえ吸い込んでしまいそうな黒い布が長く垂れ下がっている。縁には、かすかな深紅の縁取りが施されていた。
前腕を覆うのは、分厚い鉄板を幾重にも重ね、巨大な鋲で固定した籠手。手には黒い革手袋をはめている。
そのすべてが、使い古され、傷つき、戦いのために作られたものだった。
ただ、幾多の戦いを生き延びてきた人間には見えなかった。
どんな戦いからも、傷ひとつ負わずに帰ってきた人間。
そんな印象を受けた。
……なんなんだ、こいつ。
男の後ろにいる四人も、似たようなマントを身につけていた。ただし、先頭の男ほど装備は凝っていない。
一人は鎧を着込んでいる。
もう一人は明らかに女性らしい体つきをしており、胸当てを装着して、背中には剣を吊るしていた。
三人目は先頭の男と同じくらいの身長で、鉄のバケツを思わせる兜をかぶっている。背中には大剣を背負っていた。
最後の一人は、ほかの三人よりも小柄で、細身だった。
四人とも、フードや兜で顔を完全に隠している。
彼らはゆっくりと、開けた場所を進んでくる。
一歩ずつ。
確かな意志を持って。
やがて、先頭の男が足を止めた。
後ろの四人も、それに続いて立ち止まる。
誰も口を開かなかった。
しばらくして、男が兜をこちらへ傾けた。
「まさか、迷宮のこんな奥深くで、ほかの者に出会うとは思わなかった」
低く、しゃがれた声だった。
聞いたことのない訛りが混じっている。兜が声を歪めているのか、言葉からは温かみがまるで感じられず、冷たく不気味な響きだけが残っていた。
男がルイスへと顔を向ける。
ルイスの身体が、ぴくりと震えた。
ほんのわずかな反応だったが、俺には見えた。
「そ、そうですね。まさか、こちらもほかの人がいるとは思っていませんでした……」
ルイスが答える。
……ルイス兄ちゃん?
声が違う。
いつもの自信に満ちた口調じゃない。
俺が知る限り、ルイスがこんな声を出したのは初めてだった。まるで、怒り狂った親に問い詰められている子供みたいだ。
男は片手を兜に添え、顎の下あたりに指を置いた。
そして、何気ない調子で口を開く。
「ルイス・エフロン。エレシアとコール・エフロンの息子」
ルイスの身体が固まった。
顔から血の気が引いていく。
「な、なんで、その名前を……?」
男は答えなかった。
代わりに、アエラルへと顔を向ける。
「アエラル・ティノル。パヴァとテレス・ティノルの娘」
一拍置いて、男は続けた。
「三十四年前、魔女たちがお前の故郷を滅ぼした。家族もろともな」
アエラルの目が見開かれた。
一瞬、言葉を失ったようだった。顔からは血の気が引き、両手を身体の脇で強く握りしめている。
だが、男はもう彼女に興味を失ったかのように、次の人物へと視線を移した。
「クラッケルのオルシク。ヴィクターとアイヴス・コバルトの息子」
兜が、わずかに傾く。
「そして、お前の息子、ダスト・コバルト……今も故郷で生きている」
オルシクの表情が変わった。
目に浮かんでいた困惑が、怒りへと変わっていく。
「な、何者だ、お前は!? どうして、そんな名前まで知ってる!?」
男は答えなかった。
ただ、兜の細い隙間越しに、俺たちを見つめている。
……一体、何が起きてるんだ?
俺はルイスを見て、次にアエラル、そしてオルシクへと視線を移した。
三人の反応を見れば、十分だった。
こんなこと、誰にでも気軽に話すような内容じゃない。
個人的な事情だ。誰にも知られたくないような過去だ。
それなのに、こいつは全員のことを知っている。
……こいつ、何者なんだ?
やがて、男の兜が俺と愛子のほうへ向いた。
しばらく、何も言わずに俺たちを見つめていた。
そして、わずかに首を傾げる。
背後にいた人物の一人が歩み寄り、男の耳元で何かを囁いた。
男は微動だにせず、その話を聞いている。
報告が終わると、男は再び俺を見た。
「お前」
身体がこわばった。
「この土地の出身か?」
俺は答えなかった。
「お前の顔に見覚えはない。それに、この世界について私が知る限り、お前という存在に心当たりがない」
男は一度言葉を切り、静かに問いかけた。
「答えろ。どこから来た?」
クソ。
心臓が喉元までせり上がってきそうなくらい、激しく脈打っていた。
黙っていればいるほど、状況は悪くなっていく。
けど、どう答えろっていうんだ?
こんにちは! 俺は久吾潤也です! 別の世界で死んで、こっちに転生してきました! そんで今、他人の人生を全部把握してるっぽい人と遭遇してます! よろしくお願いします!
……うん。
最高の作戦だな、潤也。
「俺は――」
「おい!!」
突然、ルイスの声が沈黙を切り裂いた。
彼は一歩前に出て、俺と男の間に立った。
「お前、何者だ!?」
男の兜がルイスへ向く。
ルイスは怯まなかった。
「俺たちのことは何もかも知ってるくせに、こいつがどこから来たのかもわからないのか!?」
男から目を逸らさないまま、ルイスは俺を指し示した。
「潤也と愛子は、魔女教団の襲撃を生き延びたんだ! 俺たちの過去を知ってるっていうなら、どうしてそんなことも――」
「それは違う」
男の声が、ルイスの言葉を遮った。
大声を出したわけでも、怒鳴ったわけでもない。
ただ淡々と口を開いただけなのに、ルイスは言葉を止めた。
男は、しばらくルイスを見つめていた。
「生き残るはずだった者は、二人だけだ」
その場が、凍りついたように静まり返った。
「魔女教団によって滅ぼされた村や町は、およそ九十八か所」
男は、すでに決着のついた事実を読み上げるかのように、一定の調子で話し続けた。
「その事件について、私が把握している生存者は二人だけだ」
兜がアエラルへと向く。
「アエラル・ティノル……」
一拍置いて、男の視線がゆっくりとほかの者たちへ移った。
「そして、エラ・スプリングスパロウ」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
生存者は二人だけ?
アエラルと、エラ?
……エラって誰だ?
俺たちも魔女教団の襲撃を生き延びたはずだ。
少なくとも、俺はみんなにそう説明してきた。俺たちがここにいる理由について、ほかに説明のしようがなかったからだ。
それなのに、こいつはまるで俺たちが生き延びたこと自体があり得ないとでも言いたげだった。
いや……もしかすると、俺がみんなに話したことが嘘だと、最初から見抜いているのか?
俺は愛子に視線を向けた。
けど、彼女の表情からは何も読み取れなかった。
……こいつ、俺たちの知らない何を知ってるんだ?
尋ねる間もなく、男が一歩こちらへ踏み出した。
愛子、オルシク、アエラル、そしてルイスが、即座に戦闘態勢を取る。
その動きに、俺も我に返った。
ルイスが武器を構える。
「それ以上、近づくな!!」
男は足を止めた。
しばらく、誰も動かなかった。
やがて、男の背後にいた人物の一人が近づき、耳元で何かを囁いた。
男は黙って聞いていた。
そして――
「LOG、完了」
目を見開いた。
思わず、小さく息を呑む。
……は?
LOG?
いや、待て。
その言葉……。
俺は知っている。
それが何を意味するのか、考えるよりも早く、男の姿が消えた。
動いたんじゃない。
駆け出したわけでもない。
ただ、消えた。
一瞬前まで目の前に立っていた男が、次の瞬間には――
ガキィィンッ!!
耳をつんざくような衝撃音が、開けた場所に響き渡った。
火花が散る。
いつの間にか男はルイスの目の前にいて、刃を振るっていた。
ルイスはどうにか攻撃を受け止めていた。男の刃と、ルイスの武器がぶつかり合い、鍔迫り合いになっている。
衝突の衝撃が地面を揺らした。
俺は思わず後ずさり、足をもつれさせた。
そして、そのまま尻もちをついた。
……は?
今の、何だ?
一体、何が起きた!?
頭がまったく追いつかない。
攻撃が見えなかった。
男が動くところさえ、見えなかった。
ただ一つわかるのは、ルイスが俺たちと男の間に立っているということ。
そして、ルイスが必死に押し返そうとしている相手は、瞬きする間に距離を詰められるような化け物だということだ。
ルイスの様子を見る限り、こいつを甘く見る余裕なんて、俺たちには欠片もなかった。
ほかの四人も動き出そうとした。
だが、男が空いている手を上げる。
それだけで、四人はぴたりと動きを止めた。
男は彼らを見ることすらせず、ルイスだけを見据えていた。
「ルイス」
静かな声だった。
まるで、世間話でもするかのような口調で、男は告げた。
「そこを退け」
ルイスは歯を食いしばった。腕が震えている。刃を押し返すだけで精一杯なのが、見ている俺にもわかった。
「……断る」
男は、わずかに兜を傾けた。
「その少年は、お前にとって何の価値もない」
一拍置いて、男は続けた。
「命が惜しければ……」
声の調子は、最後まで変わらなかった。
「どけ」
ルイスのブーツが石の地面を擦る。押し負けまいと、必死に踏ん張っていた。
「ぐっ……!」
それでも、ルイスは全力で押し返した。
「俺を殺してからにしろ!!」
男は黙り込んだ。
兜の細い隙間から、ルイスをじっと見つめている。
そして、わずかに首を傾げた。
「……なるほど」




