第1章 (第14話)『テラリアⅠ』
愛子と一緒に異世界へ転生してから、一か月が経った。
ルイスくんたちのパーティーに加入してからも、同じくらいの時間が過ぎている。
そして三日前、俺たちは『ルイナの迷宮』と呼ばれる古代迷宮の探索を始めた。
どうやらこの迷宮は、数百年前に存在した都市の遺跡を利用して造られたものらしい。当時はまだダークエルフが存在していた時代で、ルイナはかつて「知識と欲望の街」と呼ばれていたそうだ。
いやぁ、アエラルが貸してくれた歴史書のおかげで、この世界についてずいぶん詳しくなった気がする。
日本にいた頃は漫画やライトノベルを読むのが好きだったし、読書自体は得意なほうだと思っていたんだけどな。
……いや、何を言ってるんだ、俺は。
実際には、アエラルが歴史書の大半を読み聞かせてくれただけだ。
自分で読むこともできたんだが、歴史は昔から苦手でな。少し難しい内容になると、すぐに読む気が失せてしまう。
いつもの俺である。
ともかく、『ルイナの迷宮』は現存する最古の迷宮と言われており、いまだに未発見の階層が数多く残されていることでも有名らしい。
そして今日、俺たちは第53階層に到達していた。
「みんな、離れないように!」
ルイスくんの声が、狭い通路に響き渡る。
空気は湿っていて、地面には地下特有の濃い霧が這うように漂っていた。天井からは数歩進むごとに水滴が落ち、そのかすかな音も俺たちの足音に紛れて消えていく。
迷宮に入ったときから、こういう場所があることは覚悟していた。
だが、階層ごとにここまで環境が違うとは思わなかった。
ひどく暑い階層もあれば、服が肌に張りつくほど湿度の高い階層もあった。
そして、ここはというと……
まるで墓場を歩いているような気分だった。
「待ってくれ」
ルイスくんが突然立ち止まった。
手を上げ、静かにするよう合図する。
俺は危うく、その背中にぶつかりそうになった。
「うおっ。どうしたんだ?」
「魔物だ」
その表情が変わった。
慌てているわけではない。だが、先ほどまで浮かべていた気楽な笑みは消えていた。
ルイスくんは剣の柄に手を添え、霧の向こうを注意深く見つめている。
やがて、アエラルへと顔を向けた。
「アエラル、何体いるか確認できるか?」
「もちろんです」
アエラルは杖を掲げた。
杖の二股に分かれた先端にある紫色の宝玉が、淡い光を放ち始めた。
しばらくの間、何も起こらなかった。
だが、やがて彼女の視線が前方の闇へと向けられた。
「……いました」
見えない何かを追うように、彼女はわずかに顔を動かす。
「複数です。いえ、待ってください……」
杖を握る手に力がこもった。
「およそ二十体。通路のあちこちに散らばっていますが、大半は奥のほうに集まっているようです」
「二十体か……」
オルシクさんが斧を肩に担ぎ直しながら呟いた。
「なかなかの数じゃな」
アエラルが杖を下ろすと、宝玉の光もゆっくりと消えていった。
彼女がこの技を使うところは何度も見てきたが、それでも便利な能力だと思わずにはいられない。
マナ・エクステンション。
体内に留めておくマナを周囲へと放出し、周辺に広げることで、目に見えないものや隠れているものの存在を感知する技術だ。
基本的な仕組みは以前アエラルから教わっていたが、実際の探索で使っている姿を見ると、その有用性がよくわかる。
俺は自分の手を見下ろした。
俺も早く、この技術を習得したいな……!
敵に気づかれる前にその存在を察知できれば、マナを節約しながら攻撃のタイミングを考えることもできる。
……まあ、その前に自分が死ななければの話だが。
ルイスくんが剣を抜いた。
「よし、陣形を維持しよう。まだ相手の正体が完全にはわかっていないからな」
愛子も剣を抜き、ニヤリと笑った。
「へへっ。やっと斬りがいのある相手が出てきたじゃない!」
「はしゃぎすぎないでくださいね」とアエラルが釘を刺す。
「アタシはいつだって慎重よ!」
「今日一番の嘘だな」と俺は小声で呟いた。
「今、何か言ったわね、タンポポ!?」
「何も言ってません!!」
愛子が言い返そうとした、そのときだった。
霧の向こうから、何かを引きずるような音が聞こえてきた。
ギギギ……ギギギ……
何かが動いた。
その隣から、もう一つの影が現れる。
一見すると、それらは地面を這いずる、砕けた岩の塊のようだった。
体表にはギザギザとした黒曜石の突起が生え、背中には分厚い装甲板が幾重にも重なっている。
短く太い四肢の先には鉤爪があり、地面を引っかくたびに甲高い音を立てていた。
そして、装甲の隙間からは紫色の光がぼんやりと漏れている。
「バサルト・クローラーだ」
ルイスくんが言った。
その声には、どこか安堵したような響きがあった。
「幸い、一体一体はそれほど危険じゃない。ただし、尻尾には気をつけろ。口から酸を吐くこともある」
その直後、一体の魔物が口を開いた。
青い液体の塊が、霧を突き破って飛んでくる。
「避けろ!」
ルイスくんが横へ飛び退いた。
酸は彼の背後の壁に直撃した。
ジュウウウウウッ!
石が溶け、耳障りな音を立てる。
……
いや、やっぱり普通に危険じゃねえか。
さらに一体がこちらへと近づいてくる。
その背後から、三体の魔物が姿を現した。
ルイスくんが目を細める。
「厄介なのが来たな」
先頭の三体が、地面に体を伏せた。
ガチャン、ガチャン、ガチャン!
装甲板が動き、互いに噛み合うように固定されていく。
さらに後方のクローラーたちが押し寄せ、その陣形を後ろから支えた。
あっという間に、通路を塞ぐ巨大な壁が完成する。
まるで、生きた要塞だ。
露出していた関節は装甲の内側へと隠され、攻撃できそうな場所がほとんどなくなっていた。
俺はその光景を見つめた。
……おいおい。冗談だろ。
「正面から攻撃するな! あれじゃ、いくら力を込めても突破できないぞ!」
ルイスくんが叫ぶ。
「なら、別の入口をこじ開けるまでじゃ!」
オルシクさんが豪快に笑い、斧を低く構えて陣形の左側へと突進した。
ルイスくんは反対側へ回り込む。
愛子も彼を追い、地面を薙ぎ払うように振るわれる尻尾をかいくぐりながら、魔物の間を駆け抜けていった。
俺は少し後方に留まり、攻撃できる隙を探す。
落ち着け、潤也。考えろ。
正面からの攻撃は、ほとんど通用しない。
だが、どれほど頑丈な装甲を持っていても、動くためには関節が必要なはずだ。
関節。
狙うなら、そこしかない。
俺は片手を掲げ、少量のマナを集めた。
手のひらの上に、細い水流が生まれる。
それを通常の魔法のように広げるのではなく、圧縮して細い弾丸へと変えていく。
よし……試してみるか。*
俺は一体の前脚、その関節の隙間に狙いを定めた。
「くらえ!」
水の弾丸が飛び出す。
ヒュッ!
弾丸は露出した関節に命中した。
魔物の体がびくりと跳ね、前脚が一瞬だけ崩れる。
「いいぞ、潤也!」
ルイスくんが声を上げた。
へへっ。今の見たか?
俺だって、ちゃんと役に立てるんだぜ!
……と、喜んだのも束の間。
クローラーが尻尾を振り回し、俺に向かって薙ぎ払ってきた。
「うおおっ!?」
俺は慌てて後方へ飛び退いた。
棘だらけの尻尾が、さっきまで俺のいた場所を通り過ぎる。
そのまま壁に激突し、石片を周囲に撒き散らした。
っぶねええええ!!
俺は慌てて立ち上がる。
……喜ぶのは後だな。
一方、反対側へ回り込んだルイスくんは、クローラーの頭部を狙うふりをして、相手の装甲を持ち上げさせていた。
首の下にある関節が露出した瞬間、彼は踏み込み、剣を振るう。
刃が装甲の隙間へと滑り込んだ。
魔物は重い音を立てて崩れ落ちた。
オルシクさんも負けてはいない。
片足を地面に踏み込み、両手で斧を振り下ろす。
狙いは、別のクローラーの脚部。
バキッ!
関節を覆う装甲が砕けた。
魔物が体勢を立て直すよりも早く、愛子が飛び込んで剣を突き刺す。
「もらったぁ!」
彼女は刃を捻り、すぐさま引き抜いて飛び退いた。
魔物が噛みつこうと顎を鳴らすが、すでに愛子は射程外だ。
「見事じゃ!」とオルシクさんが叫ぶ。
「当然でしょ!」
「気を抜かないでください!」とアエラルが注意を促す。
彼女は杖を掲げ、こちらへ回り込もうとしていた二体のクローラーに魔法を放った。
魔法は二体の間の地面に着弾し、進路を塞ぐ。
その隙に、ルイスくんが目の前の残りの魔物を仕留めた。
数分後、陣形は完全に崩れていた。
生き残ったクローラーたちは後退しようとしたが、俺たちのパーティーが一体ずつ確実に仕留めていく。
やがて、通路は静寂に包まれた。
最後の魔物が倒れ、その紫色の血が石畳に広がっていく。
愛子は倒れたクローラーの上に立ち、剣を肩に担いだ。
「はぁ、簡単すぎでしょ! ねえ、もっと強い魔物はいないの!?」
……
いつもの愛子である。
「確かに、少し物足りなくなってきたな」とルイスくんも笑った。
オルシクさんは斧を引き抜き、刃についた紫色の血を振り払う。
「まったくじゃ!」
「あなたたちは、もう少し戦い以外のことにも興味を持ったらどうですか……」とアエラルが呆れたように言った。
「俺もアエラルに賛成だな」と俺は頷く。
そして、ニヤリと笑いながら彼女へ向き直った。
「ところで、潤也。怪我はないか? どこか痛むところがあるなら、遠慮せずに言ってくれ。私が治療しよう」
俺の顔がぱっと明るくなる。
「はい! ぜひ! さあ、どうぞ! アエラル先生!」
アエラルはくすりと笑った。
「まあ、ずいぶん乗り気ですね?」
「全身が痛いんです、先生」
「潤也たん、真面目にやってください!」
「俺はいつだって真面目ですよ!」
「今、何か言いました?」
「何も言ってません!」
……
正直、この階層はもっと難しいと思っていた。
だが、どうやら強い魔物は、すでにほかの冒険者たちによって倒されていたらしい。
この階層の探索は、拍子抜けするほど順調だった。
残りの魔物も片づけ、俺たちは次の階層へ続く転移門に向かった。
そして、門をくぐった瞬間――
「さっむ!!」
俺は慌ててジャージを引き寄せた。
あまりにも急激に気温が下がったせいで、吐く息が白くなっている。
……マジかよ。
さっきまで湿気で息苦しい通路を歩いていたというのに、今度は指先が痛くなるほどの寒さだ。
そもそも、ここって地下迷宮じゃなかったのか?
「不思議かい?」とルイスくんが尋ねた。
俺は頷いた。
彼は周囲の岩場を見渡しながら説明を始めた。
「『ルイナの迷宮』は、四百年前に都市ルイナが滅びたあと、三百年前に造られたものなんだ。最初は、すべての階層を地下に掘り進めて造る予定だったらしい」
「じゃあ、どうして階層ごとに環境が違うんだ?」
「迷宮があまりにも巨大になるとわかって、途中で計画が変更されたんだ。深く掘り進めるだけでは、いずれ問題が出てくるからな」
ルイスくんは、俺たちがくぐってきた転移門を指差した。
「それで、各階層を切り離して、世界各地に分散させた。階層同士は転移門でつながっているんだよ」
俺は瞬きをした。
……
「待ってくれ。つまり、各階層が本当に世界中の別々の場所にあるってことか?」
「その通り」
愛子の目が輝いた。
「マジで!? すごいじゃん! じゃあ、今アタシたちがいる場所も、世界のどこか全然違う場所かもしれないってこと!?」
ルイスくんが頷く。
「そういうことだね」
俺は岩場の向こうを見渡した。
つまり俺たちは、世界中にバラバラに配置された土地を渡り歩いているってことか?
……
誰だよ、こんな設計にしたの。
「考えてみると、少し怖いですね……」とアエラルが呟き、外套を引き寄せた。
「故郷から遠く離れておると思うと、気が気ではないのう」とオルシクさんも言った。
「そ、そうですね……」とアエラルが小さく頷く。
ルイスくんは安心させるように微笑んだ。
「心配しなくていいよ。来たときに通った転移門を使えば戻れる。ただ、少し時間はかかるけどね」
幸い、俺たちは近道を使っていた。
正規のルートで戻ろうとしたら、帰還するまでに最長で半年もかかるらしい。
いやぁ、優秀なウィザードがパーティーにいてくれて本当に助かった。
「アエラル先輩のおかげですね」
俺がそう言うと、愛子は無言でルイスくんに水筒を差し出した。
ルイスくんはそれを受け取り、彼女に手渡す。
「さて、そろそろ先へ進もうか」とオルシクさんが立ち上がった。
こうして、俺たちは探索を続けた。
そして間もなく、俺たちは第56階層も踏破した。
残りの魔物を片づけ終える頃には、俺もすっかり気分がよくなっていた。
迷宮探索を三日間続けているのに、まだ一度も死んでいない。
正直、これは新記録だ。
倒した魔物たちは、煙のように消えていく。
体が崩れて塵となり、風に流されるように姿を消していった。
この階層そのものは、特に目立った特徴のない場所だった。
乾いた土と、あちこちに転がる岩。目を引くものといえば、それくらいだ。
ただ、洞窟の右側に開口部があった。
……いや、開口部というより、岩壁に裂け目ができていると言ったほうが正しいかもしれない。
その周囲には、柱のようにそびえ立つ岩がいくつも並んでいた。
そして、その向こうには――
果てしなく続く緑の大地が広がっていた。
俺は縁まで近づき、下を覗き込んだ。
……
うおっ……。
はるか下方には、巨大な岩の塊が浮かんでいた。
その表面には迷宮が刻まれており、壁や通路が、まるで巨大な生物の血管のように岩肌を縦横無尽に走っている。
あまりにも現実離れした光景に、俺は思わず見入ってしまった。
……これ、本当に浮いてるのか?
迷宮の階層が世界中に散らばっていることは知っていた。
だが、果てしない緑の大地の上に、こんなものが浮かんでいる光景を目の当たりにすると、その異常さを改めて実感する。
涼しい風が裂け目を吹き抜け、俺の頬を撫でた。
ほんの一瞬、疲れも忘れてしまうほどだった。
愛子は額の汗を拭い、両腕を伸ばした。
「はぁ~、今日はここまでかな?」
彼女の背後には、巨大な岩がそびえていた。
ギザギザとした輪郭を持ち、クリーム色の表面は周囲の乾いた土によく馴染んでいる。
ルイスくんは洞窟を見渡した。
「そうだね。そろそろ戻って、物資を補充したほうがよさそうだ」
オルシクさんも頷いた。
その隣では、アエラルが深い森のような緑色の外套を羽織っていた。
肩に布を整えた彼女は、ふと俺のほうを見る。
すると、たちまち顔を赤くした。
「じ、潤也たん……何か用ですか?」
彼女を見れば見るほど、その美しさに目を奪われてしまう。
正直、あんなに綺麗な女の子はそうそういない。
元の世界にいたら、モデルとして活躍していてもおかしくないだろう。
「さて、みんな。そろそろ帰ろうよ!」と愛子が仲間たちに振り返った。「もう魔物なんて出てこないでしょ。ここまで来て、今さら何か出てくるわけないじゃん!」
……
……あっ。
嫌な予感が背筋を這い上がった。
俺は愛子へと振り返る。
「このバカ!!」
「はぁあああ!?」
俺は愛子に駆け寄り、これ以上余計なことを口走らないよう、その口を手で塞いだ。
「フラグを立てるな、このバカ! 同じ世界から来たくせに、皮肉ってもんを理解してねえのか!?」
愛子は俺の手を振りほどこうともがき、足をばたつかせる。
そして――俺の股間に蹴りを入れた。
ぐっ……!
「ぐ、ぐはっ……!」
「離しなさいよ、バカ――!」
そのときだった。
地面が揺れた。
最初は、かすかな振動だった。
やがて低い地鳴りが洞窟に響き渡り、小石が地面を転がり始める。
俺は動きを止めた。
愛子の背後にある巨大な岩が、揺れていた。
……
……待て。
あの岩、さっきまで揺れてなかったよな?
クリーム色の表面に、細い亀裂が走った。
そして、もう一本。
亀裂は稲妻のように枝分かれしながら、岩の表面へと広がっていく。
ゴゴゴゴゴゴ……!
巨大な塊が、ゆっくりと起き上がった。
その体から大量の砂埃が舞い上がり、地面が重みに耐えきれずに裂けていく。
黒曜石の鋭い装甲が互いに擦れ合い、歯の根が合わなくなるような不快な音を響かせた。
俺たちが岩だと思っていたものは、岩ではなかった。
魔物だったのだ。
黒曜石の破片と、乾ききった大地のような岩肌に覆われた、巨大な魔物。
鼻先からは角のように突き出した岩が伸び、背中には周囲の渓谷を思わせるギザギザとした岩の稜線が連なっている。
ゆっくりと、その大きな口が開いた。
並び立つ無数の鋭い牙は、巨大な罠の刃のように噛み合っていた。
低い唸り声が洞窟を震わせ、足元の地面にまで振動が伝わってくる。
柱のように太い前脚。
そして、背後には鋭い石の棘が並ぶ、鞭のように長い尻尾。
その巨体が動くたび、地面には深い溝が刻まれていった。
……
全員が、その場に凍りついていた。
……いや、無理もないだろ。
いったい何なんだ、あの化け物は!?




