第1章 (第13話)『二人のおやすみ』
食事を終えると、アエラルは後片付けのために厨房に残り、愛子は風呂に入るために二階へ上がっていった。
この世界の洗面用具や風呂には、まだ慣れない。
前の世界で使っていたものと比べると、どうしても衛生面が気になってしまう。正直、少し抵抗があった。
……まあ、仕方ないか。
今あるもので何とかするしかない。
気分転換に外の空気でも吸おうと思い、俺はキャビンの外へ出た。
それにしても、夜の雪景色は美しかった。
淡い月明かりが雪に覆われた地面を照らし、辺り一面を銀色に染めている。雪をまとった木々は静かに佇み、聞こえてくるのは、木々の間を吹き抜ける風の音と、背後のキャビンから響く薪のはぜる音くらいだった。
……はあ。
俺、本当に異世界に来たんだな。
ここに来てから、ようやくその実感が湧いてきた気がする。
もしかしたら、一緒にいてくれる人たちができたからなのかもしれない。
アエラルも、オルシクも、ルイスも、俺と愛子によくしてくれた。
何も持っていなかった俺たちに寝床を用意してくれただけじゃない。この世界で生きていく方法まで教えてくれた。
それに、愛子も……。
普段は本当に面倒くさい奴だけど、あいつがそばにいると妙に安心する。
あいつは、俺が置いてきた世界を思い出させてくれる存在だった。
前の人生からどれだけ距離を置こうとしていたって、同じ世界から来た人間がそばにいるのは、やっぱり心強い。
たとえ、お互いにどうしてこの世界に来たのかさえ分かっていなくても。
……まあ、あんなバカに感謝してるなんて、絶対に言ってやらないけどな。
一生からかわれるに決まっている。
そんなことを考えながら外に座っていると、背後でキャビンの扉がきしんだ。
扉の隙間から漏れた暖かな光が、雪の上に広がる。
俺は振り返った。
「久吾さん」
出てきたのはルイスだった。
いつもの白いマントを身にまとっている。黒い留め具で固定されたマントは、襟元が黒い毛皮で縁取られていて、袖は肘のあたりまでしかなかった。
……ん?
よく見ると、俺のジャージと配色がかなり似ている。
もしかして、俺って意外とファッションセンスがいいんじゃないか?
「ルイスくん」
ルイスは寒そうに身を縮め、マントを整えた。
……さすがに、そのマントだけじゃ寒さをしのぎきれないらしい。
「寒くないのか?」
「ええ、大丈夫です。このジャージ、見た目以上に暖かいんですよ」
実際、その通りだった。
中学生の頃から着ているジャージなのに、今の俺の体にも妙にしっくり馴染んでいる。
ルイスは少し眉を上げ、それから小さく肩をすくめた。
「そうですか。それならいいんですが」
彼はゆっくりと息を吐いた。
白い吐息が夜の空気に溶けていく。
それから、俺の方を向いた。
「ところで、パーティーでの生活には慣れましたか?」
あっ。
そういえば、さっきのことがあったんだった。
まだ少し気まずさは残っていたが、なるべく顔には出さないようにした。
「まあ、かなりな。まさかルイスくんたちのパーティーに入ることになるなんて、思ってもいなかったよ。こっちに来てからまだそんなに経ってないけど、俺たちは本当に助けられてばかりだ。この世界で何とかやっていけてるのも、みんなのおかげだよ」
俺は頬をかきながら続けた。
「……どうやって恩返しすればいいのか、分からないくらいだ」
ルイスは笑い、寒さをしのぐようにマントを引き寄せた。
「いえいえ。僕は二人が来てくれて嬉しいですよ。正直、二人を誘ったときは、ここまでうまくいくとは思っていませんでしたけどね」
「……ん? どういう意味だ?」
「新しく入ったメンバーには、何かと問題を起こされることが多いんです。アエラルに手を出そうとした人もいましたし、僕たちを騙そうとした人もいましたから」
……
は?
今、何て言った?
このパーティーには、俺たち以外にも新しいメンバーがいたのか?
それは少し意外だった。
だが、それ以上に気になったことがある。
過去のメンバーの中には、アエラルに乱暴しようとした奴までいたのか?
……ふざけんなよ。
俺はキャビンの方へ目を向けた。
なるほど。だから、初めて会ったとき、アエラルはあんなに警戒していたのか。
単に人見知りだったり、他人を信用するのが苦手だったりするだけじゃなかったんだ。
一緒に仕事をするはずの仲間に、傷つけられそうになったことがあった。
……そりゃ、警戒もするよな。
あのときの俺は何も知らず、彼女の態度だけを見て勝手に判断していた。
そう思うと、少し申し訳なくなった。
もちろん、今までのことを全部忘れたわけじゃない。
それでも、彼女のことを前より少し理解できた気がした。
「……そうだったのか」
俺はルイスに向き直った。
「まあ、何にしても……ありがとう。いろいろと、本当に」
ルイスは微笑んだ。
しばらく、俺たちは何も話さず、静かに雪が降り積もるのを眺めていた。
やがて、穏やかだったルイスの表情が、ふっと真剣なものに変わった。
「久吾さん。少し、話しておきたいことがあります」
「ん?」
「二週間ほど前に君が話してくれたことですが……あの話が本当ではないこと、僕は気づいていました」
……
……やっべ。
全身が一瞬で硬直した。
「なっ……」
「君たちがどうして嘘をついたのか、僕には分かりません。きっと、何か理由があるのでしょう。だから、無理に聞き出すつもりはありませんよ」
ルイスは一度言葉を切り、まっすぐに俺を見つめた。
「ただ、一つだけ覚えておいてください。君たちはもう、僕たちの家族です。これからは、僕たちが二人を守りますから」
……
家族?
俺は彼を見つめた。
すぐには何も言えなかった。
ルイスは気づいていたんだ。
俺たちの村が焼かれ、俺と愛子だけが生き残ったという話が嘘だったことに。
それなのに、今まで何も言わずにいてくれた。
今だって、理由を問い詰めようとはしない。
俺が返事をする前に、ルイスは俺の肩に腕を回し、安心させるように微笑んだ。
「ただ……その話を、ほかの人にするのだけはやめてくださいね?」
……
はあ。
また一つ、肩の荷が下りた。
俺が嘘をついていたと知っていても、ルイスは俺を疑わしい人間として扱わなかった。無理に説明を求めることもしない。
ただ、俺が自分のペースで彼を信頼できるよう、待ってくれている。
俺たちに、話したくない事情があることも察しているのだろう。
それでも、無理やり真実を聞き出すのではなく、俺たちの秘密をそっとしておくことを選んでくれた。
……なんて人だよ。
俺は視線を落とし、静かに息を吐いた。
「……ありがとう、ルイス兄ちゃん」
「ん?」
俺は顔を上げた。
「その……ルイス兄ちゃんみたいなマントって、手に入れられたりするか?」
ルイスは目をぱちくりさせた。
それから自分のマントを見下ろし、再び俺の方を向いた。
「僕のマントですか?」
「うん」
俺は頬をかき、少し照れくさくなった。
「……単純に、かっこいいと思ってさ」
……
いや、それだけじゃない。
正直に言えば、俺はルイスみたいな人間になりたかった。
強くて、頼りになって、そばにいるだけで周りを安心させられるような奴。
行く当てもなかった俺と愛子を受け入れ、この世界で生きていくための足場を作ってくれた。
俺が嘘をついていたと知っても、突き放すどころか、信じることを選んでくれた。
……俺に、同じことができるだろうか。
そもそも、自分の面倒すらまともに見られているのか怪しい。
……いや、本当に。
でも、少しでもルイスに近づけたら。
大切な人たちを、自分の力で守れるようになるかもしれない。
ルイスはしばらく俺を見つめていたが、やがて微笑んだ。
「そうですね。考えておきましょう」
……
へへっ。
今から楽しみだ。
―――――※―――――
しばらくして、俺たちはキャビンの中へ戻った。
ルイスは疲れていたのか、そのまま二階へ上がっていった。
一方、暖炉のそばでは、オルシクが木の椅子に腰掛けていた。
彼は燃える薪を静かに眺めている。
……珍しいな。
普段のオルシクは、もっとよく喋る。
この人なら、五分くらいの話を一晩中続けることだってできそうだ。
それなのに、今はラム酒の入ったカップを片手に、黙って炎を見つめている。
俺は彼の隣まで歩き、もう一つの椅子に腰を下ろした。
「オルシクさん? 今日はいつもより静かですね」
彼は俺の方を向き、低く笑った。
「ガハハ! 何を心配しとるんじゃ、若造。年寄りのドワーフが、ただ暖炉を楽しんでおるだけじゃよ」
俺は燃える薪に目を向けた。
……
まあ、そう言われればそうか。
それでも、彼の座り方や雰囲気が、どうにも気になった。
小柄なドワーフだから、というわけではない。
話し方や振る舞いが、昔ながらの祖父を思わせるのだ。
人生についてあれこれ語ったかと思えば、姿勢が悪いと文句を言い、こちらが返事をする前におかわりを勧めてくるような人。
俺は首を傾げた。
「失礼だったらすみませんけど……オルシクさんって、何歳なんですか?」
オルシクはラム酒のカップを右手に持ち替え、左手を顎に添えた。
「二百四十歳じゃ。まあ、一、二年くらいは違うかもしれんがな」
……
……マジかよ。
ガチのおじいちゃんじゃねえか。
俺はその数字を頭の中で何度も繰り返した。
二百四十歳。
それに比べて、俺はまだ十八歳だ。
自分の人生がどうなっているのかさえ分からず、毎日あたふたしている。
……この情報、どう扱えばいいんだ?
宝くじの当選番号でも聞いてみるか?
……いや、待て。
この世界に宝くじなんてあるのか?
くそっ。
オルシクはラム酒をもう一口飲んでから、再び口を開いた。
「息子は今も故郷のクラッケルに住んどる。ワシと女房は、文化の違いが原因で別々の道を歩むことになってな」
クラッケル、か。
ドワーフの故郷か何かなのだろうか。
俺は尋ねてみた。
「文化の違いって……奥さんは別の種族だったんですか?」
オルシクは頷き、立派な髭を撫でながら答えた。
「そういうことじゃ。それに、生き方そのものも違っておってな。あいつはヴァイキングじゃった。家の切り盛りの仕方一つとっても、どうにも意見が合わんかったんじゃよ」
……
……ヴァイキング?
この世界では、そういう種族がいるのか?
俺の記憶では、ヴァイキングってのは戦士とか船乗りとか、そういう連中だったはずだ。
少なくとも、ゲームや昔見たドラマではそうだった。
……はあ。
前の世界の常識が、この世界でも通用すると思い込むのは、そろそろやめた方がよさそうだ。
明日になったら、「実は海賊は鳥の一種なんじゃよ」とか言われても驚けない。
オルシクは俺が頭を悩ませているのを気にする様子もなく、もう一口ラム酒を飲んだ。
「それでも、悪いことばかりではなかったぞ。息子は故郷から追い出されることもなかった。普通のドワーフより背が高いんじゃが、それでも皆、あいつを受け入れてくれたんじゃ」
俺はゆっくりと頷いた。
「いつか、故郷に帰るつもりなんですか?」
「もちろんじゃ、若造。ドワーフたるもの、自分の根っこがどこにあるのか、忘れてはならんからな。お前さんたちと別れることになったら、ワシは故郷へ帰るつもりじゃよ」
……
へえ。
本当に、いつかは帰るつもりなんだな。
なぜか俺は、彼がルイスやアエラルとずっと一緒にいるものだと思い込んでいた。
だが、考えてみれば、彼がこのパーティーに加わったのは、ただ二人をかわいそうに思ったからじゃないはずだ。
俺は彼を見た。
「それなら……どうして、今まで二人と一緒に冒険してきたんですか?」
オルシクはカップを下ろし、俺の方を向いた。
「勘違いするでないぞ、若造。ワシはルイスやアエラルを哀れんで、そばにおったわけではない」
彼は一度言葉を切った。
「ルイスとは、あいつがまだ暁の魔法学院に通っとった頃からの付き合いじゃ。あの頃、ワシはあいつに命を救われてな。それからずっと、一緒に冒険を続けておる」
髭の下に、かすかな笑みが浮かんだ。
「命を救ってもらった相手を、そう簡単に見捨てられるもんじゃないじゃろ?」
俺は思わず小さく笑った。
……まあ、確かに。
オルシクは再び暖炉へ目を戻し、薪の間で踊る炎を見つめた。
「じゃが、それだけが理由ではない」
「ん?」
「ワシは、ルイスの夢を叶える手助けをするつもりなんじゃ」
……夢?
俺は少し身を乗り出した。
「ルイス兄ちゃんの夢って、何なんですか?」
オルシクの表情が、少しだけ真剣になった。
「奴隷を解放することじゃ」
……
……は?
ルイス兄ちゃんが、奴隷解放を目指してる?
それは……思っていた以上に大きな話だった。
あいつが善人だってことは分かっていた。
でも、まさかそこまでのことを目指しているとは思わなかった。
奴隷を解放する。
それは、ちょっとした親切や、一日で終わる依頼とはわけが違う。
奴隷制度で利益を得ている人間たちと、正面からぶつかることになる。
きっと、強大な権力を持つ連中もいるはずだ。
自分たちが利益を得ている仕組みを、そう簡単に壊させるはずがない。
それでも、ルイスは立ち向かおうとしているのか?
……なあ。
この人は、一体どこまで行くつもりなんだ?
オルシクは、少し声を落として続けた。
「ルイスの父親も、同じ夢を持っとった。ルイスは、自分がこの世を去る前に、その夢を叶えたいと思っとるんじゃ」
……
俺はゆっくりと頷いた。
「じゃあ……本当の意味では、ルイス兄ちゃん自身の夢ってわけじゃないんですね?」
オルシクは俺の方へ顔を向けた。
しばらく、俺の顔をじっと見つめていた。
それから、低く、ぶっきらぼうに笑った。
「まあ、完全に自分だけの夢というわけではないのう。じゃが、あの坊主は頑固でな。一度決めたことは、そう簡単には曲げん」
彼はラム酒をもう一口飲んだ。
「それに、誰かがあのバカの面倒を見てやらにゃならんじゃろ。あいつがどうしてもやり遂げると言うのなら、ワシもできる限り手を貸す。それだけのことじゃ」
……
俺は黙り込んだ。
ルイス兄ちゃんのことを知れば知るほど、俺の中で彼の印象が変わっていく。
そして、不思議なことに……ますます尊敬するようになっていた。
彼はただ、困っている人を助ける強い冒険者というだけじゃない。
自分に何の得もないかもしれない大義のために、人生を捧げようとしている人間だった。
確かに、その夢は彼自身が一から考えたものではないのかもしれない。
父親の夢を、ルイスが引き継ごうと決めたのだろう。
だが、それで彼の覚悟が偽物になるわけじゃない。
むしろ、ルイスの父親がどんな人物だったのか、気になり始めていた。
そして、ルイスが父親の夢を引き継ぎ、最後までやり遂げたいと思うようになったのは、どんな経験があったからなのだろう。
……はあ。
本当に、すごい人だ。
知り合ってまだ数週間しか経っていないのに、俺はもう何度もこの人を見習いたいと思わされている。
それに比べて俺は、十発の火球を作るだけで倒れずに済む方法を考えている始末だ。
……
はあ。
まだまだ先は長いな。
オルシクは椅子から立ち上がり、大きなあくびをした。
「さて……年寄りの夜更かしは、ここまでにしておくかの。さすがに、骨も若い頃のようにはいかんわい」
彼は両腕を伸ばしてから、俺の方へ向き直った。
「若造、一つ頼まれてくれんか」
俺は顔を上げた。
彼の表情が、少しだけ真剣になっていた。
「もし、いつかワシがそばにおらんようになったら……あのバカのことを頼むぞ」
……
おいおい。
とんでもない責任を押しつけてくるじゃないか。
俺は後頭部をかいた。
ルイス兄ちゃんの面倒を見る?
俺が?
自分の面倒すらまともに見られない、この俺が?
頼れる人間かと聞かれたら、どう考えても違う。
正直、いつか愛子に殺されるんじゃないかと、本気で思っているくらいだ。
……それでも。
俺は、雪の中でルイスと話したときのことを思い出した。
俺と愛子は、もう家族なんだと言ってくれたこと。
何の見返りも求めず、俺たちを受け入れてくれたこと。
そして、ルイスが周りの人間をどれほど大切にしているか。
……
ああ。
こんな頼みを、適当に受け流すわけにはいかないよな。
「……できる限り、頑張ります」
オルシクはしばらく俺を見つめていたが、やがて温かな笑みを浮かべた。
「それで十分じゃよ、若造」
彼は俺の肩を力強く叩くと、自分のカップを洗うために厨房へ向かった。
片付けを続けていたアエラルが、代わりに洗うと申し出た。
「そんなことせんでもええぞ、お嬢さん。お前さんは今夜、十分働いたじゃろう」
「大丈夫です。私がやりたいので」
「ガハハ! 相変わらず頑固じゃのう。分かった、分かった。なら、任せるとするか」
アエラルに礼を言い、オルシクはようやく二階へ上がっていった。
俺は暖炉のそばに残り、薪の間で揺れる炎を眺めていた。
……
ルイス兄ちゃんの面倒を見る、か。
俺がもっと強くなれたなら……ああ。
それくらい、できるかもしれない。
未来に何が待っているのかなんて分からない。
俺たちが、今話していることの半分も成し遂げられるかどうかさえ分からない。
それでも、久しぶりに未来を想像しても、まったく無意味だとは思わなかった。
へへっ。
それに、もしかしたら……その頃には、俺はアエラルと結婚しているかもしれない。
……
うん。
悪くない未来じゃないか。
……いや、本当にそうなったらどうなるのかは分からないけど、まあいいか。
俺は椅子にもたれかかり、静かに息を吐いた。
はあ。
本当に、うまくいってほしいものだ。
―――――※―――――
やがて、皆が寝る準備を始めた。
さっき俺を慰めてくれたアエラルに、せめてものお礼をしようと思い、片付けを手伝うことにした。
二人で流し台の前に立ち、皆が二階へ上がっていく中、食器を洗った。
しばらくの間、聞こえるのは水の流れる音と、陶器が時折ぶつかる音だけだった。
やがて、アエラルが口を開いた。
「潤也……もう大丈夫ですか?」
「ん? ああ。もう平気だよ。みんなのおかげだ」
彼女は俺を見て、微笑んだ。
「よかったです」
……
また沈黙が訪れた。
気まずいわけじゃない。
ただ……
二人きりで、何を話せばいいのか分からなかった。
おい、潤也。お前だって普通に女の子と会話くらいできるだろ。……たぶん。
俺は皿を一枚手に取り、必要以上に力を込めて洗い始めた。
「ねえ、潤也……」
「ん?」
アエラルは少し迷うように言葉を切った。
「私、潤也のことをあまり知らないんです。あなたって……どこか不思議な人ですよね」
俺は皿を落としそうになった。
……は?
「えっ、あ……ごめん。俺、ちょっと不器用なところがあってさ」
アエラルは慌てて首を横に振った。
「ち、違います! そういう意味じゃなくて!」
彼女は皿を手にしたまま、俺の方を向いた。
「ただ……もっとあなたのことを知りたいんです。あなたのことを、もっと理解したいんです」
……
急に、流れる水の音がやけに大きく聞こえた。
俺のことを、もっと知りたい?
ど、どういう意味だ?
単に俺の過去が気になるだけなのか?
それとも……。
いやいやいや、潤也。調子に乗るな。
俺は唾を飲み込み、バカみたいな返事をしないよう必死に考えた。
「そ、そうか。えっと……聞きたいことがあれば、何でも聞いてくれていいよ」
アエラルの顔が真っ赤になった。
彼女は慌てて目をそらし、袖の端をいじり始めた。
「そ、それより! 私、そんなに年寄りじゃないですからね!」
……
……は?
何で今、その話になるんだよ?!
俺は意味が分からず、彼女を見つめた。
「お、おう……そうなんだ。よかったな?」
……
……何やってんだ、俺。
自分は本当に、人間とまともに会話できるのか不安になってくる。
……まあ、今回はエルフだけど。
やがて皿洗いを終えると、アエラルは手を拭き、廊下の方へ向かった。
「それじゃ……おやすみなさい、潤也たん」
「ああ。おやすみ、アエラル」
彼女は歩き出した。
俺は流し台へ向き直り、さっきの会話を思い返していた。
……はあ。俺って本当にダメだな。
「潤也たん!」
呼ばれて振り返った。
「ん? どうし――」
言い終わる前に、アエラルが慌てて戻ってきた。
彼女はつま先立ちになり、俺の頬にそっとキスをした。
……
……
……
「お、おやすみなさい!」
そう言い残すと、アエラルは顔を真っ赤にして廊下の奥へ逃げていった。
俺は何が起きたのか理解できず、その場に固まっていた。
ゆっくりと頬に手を伸ばす。
……
……は?
……はああああ?!
―――――※―――――
俺はベッドに仰向けになり、天井を見つめていた。
……
いやいやいや、ちょっと待て!!
これでどうやって眠れっていうんだよ?!
目を閉じるたびに、さっきのキスを思い出してしまう。
唇の温もり。
顔を真っ赤にして逃げていったアエラル。
そして、彼女が本当に俺にキスをしたという事実。
……
ああああああああ!!
俺は枕に顔を埋めた。
俺、どうかしてる。
本当に頭がおかしくなりそうだ。
アエラル……。
……
へへへ……。
……
って、俺は何を考えてるんだ?!
俺は寝返りを打ち、毛布を頭からかぶった。
今夜は絶対に眠れそうにない。
そう覚悟し始めた、そのときだった。
控えめなノックの音が聞こえた。
コン、コン。
……
アエラルか?
俺は勢いよくベッドから飛び起きた。
髪を整え、服のしわを伸ばし、ついさっきまで頬へのキス一つで大騒ぎしていたとは思えないほど、平静を装いながら扉へ向かった。
深呼吸を一つ。
そして、ゆっくりと扉を開ける。
……
「……なんだ、お前か」
そこに立っていたのは愛子だった。
彼女は不思議そうな顔で俺を見ていた。
「何よ、その言い方!」
「別に。で、何の用だ?」
「はあ? 入れてくれるの? くれないの?」
俺は横にずれ、彼女を部屋へ通した。
愛子は部屋の中を見回してから、俺の方を向いた。
「それで?」
「それで、って何だよ」
「もう大丈夫なの?」
……
……あ。
俺のことを心配して来てくれたのか?
思わず、にやけてしまった。
「へえ。何だ? 心配してくれたのか?」
愛子はすぐに舌を出した。
「はあ? まさか! アンタみたいな情けない奴が、一晩中枕に顔を埋めて泣いてるんじゃないかと思っただけよ!」
「てめえ……!」
……
……ああ、そうだった。
いつもの、面倒くさい愛子だ。
でも……。
なぜか、胸の奥が少しだけ温かくなった。
やっぱり、心配してくれていたんだ。
「まあ、もう平気だよ。聞いてくれてありがとな」
俺は少し得意げに笑った。
「いやあ、愛子って本当に優しいな。俺のこと、そんなに心配してくれるなんてさ」
「うっさい!」
愛子は俺の頭にチョップを食らわせた。
「痛っ! 何すんだよ?!」
「アンタがうざいからよ!」
……
クソゴリラ。
俺たちはしばらく睨み合っていたが、やがて愛子の表情が少し柔らかくなった。
「……まあ、それはいいとして」
彼女は視線を落とし、シャツの裾をいじりながら続けた。
「さっき、アンタが泣いてたとき……あたし、何もできなかったから」
いつもより、ずっと小さな声だった。
「何て言えばいいのか分からなかったし……ただ座ってるだけで、何もできない自分が、ちょっと嫌だったのよ」
……
……ああ。
「だから……ごめん」
今度ばかりは、いつもの冗談でごまかそうとはしなかった。
彼女は本当に、自分のことを少し責めているようだった。
俺は後頭部をかいた。
「いや、気にすんなよ。いつも正しいことを言わなきゃいけないわけじゃないだろ」
少し間を置いてから、俺は笑って付け加えた。
「それに、感情のこもった慰めの言葉をお前に期待するほど、俺もバカじゃないしな」
「はああああ?! アンタ、今何て言った?!」
「いや、だって事実だろ?!」
愛子は俺の服をつかんだ。
「アンタ、死にたいの?!」
「いや、全然! まだ生きたいです!」
……
そして、いい雰囲気は一瞬で台無しになった。
……まあ、別にいいか。
正直、こういうやり取りの方が、しんみりした会話よりも落ち着く。
愛子はようやく俺の服を放し、扉の方へ向かった。
「じゃ、あたしは戻るから」
「はいはい。さっさと帰れ、しっしっ」
愛子は最後にもう一度舌を出してから、扉を開けた。
そして、出ていこうとしたところで立ち止まった。
「……あ、そうだ、潤也」
「ん? 今度は何だよ」
愛子は振り返り、いつもの意地悪そうな笑みを浮かべた。
「忘れないでよね。アンタは久吾潤也。情けなくて弱っちいくせに、あたしみたいな魅力的で役に立つ女神と一緒に転生してきた、ただの負け犬なんだから」
……
……この文章、全部間違ってるだろ。
全部だよ、全部!!
「誰が負け犬だ?! それに、役に立つ女神って何だよ?!」
愛子は腹を抱えて笑った。
「おやすみ、タンポポ!」
そう言って、彼女は部屋を出ていき、扉を閉めた。
……
俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
やがて、小さく笑いがこぼれた。
「……本当にバカな奴だ」
俺は首を振りながらも、笑みを浮かべていた。
……
ああ。
あいつの言うことは、ほとんど間違っている。
それでも……。
あいつがここにいてくれて、よかったと思う。
みんなに出会えて、よかったと思う。
……
おやすみ、愛子。




