第四話 桃園の誓い
第四話 桃園の誓い
翌朝。
劉備が目を覚ますと、関羽の姿がなかった。
「…………」
隣では張飛が寝ている。
「翼徳」
「…………」
「起きろ」
「…………」
「雲長がおらんぞ」
「ん……?」
張飛が片目を開けた。
「朝早く出てったぞ」
「知っとったのか?」
「ああ」
「なぜ言わん」
「聞かれなかったからな」
「お主という奴は……」
劉備は宿の外を見る。
「どこへ行った」
「町を見てくるってよ。義勇兵の募集も始まってるから、それも見るとか言ってたな」
「そうか」
昨夜。
関羽は言った。
少し考えさせてもらう、と。
ならば、自分の目で見ているのだろう。
劉備はそれ以上気にしないことにした。
「で」
張飛が起き上がる。
「俺たちはどうする」
「義勇兵の募集を見に行く」
「決まりだな」
張飛は大きく伸びをした。
「お主はもう帰る気なさそうじゃな」
「今さらか?」
「一応確認じゃ」
「面白そうだからな」
「そればっかりじゃのう」
「嫌なら帰るぞ」
「それは困る」
「ほらな」
◇
義勇兵の募集所には、朝から大勢の人間が集まっていた。
農民。
職人。
若者。
まともに武器を握ったことすらなさそうな者もいる。
劉備は少し離れたところから、その様子を眺めた。
「ずいぶん集まっとるのう」
「乱が起きたばっかだからな」
「うむ」
誰もが不安そうだった。
それでも。
何かを守るために、ここへ来ている。
劉備が人々を見ていると。
「玄徳」
背後から声がした。
「おお」
振り返る。
関羽だった。
「雲長」
「朝からどこ行ってたんだ?」
張飛が聞く。
「町を見ていた」
「義勇兵もか?」
「ああ」
関羽は募集所を見る。
「思っていた以上に人が集まっている」
「乱が大きいということじゃろうな」
劉備が言う。
関羽は一度頷いた。
そして。
「玄徳」
「なんじゃ」
「昨日の答えを出す前に、一つだけ聞きたい」
「言ってみい」
関羽は劉備を見る。
「この乱が終われば、それで終わりか」
「…………」
劉備は少しだけ黙った。
「終わらんじゃろ」
「なぜだ」
「洛陽を見た」
劉備は答える。
「腐っとる」
「…………」
「黄巾を全部倒しても、あの腐り方がそのままなら、またどこかで同じことが起こる」
官位を売る。
賄賂が横行する。
苦しむ民に。
仕方がない、と言わせる。
「乱だけ止めて終わり、では意味がない」
「では、その先も進むつもりか」
「うむ」
劉備はあっさり頷いた。
「何ができるかは、まだ分からんがな」
「随分と曖昧だな」
「最初から全部分かっとる奴なんぞおらんじゃろ」
「…………」
「分からんことは、分かる奴を探せばよい」
関羽が黙る。
「では」
もう一つ。
「貴方自身には、何がある」
「ワシか?」
「ああ」
劉備は少し考えた。
そして。
「逃げ足が速い!」
「…………」
関羽が黙る。
張飛も黙る。
「なんじゃその顔は」
「……他には」
「人に仕事を振るのが上手い!」
「…………」
今度は二人とも、さらに長く黙った。
張飛が関羽を見る。
「おい雲長」
「何だ」
「こいつについてって大丈夫か?」
「……今、私も考えていた」
「なんでじゃ!」
劉備が二人を睨む。
「まぁ聞け」
少しだけ声を落とす。
「戦が上手い奴には戦を任せる。策が上手い奴には策を任せる。負けたら逃げて、また立て直す」
関羽は黙って聞いている。
「それで最後に勝てばよかろう」
「…………」
「一人で全部やろうとする必要などない。できる奴がおるなら、そいつに任せればよい」
関羽が静かに尋ねる。
「……負けることを恐れぬのか」
「嫌じゃぞ」
劉備は即答した。
「負けるのは嫌いじゃ」
「なら、なぜ逃げる」
「死んだら次がないからじゃ」
「…………」
「一度負けたくらいで、全部終わったことにする必要もなかろう」
劉備は笑う。
「逃げて、生きて、立て直して、最後に勝つ」
張飛が鼻で笑った。
「逃げ足と他力本願で天下取ったって?」
「言い方!」
劉備が睨む。
「適材適所じゃ!」
「天下を取った、か」
関羽が言う。
「うむ」
「また高祖の話か」
「事実じゃ」
「…………」
「信じんでもよい」
劉備は関羽を見る。
「今すぐはな」
関羽は何も言わなかった。
だが。
昨日までとは違う目で、劉備を見ていた。
この男は。
自分一人で何でもできるとは言わない。
張飛を無理に従わせもしなかった。
自分にも。
来いと命じたことは一度もない。
黄巾の者に対してさえ。
事情も知らずに決めつけようとはしなかった。
「玄徳」
「なんじゃ」
「私は――」
言いかけたところで。
周囲から大きな声が上がった。
新たな志願者たちが募集所へ押しかけてくる。
人が増え。
辺りが騒がしくなった。
張飛が顔をしかめる。
「ここでする話じゃねぇな」
「そうじゃな」
「なら、うち来るか?」
劉備が張飛を見る。
「よいのか?」
「ここよりは静かだ」
「酒もある?」
「それが目的なら帰れ」
「冗談じゃ」
「半分くらい本気だろ」
「三割くらいじゃ」
「本気じゃねぇか」
関羽が小さく息を吐いた。
◇
張飛の家の裏手。
そこには、桃の木が並んでいた。
「ほう……」
劉備が足を止める。
枝いっぱいに咲いた桃の花。
風が吹くたび、淡い花びらが舞い落ちる。
ほのかな香りが風に混じり。
枝の隙間から、澄んだ空が見えていた。
「よい場所じゃな」
「だろ?」
張飛が少し得意そうに言う。
「ガキの頃からよく来てる」
「お主にも静かにする場所があったんじゃな」
「どういう意味だ」
「そのままじゃ」
「喧嘩売ってんのか?」
「二人とも」
関羽が止める。
「話をしてよいか」
「おお」
「悪い悪い」
三人は桃の木の下に立った。
花びらが一枚。
劉備の肩へ落ちる。
関羽が二人を見る。
「昨夜から考えていた」
張飛の表情から笑みが消えた。
劉備も何も言わない。
「私はこれまで、自分の道を行くつもりだった」
「うむ」
「だが」
関羽は劉備を見る。
「貴方がどこへ行くのか、見てみたいと思った」
「…………」
「言っていることが正しいから、ではない」
関羽は続ける。
「貴方は翼徳に従えとは言わなかった」
「まあのう」
「私にも来いとは命じなかった」
「人は自分で決めんと続かんじゃろ」
「昨日の黄巾にも、事情を知らぬまま悪と決めつけなかった」
劉備は黙って聞く。
「それでも」
関羽の声が低くなる。
「守るべき者が襲われれば、迷わず前へ出た」
「…………」
「だから」
関羽は劉備をまっすぐ見る。
「共に参ろう」
短い言葉だった。
劉備の顔に笑みが広がる。
「そうか!」
「ああ」
「よし!」
劉備が関羽の肩を叩こうとする。
関羽が半歩避けた。
「なんで避ける」
「近い」
「今仲間になったじゃろ!」
「距離の話だ」
「細かいのう!」
張飛が笑った。
「で」
二人が見る。
「俺はもう数に入ってんだよな?」
「入っとる」
「即答か」
「お主、ここまで来て今さら帰る気ある?」
「ねぇな」
「なら決まりじゃ」
張飛が笑う。
「だな」
三人。
並んだ。
それだけでよかった。
はずだった。
だが。
桃の花を見上げた瞬間。
劉備の胸に。
ふと。
遠い日の記憶が蘇った。
最後に残った後悔が、胸をよぎる。
「…………」
「玄徳?」
関羽が呼ぶ。
劉備は二人を見る。
「お主ら」
「なんだ」
「一つ、誓わんか」
張飛が眉を上げる。
「誓い?」
「うむ」
劉備は桃の木を見上げた。
「今度は」
一度、言葉を止める。
「最後まで信じてみたいんじゃ」
張飛は何も言わなかった。
関羽も。
劉備は二人へ向き直った。
「生まれた日は違えど」
風が吹く。
桃の花びらが舞った。
「志を同じくし」
関羽が続ける。
「互いを信じ」
張飛が続いた。
劉備は二人を見る。
「共に戦い――」
一度。
息を置く。
「共に生きて帰る」
張飛が少し意外そうに見る。
「死ぬ時まで一緒、とかじゃねぇのか?」
「死ぬ約束より、生きて帰る約束の方がワシは好きじゃ」
「…………」
「生きとれば、負けてもまたやり直せる」
関羽の口元が、僅かに緩んだ。
「貴方らしいな」
「じゃろ?」
三人は桃の木の下で頭を下げた。
誰かに命じられたわけではない。
官位のためでもない。
褒美のためでもない。
自分たちで選んだ。
これから先。
何が待っているのかは分からない。
それでも。
三人で行くことだけは。
この日。
決まった。
◇
しばらくして。
張飛が顔を上げる。
「そういや」
「なんじゃ」
「これで兄弟ってことだよな」
「そうなるのう」
「じゃあ誰が兄貴だ?」
劉備は胸を張った。
「ワシじゃろ」
「なんでだよ」
「言い出したのワシじゃし」
「そんな決め方あんのか?」
「今作った」
「適当すぎるだろ!」
関羽が小さく息を吐く。
「玄徳殿が長兄でよかろう」
「ほれ見ろ」
「仕方あるまい」
「仕方なく!?」
張飛が笑った。
そして。
一度だけ。
劉備を見る。
「……アニキ」
「…………」
劉備が止まった。
「なんだよ」
「もう一回」
「嫌だ」
「なぜじゃ!」
関羽が静かに口を開く。
「兄者」
劉備が関羽を見る。
「…………」
「何だ」
劉備は笑った。
「悪くないのう」
風が吹く。
三人の間を。
桃の花びらが通り過ぎていった。
その日。
劉備。
関羽。
張飛。
三人は義兄弟となった。
劉備はもう、一人ではなかった。
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