第三話 黄巾、起つ
第三話 黄巾、起つ
翌朝。
涿郡へ向かう街道沿いの宿は、朝から騒がしかった。
「……なんじゃ?」
劉備が戸を開ける。
街道を、大勢の人間が行き交っていた。
荷を背負った男。泣く子を抱えた女。老人の手を引き、急ぐ家族。
昨日までとは明らかに違う。
関羽はすでに外に立ち、その流れを見ていた。
昨夜の時点で、涿郡までは同道することになっている。
「何があった」
「分からぬ」
そのとき。
「道を開けろ!」
馬蹄の音が響いた。
一騎。
続いて、さらに数騎。
兵たちが街道を駆け抜ける。
「黄巾が起った!」
人々がざわめいた。
「冀州の各地で賊徒が蜂起している!」
「県城が襲われた!」
「役所が焼かれたところもある!」
「城門を閉じろ!」
「義勇兵を募れ!」
別の方向からも兵が駆けてくる。
遠くでは鐘が鳴り始めた。
「黄巾……?」
後ろから出てきた張飛が、眠そうな顔を一変させた。
「なんだ、そりゃ」
「太平道の者たちが蜂起したらしい」
関羽が答える。
「張角という者が教えを広め、多くの信徒を集めていると聞く」
「そいつらが、みんな兵になったのか?」
「そこまでは分からぬ」
関羽は首を振った。
「太平道を信じる者すべてが、乱に加わったとも限らん」
「なるほどのう」
劉備は街道を見る。
一つの村で賊が出た程度ではない。
人が逃げ、兵が走り、城が門を閉ざそうとしている。
何か大きなものが、動き始めていた。
「…………」
洛陽で何度も聞いた言葉が蘇った。
仕方がない。
逆らえない。
誰もがそう言っていた。
「……とうとう切れたか」
張飛が呟く。
劉備が横を見る。
「何がじゃ」
「知らねぇよ」
「なんじゃそれは」
「俺は役人でも学者でもねぇからな」
張飛は逃げていく人々を見る。
「ただ、偉い奴が偉そうにして、弱い奴ばっか泣いてるのは気に入らねぇ」
「…………」
「それだけだ」
劉備は少しだけ笑った。
「十分じゃ」
◇
三人は涿郡へ向かった。
街道を進むほど、状況は悪くなっていく。
横倒しになった荷車。
道端に捨てられた荷物。
煙を上げる家屋。
反対方向へ逃げていく人々。
「向こうへ行くな!」
一人の男が叫んだ。
「黄巾がいる!」
「何人じゃ」
「知らん! 何十人もいる!」
男はそれだけ言うと走り去った。
張飛が街道の先を見る。
「見てくる」
劉備が横を見る。
「決めるの早いのう」
「何してるか分からねぇんだろ」
「うむ」
「だったら見ればいい」
「……それもそうじゃな」
関羽が二人を見る。
「迂回路もある」
「あるじゃろうな」
劉備は街道の先へ目を向ける。
「じゃが、逃げてきた者がおる。その向こうには、逃げられておらん者もおるじゃろ」
張飛が歩き出す。
「だったらなおさら行く」
「お主、ワシより先に行くな」
「別にお前について行くわけじゃねぇ」
「分かっとる」
「俺が行きたいから行く」
「うむ。それでよい」
二人が進んでいく。
関羽は、その背をしばらく見ていた。
やがて何も言わず、後を追った。
◇
怒号が聞こえた。
「荷を出せ!」
「食い物を全部置いていけ!」
街道の先。
黄色い布を頭に巻いた者たちがいた。
十数人。
荷車を囲み、逃げようとする旅人を追っている。
道端では、子供を庇う女が震えていた。
「……気に入らねぇ」
張飛の表情から笑みが消えた。
関羽は黙って刀へ手をかける。
「待て」
劉備が前へ出た。
「また話すのか?」
「まずはな」
「洛陽じゃ最後に殴ったぞ」
「あれは最後まで話したじゃろ」
劉備は黄色い布の男たちへ向かう。
「おい!」
一人が振り返った。
「なんだてめぇ!」
「黄巾か」
「見れば分かるだろ!」
「そやつらから食い物を奪って、どうする」
「俺たちが食う!」
「では、そやつらは?」
「知るか!」
「そうか」
劉備の表情が変わった。
「なら話は早い」
「なんだと?」
「お主らが何をされたかは知らん」
一歩、劉備が前へ出る。
「役人に取られたのかもしれん。豪族に苦しめられたのかもしれん」
「俺たちは今まで散々奪われてきたんだ!」
一人が吐き捨てる。
「税だ、借りだと持っていかれて! 畑まで手放した!」
「…………」
「それで俺たちだけ大人しく飢えてろってのか!」
劉備は男を見る。
「分からん」
「何?」
「ワシはお主の人生を知らん」
「…………」
「じゃから、お主が苦しかったことまで否定する気はない」
劉備は旅人たちを見る。
「じゃが、今お主らがやっとることは、お主らから奪った奴らと同じじゃ」
「黙れ!」
男が剣を抜いた。
「偉そうに!」
斬りかかる。
劉備が身を引く。
「雲長!」
「承知した」
関羽が踏み込んだ。
金属音。
一撃で、男の剣が弾き飛ばされる。
「なっ――!」
「翼徳! 右じゃ!」
「見えてる!」
張飛が飛び出した。
旅人へ回り込もうとした二人の前に立ちはだかる。
「お前ら! 今のうちに逃げろ!」
旅人たちが一斉に走り出した。
別の男が、その背を追おうとする。
「行かせんぞ」
劉備が進路を塞ぐ。
「どけ!」
剣が振り下ろされた。
劉備は半歩かわし、その腕を外へ流す。
体勢を崩したところへ足を掛けた。
「ぐっ!」
男が地面へ転がる。
戦そのものなら、劉備より上はいくらでもいた。
だが、戦場で人がどう動くかは嫌というほど見てきた。
「雲長、左!」
「もう終わっている」
「……早いのう」
関羽の前では、すでに二人が武器を失っていた。
張飛が笑う。
「高祖様、指図する相手は選んだ方がいいぞ!」
「うるさいわ!」
三人は、まだ息が合っているとは言い難い。
それでも劉備が周囲を見て声を飛ばし、関羽が危険な相手を抑え、張飛が旅人たちの退路を守る。
少なくとも、互いの邪魔にはならなかった。
「退け!」
黄巾の一人が叫ぶ。
残った者たちは、倒れた仲間を引きずりながら後退し、やがて街道の向こうへ消えていった。
その場には、落とされた武器と黄色い布が残った。
「…………」
劉備は一枚を拾い上げた。
「どうした」
関羽が聞いた。
「いや」
劉備は布を眺める。
「まだ、よう分からん」
「黄巾がか」
「うむ」
今会った者たちは、旅人から奪っていた。
だが、その一人は、自分たちも奪われてきたと言った。
「これだけで全部決めるのは早い」
「では、どうする」
「自分で見る」
「黄巾を?」
「黄巾もじゃ」
「…………」
「人の話だけで決めて、痛い目を見たことがある」
しばらく黄色い布を見つめたあと。
劉備は手を離した。
布が地面へ落ちる。
関羽が横目で見る。
「……そうか」
それ以上は聞かなかった。
◇
夕刻。
三人はようやく涿郡へたどり着いた。
町は混乱していた。
城門には兵が並び、中へ逃げ込んできた民が行き交う。
武器を運ぶ者。
馬を走らせる使者。
掲示板の前には、大勢の人が集まっている。
「なんじゃ?」
三人も近づく。
張飛が布告を読む。
「黄巾討伐のため……義勇兵を募る、だとよ」
「義勇兵か」
劉備が布告を見る。
官軍に加われば、少なくとも今より情報は入る。
黄巾がどこまで広がり、官軍がどう動いているのか。
それを自分の目で確かめることもできる。
「……悪くない」
「何がだ?」
張飛が聞く。
「ワシは出る」
関羽が横を見る。
「義勇兵に?」
「うむ」
「朝廷のために戦うのか」
「朝廷は気に入らん」
劉備は即答した。
「じゃが、今は官軍の中に入った方が動きやすい」
「…………」
「気に入らんから近づかん、では何も見えんじゃろ」
「随分と割り切るのだな」
「一度国を治めれば、好き嫌いだけで物事を決められんことくらい分かる」
関羽が劉備を見る。
「……一度?」
「漢を治めてたからな!」
「…………」
劉備は布告へ目を戻した。
人が逃げ、田畑が荒れ、町が焼け、商いまで止まる。
それでは国など保たない。
「田畑を耕す奴も、物を売る奴も、税を納める奴もおらんようになれば、国もへったくれもない」
「漢を守るためか」
関羽が聞く。
「それもある」
劉備は布告を見る。
「せっかく四百年も続いとるんじゃ。ここで潰れられても困る」
関羽は何も言わなかった。
「俺も出る」
張飛が言った。
劉備が見る。
「よいのか?」
「俺は朝廷がどうとか、漢がどうとかは知らねぇ」
張飛は拳を握る。
「逃げてる奴を追い回して、食い物まで奪う奴は気に入らねぇ。だから出る」
劉備は頷いた。
「それでよい」
「それにな」
「まだあるのか」
「お前が官軍に入って何やらかすか見てぇ」
「余計じゃ」
張飛が笑った。
劉備も笑う。
関羽だけは、黙って布告を見ていた。
「雲長」
「何だ」
「お主は?」
「…………」
関羽はしばらく答えなかった。
「……少し、考えさせてもらう」
「そうか」
劉備は、それ以上聞かなかった。
◇
夜。
三人は宿の外にいた。
遠く、暗い空の下に赤い光が見える。
どこかで何かが燃えている。
張飛の手にも、今夜は酒がなかった。
関羽も何も言わない。
劉備も。
ただ、遠くの煙を見ていた。
三人とも、同じものを見ていた。
その夜は、誰もなかなか宿へ戻ろうとはしなかった。
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