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劉邦、転生したら劉備だった件  作者: レイン
第一章 黄巾の乱

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第二十九話

第二十九話



 西側の斜面へ駆け込んだ瞬間、空気が変わる。


 怒号と悲鳴が重なり、その合間を縫うように武器のぶつかる音が響いている。


 さっきまで遠くにあった戦場が、一気に目の前まで迫った。


 土煙が目に染み、泥と血の混じった臭いが鼻を突く。


「どけぇ!」


 張飛が斜面を駆け上がる。


 狙うのは、官軍の背を追って坂を下ってくる黄巾兵の先頭だ。


 足場の悪さも構わず、黄巾兵は下り坂の勢いに乗っている。


 その黄色い列の横腹へ、張飛が飛び込む。


「おらぁっ!」


 丈八蛇矛が、先頭の兵の突き出した槍を真横から叩く。


 ガッ、と硬い音が鳴り、穂先が大きく逸れて隣を走る兵の肩へぶつかる。


「ぐっ!」


 肩を打たれた兵の足が乱れ、そのまま前のめりに倒れる。


 斜面を駆け下りている最中だ。後ろから来た兵は止まりきれず、その背へぶつかる。


「うわっ!」


 二人が重なって転がり、さらに後ろの兵が避けようと横へ寄る。


 今度は隣の兵と肩がぶつかり、槍同士が絡む。


 一か所で生まれた乱れが後ろへ伝わり、坂を駆け下りていた黄巾兵の勢いが鈍る。


「来い!」


 張飛は倒れた敵を追わない。


 丈八蛇矛を持ち直し、そのまま追撃の正面へ立ちはだかる。


「兄者、右へ回り込んでくる!」


 関羽の声が飛ぶ。


 黄巾兵の一隊が張飛のいる場所を避け、官軍の退路へ向かって横へ広がっている。


「雲長、頼む!」


「承知!」


 関羽が斜面を横切り、回り込もうとする一隊の前へ入る。


 先頭の兵が槍を向けるが、その前へ青龍偃月刀が割り込み、刃と槍が激しくぶつかる。


 関羽は正面から弾き飛ばさない。


 刃を槍の柄へ滑らせながら踏み込み、そのまま相手の懐へ入ると、青龍偃月刀の柄を胸へ突き込む。


「ぐっ!」


 男が後ろへよろめく。


 関羽は追わず、すぐに次の兵へ刃を向ける。


「ここは通さん」


 そこへ、息を切らした義勇兵たちが追いついてくる。


 劉備が声を張る。


「盾持ちは雲長の方へ! 槍は翼徳の後ろじゃ! 急げ!」


「はい!」


 義勇兵が左右へ分かれる。


 盾を持つ者は関羽の横へ並び、槍を持つ者は張飛の背後へ回って構える。


 丈八蛇矛の左右に、いくつもの穂先が並ぶ。


 黄巾兵も止まらない。


 倒れた兵を避けながら後続が前へ出ると、太鼓が鳴る。


 ドン。


 黄色い旗が動き、先頭の兵が槍を揃えるために僅かに速度を落とす。


 だが、坂を下ってきた後続は急には止まれない。


 前後の距離が詰まり、槍の柄が背中へ当たり、横へ避けた兵が隣とぶつかる。


 張飛が笑う。


「さっきみてぇには走れねぇだろ!」


 丈八蛇矛を斜めに構えたまま、一歩も前へ出ない。


 黄巾兵が右へ寄れば右へ、左へずれれば左へ身体を動かし、追撃の先頭から進路を奪っていく。


 右では、関羽が回り込もうとする兵を受けている。


 伸びてきた槍を青龍偃月刀で下から受け、刃を滑らせながら横へ払うと、黄巾兵の手から槍が離れて泥へ落ちる。


「下がれ!」


 武器を失った兵が退き、その前へ別の兵が出ようとする。


 そこへ義勇兵の盾が並び、関羽の横を埋める。


「ここは俺が見る!」


 関羽の声に、盾持ちの二人が強く頷く。


「兄者、行け!」


「頼む!」


 劉備は前へ向き直る。


 正面では張飛が追撃を止め、右では関羽が回り込む兵を塞いでいる。その間を義勇兵たちが埋めている。


「よし。そっちは任せたぞ」


 剣を握ったまま、官軍が密集する中へ走り込む。


 董卓軍は退いている。


 だが、綺麗には退けていない。


 斜面の下では、中軍の兵が下へ向かおうとする横を、右翼から寄ってきた兵が中央へ横切ろうとしている。


 その間へ、肩を借りた傷兵の一団まで入り込む。


「待て!」


 先頭が足を止め、後ろの兵がその背へぶつかる。


「押すな!」


「前が止まった!」


「傷兵を通せ!」


 一人が横へ避ければ、その先を別の兵が塞ぐ。


 空いた場所へ入ろうとした者同士がぶつかり、また流れが止まる。


 傷兵を避けて横へ出た兵が、今度は駆けてきた伝令の進路を塞ぐ。


「どけ! 命令を――」


 伝令が横へ抜けようとするが、その先にも兵がいる。


 足を止めた背へ別の兵がぶつかり、届けるはずの命令まで人の波の中で止まった。


「……まずいのう」


 劉備の呟きは怒号に掻き消される。


 官軍の兵が一人、こちらへ向かって走ってくる。


 肩には折れた矢が刺さり、顔は青ざめている。


 その後ろから二人が続き、さらに近くにいた兵まで釣られるように坂を下り始める。


「待て!」


 劉備がすれ違いざまに男の腕を掴む。


「離せ!」


「どこへ行く!」


「下だ! 退けと言われた!」


 男が腕を振り払おうとするが、劉備は離さない。


「分かっとる! どの隊じゃ!」


 男が一瞬、言葉を詰まらせる。


「ちゅ、中軍だ!」


「中軍の旗は!」


「知らん!」


「知らんで走っとったのか!」


「見失ったんだ! とにかく下へ――」


 言い終わる前に、後ろから来た兵がぶつかる。


「止まるな!」


「前が止まってる!」


「押すな!」


 男の身体が前へ傾き、劉備が腕を引いて倒れるのを止める。


「お前、走れるな?」


「は?」


「走れるか!」


「走れる!」


「なら下へ行け! 中軍の旗を探せ!」


「だが――」


「下へ行けば味方がおる! 見つけたら、途中におる奴も連れていけ!」


 男が劉備を見る。


「ぼさっとしとる奴がおったら、そいつもじゃ!」


「……分かった!」


「早く行け!」


 男が再び走り出し、途中で周囲の兵へ声を掛けながら坂を下っていく。


 その横では、別の兵が泥へ膝をつく。


 脚から血が滲み、立ち上がろうとしても力が入らない。


「おい!」


 劉備は近くにいた二人を呼ぶ。


「こいつを連れていけ!」


「俺たちは右翼です!」


「知るか! 足はあるじゃろ!」


 二人が顔を見合わせる。


「さっさと肩を貸せ!」


「は、はい!」


 二人が負傷兵の腕をそれぞれ担ぎ、三人で坂を下り始める。


 劉備は剣の柄を握り直し、周囲を見回す。


 少し先に、ひときわ声の集まる場所がある。


 一人の部将が、数人の伝令や小隊長に囲まれている。


「中央へ入れるな!」


「右翼の一部がこちらへ入ってきます!」


「下へ回せ!」


「下は傷兵で塞がっています!」


「なら左へ――」


「左も退く兵で詰まっています!」


 部将の口が止まる。


 その間にも、新たな伝令が泥を蹴って駆け込んでくる。


「将軍! 前列が下がってきます!」


「待たせろ!」


「もう後ろが詰まっています! これ以上止めれば前が崩れます!」


「……」


 部将が斜面を見回す。


 右にも左にも兵が溢れ、下では傷兵の列が道を塞いでいる。どこへ動かしても、別の列にぶつかる。


 劉備の目が細くなる。


「……そこか」


 剣を下げ、人の間を真っ直ぐ進む。


「おい!」


 部将が振り返る。


「何者だ!」


「それは後じゃ」


「何?」


 劉備は部将の横へ並び、斜面の下を指す。


「まず、この詰まりをほどくぞ」


「貴様、正規軍の指揮に――」


「傷兵が真ん中を塞いどるじゃろ」


 部将の言葉を遮る。


「見れば分かる! だが動かそうにも、右翼も左翼も――」


「一度に全部動かそうとするな」


 部将が黙る。


 劉備は右翼へ目を向ける。


 盾を持った兵たちが、下がる場所を失って立ち止まっている。


「あそこを動かすな」


「何?」


「あの盾兵じゃ。今下げたら、また道へ入ってくる」


「だが、黄巾兵が来るぞ」


「だから、その場で外を向かせる」


 劉備は伝令を指す。


「右翼の小隊長へ伝えい。今いる場所から下がるな。黄巾の方へ盾を向けろ、と」


 伝令が部将を見る。


「将軍……」


 部将も右翼を見て、次に中央へ溜まる傷兵へ視線を移す。


「……その間に傷兵を通すのか」


「そうじゃ」


「右翼はどうする」


「傷兵が抜ければ道が空く。そこから先は、お前が決めればええ」


 部将が劉備を見る。


「俺が?」


「お前の兵じゃろ」


 一瞬だけ沈黙が落ちる。


 斜面の上から、また太鼓が鳴った。


 ドン。


 二人が同時に顔を上げる。


 黄色い旗の向こうで、槍の列がじわりと前へ出ている。


「考えとる暇は長くないぞ」


 部将が歯を噛む。


 もう一度、右翼と中央を見比べる。


「……行け!」


「はっ!」


 伝令が走る。


「右翼はその場で盾を構えろ! 傷兵を先に通す!」


 部将の声が飛ぶ。


 離れた場所で小隊長が振り返り、すぐに盾兵へ怒鳴る。


 退路へ身体を向けていた盾兵が、一人ずつ黄巾兵の方へ向き直る。


 道へ入ろうとしていた兵の流れが止まり、その分だけ中央に僅かな隙間が生まれる。


「傷兵を通せ!」


 部将が怒鳴る。


「動ける者は肩を貸せ! 中央から下へ送れ!」


 周囲の兵が反応する。


「聞いたか! 傷兵を先に出せ!」


「中央を空けろ!」


 声が次々と伝わり、止まっていた傷兵の一団が少しずつ坂を下り始める。


 その時、斜面の上で何かが光った。


 劉備が目を細める。


「盾!」


 叫んだ直後、矢が飛んできた。


 一本が道の脇へ突き刺さる。


 もう一本が盾の表面へ当たり、乾いた音を立てた。


「弓まで来たか!」


 部将が上を見る。


 黄巾兵の後ろで、弓を持つ兵が横へ広がり始めている。


 まだ距離がある。


 それでも、傷兵の列へ矢が落ち始めれば、せっかく作った流れがまた乱れる。


「右翼の盾、少し中央へ寄せろ!」


 部将が叫ぶ。


「傷兵の外側へ一列作れ! 前を空けたまま、矢だけ受けろ!」


「はっ!」


 劉備が口を挟むより先に、伝令が走った。


 右翼の小隊長が兵を二人抜き、傷兵の流れと黄巾兵の間へ盾を立てる。


 そこへ二射目が来た。


 矢が盾へ突き刺さる。


 傷兵の一人が肩を竦めたが、足は止めない。


 劉備の口元が僅かに緩む。


「それでええ」


「何がだ!」


「何でもない」


 部将が睨む。


 だが、すぐに左へ顔を向けた。


「左がまだ詰まっている! 下から戻る兵を止めろ! 中央へ入る奴を先に通せ!」


 劉備がそちらを見る。


 伝令が駆け出す。


「止まれ! そこで待て!」


 下から戻ろうとしていた兵が足を止める。後ろの兵がその背へぶつかりかけるが、槍の柄を地面へ突いて踏みとどまった。


 その目の前を、中央へ寄ろうとしていた兵が一人、二人と横切っていく。


 最初は細い。


 だが、前の兵が抜けたのを見て、後ろの兵も小走りで続く。


 押し合っていた人の塊に、細い通り道ができた。


「そのまま通せ!」


 部将が声を張る。


「止めるな!」


「はっ!」


 左翼の小隊長が大きく手を振る。


 立ち往生していた兵が列を作り直し、空いた隙間から中央へ流れていく。


「……それでいけ」


 劉備が顎をしゃくる。


「言われなくても分かる!」


「ならええ」


 再び矢が飛んできた。


 盾に当たった一本が跳ね、劉備の足元へ落ちる。


 劉備はすぐに傷兵の列へ目を戻した。


 その間にも傷兵が下っていく。


 隣の兵に肩を借りながら歩く者もいれば、折れた槍を杖代わりに脚を引きずる兵もいる。血の滲んだ布で脇腹を押さえたまま、泥の坂を下る者もいた。


 足取りは遅い。


 それでも止まってはいない。


「おい!」


 劉備が近くを通る兵を呼ぶ。


 二人がかりで、一人の負傷兵の両脇を抱えていた。負傷兵の足は地面についているが、支える二人の歩幅が合わず、何度もつんのめっている。


「そこの傷兵、まだ歩けるな?」


「はい!」


 負傷兵が顔を上げる。


「なら二人で抱えるな。片方の肩だけ貸せ!」


「ですが――」


「歩ける奴に二人も使うな! 一人空けば、他に回せるじゃろ!」


 兵が一瞬だけ迷う。


 すぐに一人が手を離し、もう一人が負傷兵の腕を首の後ろへ回した。


「歩けるか?」


「……歩ける」


「なら行け!」


 空いた兵が、次に動く場所を探して周囲を見る。


 その横を、一人の兵に肩を借りた負傷兵が進んでいく。


 さっきより足が速い。


 その動きを見た後ろの兵が、隣にいる傷兵を支え直す。


 その間にも矢が盾を叩き、乾いた音が途切れない。


 だが、劉備が次の声を掛けるより早く、部将が怒鳴った。


「歩ける傷兵まで担ぐな! 重傷者を優先しろ!」


 周囲の兵が振り返る。


「手が空いた者は前を支えろ! 傷兵の流れを止めるな!」


「はっ!」


 劉備が部将を見る。


 部将は前を向いたままだ。


「何だ」


「いや」


「言いたいことがあるなら言え」


「別にない」


「なら見るな!」


 劉備が笑う。


 部将の視線が傷兵から右翼へ移り、さらに左翼、斜面の上へ走る。


「左はそのまま待たせろ! 右翼の盾列を崩すな!」


 次の報告が来るより先に、部将の声が飛んだ。


 ドン。


 また太鼓が鳴った。


 今度は近い。


「アニキ!」


 斜面の上から張飛の声が響く。


「増えたぞ!」


「見れば分かる!」


「だったら早くしろ!」


「急いどるわ!」


 次の瞬間、丈八蛇矛と槍がぶつかる乾いた音が斜面に響いた。


 二本の槍が同時に張飛へ伸びる。


 丈八蛇矛の柄が横へ走り、一本目を外へ弾く。そのまま手首を返し、二本目を上へ持ち上げる。


 穂先が空を向いた。


「邪魔だ!」


 張飛の足が前へ出る。


 蹴りが先頭の兵の胸へ入り、男の身体が後ろへ倒れ込む。


 続いていた兵が巻き込まれ、一瞬だけ列が止まる。


 だが、その後ろでは黄色い旗が左右へ分かれた。


 太鼓が二度鳴る。


 正面の列から数人が外へ膨らむ。


 張飛の横を抜けようとした兵を、義勇兵の槍が止める。


「こっち来たぞ!」


「寄せろ!」


 二人が穂先を並べる。


 その隙間から一本の槍が伸び、盾へ突き刺さった。


「押せ!」


 黄巾兵が前へ出る。


 盾を持った義勇兵の足元が泥の上を滑った。


「ぐっ……!」


 盾を押し込まれ、足が半歩、さらに半歩と後ろへ滑る。


「踏ん張れ!」


 隣の兵が肩を当てる。


 二人で盾を支え、ようやく止まった。


 だが、その盾の上を矢が越えた。


「伏せろ!」


 関羽の声が飛ぶ。


 義勇兵が首を下げる。


 矢が後ろの地面へ突き刺さった。


 右にも新手が回ってきている。


 関羽の正面へ槍が突き込まれる。


 青龍偃月刀が斜めに入り、その穂先を外へ流す。


 次の槍が脇から伸びた。


 関羽が身体を捻る。


 穂先が鎧の表面を擦って抜ける。


「兄者!」


 関羽の声が飛んだ。


 劉備がそちらを見る。


 義勇兵の盾が大きく揺れている。


 厚くなった槍の列が、関羽たちを少しずつ押し始めていた。


「あとどれくらいじゃ!」


 劉備が部将へ叫ぶ。


「傷兵なら半分を越えた!」


 返事が早い。


 部将は中央を一瞥しただけで、すぐ右翼を見る。


「後ろの兵を下げる!」


 劉備が眉を上げる。


「全部は動かさん! 一番後ろから一組ずつだ!」


「できるか?」


「さっき貴様が言ったんだろう!」


 部将が怒鳴り返す。


「俺の兵だ!」


 劉備の口元が上がる。


「なら頼む」


 それ以上は言わない。


 部将が伝令を呼ぶ。


「右翼へ! 一番後ろの列から一組ずつ下げろ! 前列は動かすな!」


「はっ!」


「下がった兵は中央へ入れるな! 傷兵の外側を通して、そのまま坂を下ろせ!」


「承知!」


 伝令が駆けていく。


 しばらくして、右翼の一番後ろにいた兵が動き始める。


 一組が槍を抱え直し、傷兵の通る道の外側へ寄った。


 中央へ入らず、そのまま坂を下る。


 次の組が続く。


 前列の盾兵は動かない。


 黄巾兵へ盾を向けたまま、後ろだけが一組ずつ抜けていく。


 上から矢が飛んできた。


 一人が盾を傾けて受ける。


 その横を、下がる組が走り抜けた。


「次!」


 小隊長が叫ぶ。


 後ろの一組が動く。


 今度は前の兵へぶつからない。


「……いけるな」


 部将が呟く。


 劉備は何も言わず、坂の下へ目を向けた。


 その時、下から声が飛んだ。


「将軍!」


 一人の伝令が息を切らしながら駆け上がってくる。


「中軍の旗が見えました!」


「何?」


「坂を下りたところで隊をまとめています! 中軍の兵をそちらへ回せます!」


 劉備が口元を緩める。


「ほれ」


「……今度は何だ」


「さっき走らせた奴じゃろ」


 伝令が首を傾げる。


「肩に矢を受けた兵が、中軍の者を集めて旗まで連れていっています!」


 部将が劉備を見る。


 劉備はもう坂の下へ目を向けていた。


「なら中央は任せられるな」


「待て」


「何じゃ」


「貴様、あの兵に何をした」


「旗を探せと言っただけじゃ」


「それだけで、あそこまで――」


「走れる奴に走らせただけじゃろ」


 劉備は肩を竦める。


「できる奴がおるなら使えばええ」


 部将は何も言わない。


 その間にも、坂の下で声が広がっていく。


「中軍はこっちだ!」


「下に旗があるぞ!」


「散るな! こっちへ来い!」


 旗の周囲に集まった兵が、上から下りてくる仲間へ手を振っている。


 行く先が分からず足を止めていた兵も、その声を聞くとそちらへ向かった。


 一人が動けば、その後ろから二人、三人と続く。


 斜面の中腹に溜まっていた人の塊が、目に見えて薄くなっていく。


「道が空いてきたぞ!」


 誰かが叫ぶ。


「傷兵を止めるな!」


「右翼、次の組を下げろ!」


「左は中央が抜けるまで待て!」


 今度は命令同士がぶつからない。


 小隊長たちの声がそれぞれ別の場所へ飛び、兵も自分がどこへ行けばいいのか分かり始めている。


 劉備は斜面を見渡す。


 さっきまで人で埋まっていた場所に、靴跡だらけの泥が見えた。


 まだ道幅は狭い。


 それでも、人が止まらずに通れる。


「よし」


 短く息を吐いた、その時だった。


 ドン。


 斜面の上で太鼓が鳴る。


 続いて黄色い旗が前へ倒れた。


 黄巾兵の槍が一斉に前へ向く。


「兄者!」


 上から関羽の声が飛ぶ。


 右側の義勇兵の盾が大きく揺れた。


 槍が盾の縁を叩き、その隙間から別の穂先が伸びる。


 関羽が青龍偃月刀を振るう。


 一本を弾き、もう一本を刃の腹で押し上げる。


 だが、その後ろから次の槍が出た。


 関羽の肩が僅かに下がる。


 息も荒くなっている。


 張飛の方でも、丈八蛇矛の向こうを新たな黄色い旗が埋め始めている。


「アニキ!」


 張飛が一歩下がり、伸びてきた槍を丈八蛇矛の柄で弾く。


「そろそろキツいぞ!」


「分かった!」


 劉備は部将を見る。


「道はできた」


「まだ全部は抜けていない!」


「あとは任せる」


「何?」


 劉備は斜面の上へ目を向けた。


「翼徳と雲長がまだ残っとる」


 そう言って踵を返す。


「おい! どこへ行く!」


「迎えに行くんじゃ!」


 剣を握り直す。


「弟たちを置いて帰れるか!」


 そのまま泥を蹴り、坂を駆け上がる。


「中軍は旗へ戻れ! 右翼は後列から下げる! 左翼はまだ待て! 傷兵の道を塞ぐな!」


 背後から部将の声が追ってくる。


「はっ!」


 いくつもの返事が重なった。


 劉備は振り返らない。


 足元の泥が跳ね、何度も足を取られる。


「兄者!」


 関羽の声が近い。


 劉備が顔を上げる。


 右側では、義勇兵の盾が斜めに傾いていた。


 その前へ黄巾兵が槍を突き込み、盾の縁を叩いている。


「押せ!」


「前へ!」


 黄色い列が一歩進む。


 義勇兵の足が下がる。


「雲長!」


「ここだ!」


 関羽が青龍偃月刀を横へ振るう。


 伸びてきた槍が外へ流れ、空いたところへ盾持ちが身体を寄せる。


 劉備はその横へ滑り込んだ。


「まだ持つか!」


「もう少しなら!」


 関羽が答える。


「もう少しはいらん!」


「何?」


「道はできた! 下がるぞ!」


 関羽の目が一瞬だけ坂の下へ向く。


 人で埋まっていた場所に、細いながらも流れができている。


「……なるほど」


「翼徳!」


 今度は正面へ声を飛ばす。


「聞こえとるか!」


「聞こえてる!」


 張飛が丈八蛇矛を突き出す。


 前へ出かけた黄巾兵が、穂先を避けて身を引く。


「けど、こいつらしつけぇぞ!」


「知っとる!」


 劉備が周囲を見る。


 義勇兵はまだ残っている。


 だが、誰も最初のようには動けていない。


 盾を持つ腕は震え、槍を支える兵の肩も大きく上下している。泥に膝をつきかけた者は、隣の兵に腕を掴まれてどうにか立ち直った。


 ここで粘れば、今度はこちらが崩れる。


「雲長!」


「何だ!」


「義勇兵を先に抜けさせろ!」


「承知!」


 関羽がすぐに振り返る。


「動ける者から下がれ! ここは俺が受ける!」


「はい!」


 盾兵が一人、坂へ身体を向ける。


 その瞬間、黄巾兵の槍が伸びた。


 関羽の青龍偃月刀が間へ入り、穂先を外へ流す。


「行け!」


 義勇兵が坂を下る。


 次の一人も続いた。


 関羽は前へ残り、抜けていく者たちの背を守る。


「アニキ!」


 張飛が叫ぶ。


「こっちはどうすんだ!」


「そっちも下がれ!」


「簡単に言うな!」


「お前ならできるじゃろ!」


「ったく!」


 怒鳴り返しながら、張飛が丈八蛇矛を大きく横へ払う。


 先頭の兵が踏み込みを止め、その背へ続いていた兵が詰まる。


「今だ! 後ろから下がれ!」


 義勇兵が一人、二人と坂を下る。


 張飛は前を向いたまま動かない。


「翼徳!」


「分かってる!」


「お前も下がれ!」


「今行く!」


 また槍が伸びる。


 張飛は柄を打ち合わせ、穂先を逸らした。


 その横を義勇兵が抜ける。


 劉備も剣を構え、張飛の方へ寄る。


「何しに来た!」


「迎えに来たと言ったじゃろ!」


「邪魔すんなよ!」


「誰に言っとる!」


 劉備の正面へ槍が伸びる。


 身体を横へずらす。


 穂先が袖の脇を通った。


 剣を振り下ろし、槍の柄を叩く。


 折れない。


 だが、穂先が地面へ落ちる。


「ほれ!」


 張飛が一歩前へ出た。


 丈八蛇矛の石突きが敵の胸へ入り、男が後ろへよろめく。


「アニキ、下がれ!」


「今度はお前が言うのか!」


「いいから!」


 張飛が劉備の前へ出る。


 その間に、さらに二人の義勇兵が坂を下った。


 右を見る。


 関羽の側も、残っている義勇兵は少ない。


「雲長!」


「あと三人だ!」


「三人下げたらお前も来い!」


「分かった!」


 関羽が答えた直後、黄巾兵が強く踏み込んだ。


 盾へ槍がぶつかる。


 残っていた義勇兵の身体が後ろへ揺れる。


「ぐっ!」


 関羽が青龍偃月刀の柄を横へ入れる。


 盾の裏へ押し当て、二人で支えた。


「下がれ!」


「ですが!」


「行け!」


 義勇兵が歯を食いしばる。


 一瞬迷い、すぐに踵を返した。


 残った二人も順に坂を下り、最後の一人が離れる。


 関羽だけが前に残る。


「兄者!」


「来い!」


 関羽が青龍偃月刀を振るう。


 先頭の槍を外へ払い、踏み込もうとした隣の兵が足を止める。


 その一瞬に身体を返し、坂を駆け下りた。


「翼徳!」


「今行く!」


 張飛が丈八蛇矛を構え直す。


 黄巾兵が一斉に前へ出ようとした。


「来んな!」


 張飛が矛を地面すれすれに振るう。


 先頭の兵たちが慌てて間合いを外す。


 その瞬間、張飛が後ろへ跳んだ。


「走れ!」


「お前が一番遅い!」


「誰のせいだ!」


 三人が坂を下る。


 後ろから足音が追ってくる。


 太鼓も鳴る。


 黄巾兵は止まっていない。


「兄者!」


 関羽が横を見る。


「追ってくる!」


「分かっとる!」


 劉備は坂の下を見る。


 先ほどまで兵で塞がっていた道には、もう流れができている。


 中軍の旗がさらに下で揺れている。


 その周りへ兵が集まり、隊列を作り直していた。


 右翼の兵も、道の端を使って次々と抜けている。


 さらにその奥では、数騎が中軍の旗の近くへ集まっていた。


「そのまま下まで行け!」


「兄者は!」


「ワシも行く!」


 叫んだ直後、その騎馬の一角から大きな声が響く。


「中軍、止まれ!」


 劉備の足が僅かに緩む。


 聞き覚えのある声だった。


「右翼はそのまま下げろ!」


「左翼、中央の後ろへ入れ!」


 董卓だ。


 中軍の旗の傍らで、馬上から周囲へ命令を飛ばしている。


「傷兵は先へ送れ! 動ける者は列へ戻れ!」


 伝令が四方へ走る。


「前列を残せ!」


「弓兵は斜面へ向けろ!」


「追ってくる奴らを近づけるな!」


 命令を受けた小隊長たちがそれぞれの列へ走り、さっきまでばらばらだった流れが、今度は隊として組み直されていく。


「……ほれ」


 劉備が息を吐く。


 張飛が横を見る。


「何だ?」


「董卓の仕事じゃ」


「何の話だよ!」


「何でもない!」


 坂を下る。


 その後ろから黄巾兵が追ってくる。


 だが、今度は先ほどまでとは違った。


「弓兵、構え!」


 下から声が飛ぶ。


 弓兵が一斉に斜面へ向く。


「放て!」


 弦が鳴る。


 矢が頭上を越える。


「うおっ!」


 張飛が思わず首をすくめる。


 矢は三人を越え、追ってきた黄巾兵の前へ降り注ぐ。


 先頭が足を止め、何人かが慌てて盾を上げる。追撃の勢いがそこで鈍った。


「もう一度!」


 第二射。


 盾を上げた黄巾兵がその場に留まり、官軍との距離が開いていく。


「今だ! 前列も下げろ!」


 董卓の声が続く。


 斜面に残った官軍は、一斉には退かない。


 前列が盾を向けたまま下がり、後ろに控えていた列と入れ替わる。


 新たに前へ出た兵が黄巾兵を受け、その間に下がった兵がさらに後方へ回る。


「……戻っとる」


 張飛が呟く。


「何がじゃ」


「隊がだよ」


 劉備も見る。


 確かに違う。


 ついさっきまで、自分の前しか見えていなかった兵たちが、今は旗と声を頼りに隣と歩幅を合わせている。


 崩れていた列が、もう一度ひとつの隊として動いていた。


「走るな!」


 董卓が怒鳴る。


「隊を崩すな! 追ってくるなら追わせろ!」


 黄巾兵も前へ出る。


 だが、矢が飛ぶたびに足が止まる。


 槍兵が出れば、官軍の前列が盾を向ける。


 無理に押し返さず、槍を受けては一歩下がる。


 それを繰り返しながら、官軍は少しずつ斜面を離れていく。


「雲長!」


「大丈夫だ!」


 関羽が答える。


 青龍偃月刀を担ぐように持ち、息を整えている。


 張飛も丈八蛇矛の石突きを地面へつけた。


「アニキ」


「何じゃ」


「もう走らなくていいんだよな?」


 劉備は前を見る。


 官軍は隊列を保ったまま、少しずつ坂を離れている。


「今度は大丈夫そうじゃな」


「やっとかよ……」


 その時、隊列の脇を下がってきた一騎が、三人の方へ進路を変えた。


 数人の兵を従えた董卓が、そのまま三人の前で馬を止める。


「止まれ」


 低い声が飛ぶ。


 劉備が足を止める。


 関羽と張飛も並んだ。


 董卓は三人を見る。


 次に、坂の上へ目を向けた。


 官軍はまだ退いている。


 だが、もう崩れてはいない。


「……あの混乱に、貴様が手を入れたのか」


 劉備が首を傾げる。


「何がじゃ」


 董卓の眉が僅かに動く。


「中軍も右翼も、さっきまであんな動きはしていなかった」


「ワシ一人じゃない」


「誰だ」


「お前の部将と兵じゃ」


 董卓が黙る。


「詰まっとったから、少しほぐしただけじゃ」


「少し、か」


「後はあいつらがやった」


 劉備は坂の下を顎で示す。


 部将の声がまだ届いている。


「中軍は旗から離れるな!」


「右翼、次の組!」


「左翼はまだ待て!」


 その命令に伝令が走り、小隊長が応じる。兵もそれぞれの列へ戻り、流れを止めずに動いている。


 董卓はしばらくその様子を見ていた。


 それから劉備へ目を戻し、しばらく黙って顔を見る。


「……覚えておく」


「そうか」


 劉備はそれ以上何も言わない。


 董卓は馬首を返した。


「話は後だ」


 斜面へ向き直る。


「今は退く!」


 声が飛ぶ。


「全軍、隊を崩すな!」


 太鼓が鳴る。


 官軍の旗が下がる。


 その合図に合わせ、前列がまた一段、坂を下った。


 黄巾兵は追ってくる。


 それでも、もう誰も勝手には走らない。


 中軍も、右翼も、左翼も、それぞれ自分の旗を追って順番に退いていく。


 劉備は剣を握ったまま、その流れを見渡す。


「これで退けそうじゃのう」


「アニキ」


「何じゃ」


「腹減った」


「ワシもじゃ」


「兄者」


 関羽が呆れたように二人を見る。


「まだ戦場だぞ」


「分かっとる」


 劉備は坂の上を一度だけ振り返る。


 黄巾兵の黄色い旗が、土煙の向こうで揺れている。


 まだ終わってはいない。


 それでも、今日ここで潰されずに済んだ。


「行くぞ」


「ああ」


「おう」


 三人は、退いていく官軍の列へ加わった。



「ここまでお読みいただきありがとうございます!

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