第二十八話 崩れる陣
第二十八話 崩れる陣
*
【董卓視点】
官軍の列が揺れた。
「踏ん張れ!」
董卓の声が斜面に響く。
倒れかけた兵の背を、後ろの兵が支えた。
なんとか持ち直す。
だが、黄巾兵は来なかった。
「……?」
部将が顔を上げる。
斜面の上。
先ほどまで押し合っていた黄巾兵が、僅かに距離を取っていた。
逃げたわけではない。
盾を並べたまま、止まっている。
その後ろで黄色い旗が一本、横へ動いた。
別の旗も続く。
太鼓が鳴った。
ドン。
間を置いて、もう一度。
ドン。
それまで戦場を満たしていた鬨の声とは違う。
短く、一定の間隔で響いてくる。
董卓は刀を下ろさなかった。
「何をする気だ」
黄巾兵の後ろから、新しい一隊が姿を現した。
盾。
槍。
その後ろにも兵が続いている。
先にいた者たちが左右へ開き、その間を通って前へ出る。
太鼓が鳴る。
前列の盾が一斉に進む。
次の音で、その後ろの槍兵も同じだけ距離を詰めた。
列は崩れない。
隣にいた部将が息を呑んだ。
「……先ほどまでとは違います」
「見れば分かる」
董卓は斜面の上を睨んだ。
盧植が攻めきれなかった理由が、嫌でも見えてくる。
柵を越えた時は、あと少しだと思っていた。
太鼓が止まった。
「来るぞ!」
黄巾兵が走った。
官軍の前列が盾を構える。
次の瞬間。
鈍い音が斜面に響いた。
「ぐっ!」
先頭の兵が身体ごと後ろへ弾かれる。
盾の表面に亀裂が走った。
隣でも盾が傾く。
そこへ槍が入った。
「がっ――」
一人が倒れる。
空いた場所を塞ごうと後ろの兵が前へ出た。
その足元へ、別の槍が伸びる。
男が膝をついた。
「そこを空けるな!」
部将が駆け寄る。
兵を一人掴み、前へ押し出した。
空いた位置へ盾が戻る。
その横で、木の割れる音がした。
盾が一枚、中央から折れた。
「下がれ! 新しい盾を――」
前列の兵の声が途中で消える。
矢が首元へ刺さり、その場へ崩れ落ちた。
「おい!」
近くの兵が振り返った。
「前を見ろ!」
董卓が怒鳴る。
だが、遅かった。
倒れた兵へ気を取られた男の肩へ槍が突き刺さる。
その隣も下がった。
一人分だった隙間が広がる。
「入られた!」
黄巾兵が盾の間へ肩をねじ込んだ。
盾の縁が押し開かれる。
その隙間へ槍が入った。
一人。
二人。
後ろからさらに続く。
前列の内側で槍が振られた。
「後ろだ!」
「どけ!」
声が重なる。
前へ出ようとする兵と、傷を負って下がる兵がぶつかった。
一人が転ぶ。
後ろの兵が躓く。
さらにその後ろまで止まった。
「将軍!」
右から伝令が駆けてくる。
「右翼が押されています!」
董卓が顔を向ける。
右手の高所から黄巾兵が下りていた。
その前では、官軍の盾兵が少しずつ位置を下げている。
「右翼は中央へ寄せろ!」
「はっ!」
伝令が駆けていく。
だが、中央も持たなかった。
「中央、一段退け! 列を切るな!」
前列が斜面を下がる。
そこへ右から寄ってきた兵が重なった。
「待て! 止まれ!」
先頭同士がぶつかる。
盾が肩に当たり、槍の柄が隣の兵へ引っ掛かった。
一人が体勢を崩したところへ、後ろからさらに兵が押し寄せる。
「詰まるぞ! 右翼を止めろ!」
部将が怒鳴る。
伝令が走った。
その脇を、肩を借りた負傷兵が下ってくる。
「傷兵を通せ!」
「道を空けろ!」
兵が身体を寄せる。
空いた場所へ黄巾の矢が飛び込み、盾に突き刺さった。
「敵が来るぞ!」
前へ槍を向けようにも、後ろから下がる兵がぶつかって構えられない。
董卓が舌打ちした。
「中央を止めろ! 右翼を先に通せ!」
「はっ!」
中央の兵が足を止める。
右翼がその前を抜けようとする。
そこへまた矢が飛んだ。
「伏せろ!」
盾が上がる。
進みかけていた列が止まった。
黄巾兵が距離を詰める。
「将軍!」
左からも伝令が来た。
「左翼も下がっています!」
「中央へ入れるな! そのまま下へ回せ!」
「はっ!」
左側の兵がすぐに向きを変える。
だが、その先には傷兵を支えて下る一団がいた。
「止まれ!」
左翼の先頭が足を止める。
後続も止まり、その背へさらに兵が重なった。
前からは黄巾兵の槍。
後ろには傷兵と退く兵。
横からは中央へ合流しようとする兵まで入り込み、斜面の途中で互いの進路を塞いでいた。
もう、前にも後ろにも動けない。
その間にも黄巾兵が距離を詰めてくる。
董卓は斜面の上を見た。
今、下りてきている盾兵の後ろに、別の列ができている。
その右では弓兵が矢をつがえ、さらに奥では槍を持った兵が旗の下へ集まり始めていた。
まだ前へ出ていない。
今の一隊を退けても、次が来る。
「将軍!」
部将が駆け寄る。
「このままでは退路が詰まります!」
董卓も見ていた。
中央には下がる兵。
左右から合流しようとする兵。
その後ろには傷兵が溜まり始めている。
そして前からは、黄巾兵が列を崩さず迫ってくる。
「全軍、退く」
「はっ!」
「走らせるな。隊ごとに退け!」
「承知!」
部将が駆けていく。
董卓も声を張った。
「まず中央! 右翼はその後ろへ続け! 左は道が空いてからだ!」
「はっ!」
中央の兵が向きを変える。
前列だけはその場に残り、黄巾兵へ槍を向けた。
その後ろから、一隊ずつ斜面を下がり始める。
董卓は最後尾へ回る前に、一度だけ振り返った。
斜面の上では、黄色い旗がまだ揺れている。
太鼓が鳴った。
黄巾兵がまた一段、下りてくる。
董卓の手に力が入った。
「……張角」
振り返らず、斜面を下った。
*
【劉備視点】
西から聞こえていた音が変わった。
「……ん?」
張飛が顔を上げる。
劉備も剣を構えたまま耳を澄ませた。
さっきまでは鬨の声が続いていた。
今は違う。
怒鳴り声に、何かを命じる声が重なる。
その向こうでは、一定の間隔で太鼓が響いていた。
「アニキ」
「分かっとる」
正面を見る。
こちらにいた黄巾兵は、先ほどから距離を詰めてこない。
盾を構えたまま、その場に残っている。
関羽が青龍偃月刀を僅かに下げた。
「妙だな」
「うむ」
黄巾兵の何人かが西へ顔を向けている。
攻めてこない。
逃げもしない。
何かを待っている。
西から旗が見えた。
赤い旗。
斜面の上にあったものが、下へ動いている。
一本。
その後ろからもう一本。
張飛が目を細めた。
「……董卓の奴、下がってねぇか?」
さらに土煙が上がった。
今度は旗だけではない。
兵が見える。
隊列を保ったまま、少しずつ斜面を下りている。
その後ろ。
黄色い列が追っていた。
「押し返されたな」
関羽が言った。
劉備は答えず、退路を見た。
先ほど確かめた道はまだ空いている。
負傷した義勇兵はすでに後ろへ送っている。
今なら行ける。
「アニキ」
張飛も同じ場所を見た。
「今なら逃げられるぞ」
「そうじゃな」
「なら――」
「じゃが」
劉備は西を見る。
赤い旗がまた一つ、斜面を下った。
「ワシらだけ逃げても、董卓の本隊を潰されたら終わりじゃ」
董卓軍の後ろでは、黄色い列が斜面を下っている。
赤い旗がまた一つ、下へ消えた。
「逃げるなら、本隊も一緒に逃がさんとな」
張飛が眉を寄せた。
「助けんのか、あいつを?」
劉備は西を指した。
「追ってくる奴らの横っ腹を叩く」
その先では、董卓軍と黄巾兵の距離が縮まり続けている。
「足が止まった隙に、董卓が兵を退かせる」
「それで持ち直せんのか?」
「そこから先は董卓の仕事じゃ」
張飛はしばらく黙った。
「……雑じゃねぇか?」
「できる奴には任せればよい」
関羽の口元が僅かに動く。
「兄者らしいな」
「じゃろ?」
「褒めてはいない」
「おい」
張飛が笑った。
疲れ切っていた顔に、少しだけいつもの色が戻る。
「で、どうすんだ」
「まず負傷した者は戻す」
劉備は後ろへ振り返った。
「歩けん者を連れて行け! 動ける者だけ残れ!」
義勇兵が動く。
肩を貸す者。
盾を拾う者。
折れた槍を捨てる者。
一人の男が前へ出た。
「玄徳様。俺たちは?」
「走れるか?」
「まだ」
「なら来い」
「はい!」
劉備は残った者たちを見る。
ここへ来た時より減っている。
皆、泥と汗にまみれていた。
盾にも傷がついている。
それでも誰も武器を置かなかった。
「西へ行く」
何人かの顔が強張った。
「走れる者からワシらについて来い。盾を持っとる者は、そのまま来い」
「董卓将軍のところへ行くんですか?」
「そうじゃ。董卓の兵が逃げ切ったら、ワシらも退く。深追いはするな」
義勇兵の何人かが頷いた。
一人が盾を持ち直す。
その隣では、別の兵が折れかけた槍の柄を握り直した。
劉備は張飛を見る。
「翼徳」
「おう」
「先を頼む」
丈八蛇矛が肩へ乗る。
「任せろ!」
「雲長」
「分かっている」
関羽が青龍偃月刀を構え直した。
「横から来る者は通さん」
「頼んだ」
距離を取っていた黄巾兵が動いた。
こちらが西へ向きを変えたのを見て、一隊が進路へ回り込んでくる。
「行くぞ!」
張飛が先に飛び出した。
「邪魔すんな!」
突き出された槍を丈八蛇矛で跳ね上げる。
その勢いのまま横へ振り、先頭の盾を叩いた。
盾が横を向く。
開いたところへ関羽が踏み込んだ。
青龍偃月刀が二本の槍をまとめて払い、前にいた黄巾兵が左右へ退いた。
「止まるな! 西へ!」
劉備の声に義勇兵が続いた。
張飛と関羽が開いた道へ、次々と兵が駆け込んでいく。
別の黄巾兵が横から槍を伸ばす。
関羽の青龍偃月刀が弾いた。
「兄者、行け!」
「頼む!」
劉備は前を走る張飛を追った。
土煙の向こうで、官軍の列がまた斜面を下った。
「まったく」
剣を握り直す。
「人を囮に使った奴を助けに行くとはのう!」
「だったら後で文句言ってやれ!」
張飛が前の黄巾兵へ槍を向ける。
「一つで済むかのう!」
「兄者、前だ!」
劉備は前へ向き直り、剣を上げた。
西側の斜面へ。
三人と義勇兵が駆け込んでいった。
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