第二十六話
第二十六話
昼を過ぎた頃、北の門から馬の蹄が響いてきた。
見張りの兵が手を翳す。
「一隊来ます!」
鄒靖が幕舎から出た。
やがて土煙の向こうから騎馬の列が姿を現す。
先頭を走る男は大柄だった。
厚い肩に鎧を掛け、馬上でも身体が小さく見えない。腰には幅のある刀を下げ、その後ろを騎兵が続いている。
門を抜けると、男は馬を止めた。
すぐには降りず、北へ続く道から荷車の置き場、幕舎の並び、見張り台まで陣の中をゆっくりと見渡した。
一通り確かめてから、手綱を従者へ渡す。
「鄒靖殿は」
「私です」
鄒靖が前へ出た。
「董卓だ。今日より、この陣を預かる」
「承知しております」
「話を聞こう」
二人は幕舎へ入った。
後から来た兵たちは馬を繋ぎ、荷を下ろし始める。空いた場所へ運ばれた幕も、柱を立てる者と縄を張る者に分かれて組み上げられていった。
劉備は道の端から、その様子を見ていた。
「慣れとるのう」
関羽が董卓の入った幕舎へ目を向ける。
「辺境で長く戦ってきた将と聞く」
「ほう」
劉備は馬を引いていく兵へ視線を戻した。
幕舎では、鄒靖が地図を広げている。
「張角は広宗に籠もったままです。北側は昨夜、ここまで進めました」
鄒靖が木札を指す。
「西は?」
「見張りを残しています。今朝、護衛付きの荷車が南へ道を変えたため、行き先を探らせています」
董卓が地図へ目を落とした。
「兵の損害は」
「ここ数日は小競り合いが中心で、死傷は数十です」
「敵は」
「張角の主力は広宗に籠もったままです。城外へ出るのは小勢ばかりで、今朝も十数人が北の杭まで来て引き返しました。西では荷車の行き先を追わせていますが、まだ報告は戻っていません」
董卓の指が北側の木札へ伸びる。
「追わなかったのか」
「はい。出てきても深追いせず、道を押さえるよう命じられています」
「なるほど」
木札を一つ持ち上げる。
「盧植殿らしい」
鄒靖が顔を上げた。
「ご存じでしたか」
「名くらいはな」
董卓は木札を元へ戻した。
「張角を広宗へ押し込み、出てきた兵だけ叩く。兵を減らさず、逃げ道を締めるつもりだったか」
「はい」
「悪くない」
鄒靖は黙って聞いている。
董卓が広宗の位置へ目を移した。
「だが、これでは時間が掛かる」
「……はい」
「兵を見に行く」
董卓が幕舎を出た。
まず馬の繋がれた場所へ向かう。
一頭の前で足を止め、腹帯へ手を掛けた。
「緩い」
近くの兵が寄ってくる。
「締め直せ。これで走らせれば途中でずれる」
「はっ」
隣の馬では蹄を持ち上げた。
指で縁をなぞる。
「これは明日まで使うな」
「ですが、まだ走れます」
「割れている。潰してから替えるつもりか」
「……失礼しました」
兵が手綱を取り、その馬を列から外した。
董卓は槍を束ねた場所へ向かい、一本を抜く。
「誰が使う」
「私です」
兵が前へ出た。
董卓は男の腕を見てから、槍を握り直す。
「長い。半尺詰めろ」
「半尺ですか」
「その長さでは懐へ入られた時に返せん。いいから替えろ」
「はっ」
槍を返す。
兵は仲間を呼び、柄の長さを確かめ始めた。
少し離れたところで見ていた劉備が呟く。
「……思ったより、まともな将軍が来たな」
董卓が次へ向かおうとして、鄒靖へ顔を向けた。
「そういえば、鄒靖殿」
「はい」
「貴公の預かりに、宦官を殴った愚か者がおると聞いた」
陣の中へ目を向ける。
「どんな顔をしている。見せよ」
鄒靖が劉備を呼んだ。
「劉備、こちらへ」
劉備が歩み寄る。
董卓は上から下まで眺め、最後に顔で目を止めた。
「こいつか。ふむ……名の割には、印象に残らぬ顔だ」
「余計なお世話じゃ」
董卓は気にした様子もなく、もう一度劉備を見る。
「一兵として行動する以上、敵前逃亡は許さん」
「状況によ――」
鄒靖が劉備を睨んだ。
「……分かった」
董卓が鼻を鳴らす。
「もうよい。行け」
劉備が踵を返しかけた。
その時、董卓の腰へ目が止まる。
鞘から柄へ視線を移し、足を止めた。
「……」
「どうした。俺の刀が気になるか」
「……いや、うむ。どこでそれを?」
董卓が腰へ手を置く。
「畑で拾った。なかなかの切れ味でな。部下に聞けば、あの項羽が使っていた刀だなんて眉唾な話まである」
劉備が吹き出した。
「何がおかしい」
「いや……そうか。畑か」
もう一度、刀を見る。
「失礼した。これで失礼する」
劉備はそのまま歩き去った。
董卓はしばらく背を見送り、腰の刀へ目を落とす。
やがて鄒靖へ顔を向けた。
「北を見に行く。案内しろ」
「はい」
二人は広宗の方角へ歩き出した。
董卓は陣へ戻ると、そのまま地図の前に立った。
鄒靖が広宗周辺を指す。
「こちらは緩やかな斜面になっていますが、その先は起伏が多く、細かい地形までは掴めていません」
「ふむ……」
董卓は地図へ目を落とした。
「西は」
「正面より広いですが、途中から高所に挟まれます」
「東は?」
「さらに狭くなります。兵をまとめて動かすには向きません」
董卓の指が地図の上を動く。
「なるほど。これは攻めにくい」
しばらく地図を見たまま、口を開く。
「逃げ道を絶ちつつ包囲を狭める。常套だが、時が掛かりすぎる」
「はい」
「朝廷は早期決着を望んでいる」
鄒靖は黙って聞いていた。
董卓の指が地図の一角で止まる。
「義勇兵は何名集まっておる」
「現在、この陣にいる者だけで二百余りです」
「ここの攻め口を使わせよ」
鄒靖が指された場所を見る。
「義勇兵を、ここへ?」
「そうだ」
董卓は指を西へ滑らせた。
「俺はその間に兵を率いて、西から回る」
鄒靖が顔を上げる。
「……囮、ですか」
「必要なことだ」
董卓は地図を畳み、部下を呼んだ。
「西側へ回す兵を集めろ。夜明け前に動く」
「はっ」
伝令が幕舎を出ていった。
鄒靖は地図の置かれていた場所へ目を落とす。
「義勇兵には、どこまで伝えますか」
「攻撃命令だけでいい」
「承知しました」
その日のうちに、義勇兵へ命令が回った。
明朝、広宗の一角へ攻撃を掛ける。
本隊は後方で待機する。
それだけだった。
「この数で攻めろって、何考えてやがる」
張飛が吐き捨てる。
「本隊は後方待機だと? 俺たちに死ねってか!」
劉備はすぐには答えなかった。
「……」
しばらくして、口を開く。
「囮、じゃろうな」
張飛が見る。
「ワシらが戦ってる間に、手薄な場所を探るのじゃろうよ……合理的じゃ」
関羽が劉備へ目を向けた。
「して、どうする兄者。むざむざと死地に赴くつもりか」
「命令じゃ。じゃが、撤退の経路は確保する」
「どこまで出る」
「敵が食いつくところまでじゃ。深くは入らん」
関羽は少し考え、頷いた。
「ならば、戻る道から先に見るべきだな」
「うむ」
三人はその日のうちに攻め口へ向かい、退路になりそうな道を確かめた。
広い道だけではない。途中で分かれる細道や、兵がまとまって戻れそうな場所も見る。
劉備は道を何度か振り返った。
「ここなら戻れる」
関羽も同じ場所を見る。
「追われても、二列なら通せる」
「覚えておこう」
張飛は前方へ目をやった。
「で、明日はあそこまで出るんだな」
「出る」
劉備は短く答えた。
「じゃが、最後まで付き合う気はない」
翌朝。
夜が明ける前から、義勇兵たちが攻め口へ集まり始めた。
空が白み始める頃、義勇兵たちは陣を出た。
劉備は先頭に立たず、中ほどを歩いていた。
前へ出る兵の数と、後ろに残る兵の位置を確かめながら進む。
昨日見た道が、薄明かりの中に伸びている。
「アニキ」
張飛が前方を見る。
「もう見えてるぞ」
「うむ」
斜面の上に黄巾の旗があった。
こちらの動きには気づいている。
柵の向こうを人影が動き、やがて弓を持った兵が並び始めた。
「止まれ」
劉備が手を上げると、義勇兵が足を止めた。まだ矢の届く距離ではない。
関羽が高所を見る。
「もう少し進めば射程に入る」
「そこまでじゃ」
「どうするつもりだ」
劉備は前列へ声を飛ばした。
「盾を持て! 足に力を入れて、絶対に顔を出すな!」
兵たちが盾を寄せる。
「進め!」
斜面へ踏み込む。
上から声が飛び、黄巾の兵が柵の前へ集まり始めた。
弦の鳴る音が重なる。
矢が盾へ突き立つ。
「止まるな!」
張飛が前へ出た。
二度目の矢が降る。
一人が足を取られ、隣の兵が腕を掴んだ。
劉備は後ろを振り返る。
退路はまだ空いている。
「雲長!」
「任せろ!」
関羽は右へ寄り、斜面から降りてきた黄巾兵へ刀を向けた。
柵の内側から、さらに兵が出てくる。
張飛も槍を構えた。
「来やがった」
「下がるな。まだじゃ」
斜面の途中で武器がぶつかる。
張飛が一人の槍を弾き、そのまま柄で押し返した。
関羽も刀を振るい、前へ出てきた兵を押し戻す。
劉備は二人より半歩後ろに残り、前方の動きを見ていた。
高所から降りてくる兵が増え、さらに奥でも旗が動く。
劉備はその動きを見て目を細めた。
「……食いついたな」
関羽が振り返る。
「十分か」
「もう少しじゃ」
黄巾の一隊が横へ動き、義勇兵の正面へ回り込もうとする。
それを見たところで、劉備は剣を上げた。
「ここまでじゃ! 下がれ!」
前列が下がると、後ろの兵がその前へ出た。入れ替わりながら、少しずつ斜面を下がっていく。
張飛が最後まで前に残った。
「翼徳、下がれ!」
「分かってる!」
黄巾兵が追ってくる。
劉備は昨日確認した分かれ道へ目を向けた。
「右へ寄れ! 道を空けろ!」
負傷した兵を先に通す。
関羽は入口に残り、追ってきた兵を牽制した。
劉備も隣へ並ぶ。
「兄者、先に行け」
「お前を置いていけるか」
関羽が刀を振るい、迫った兵を押し返す。
「来るぞ」
劉備は剣を構え直した。
もう一度追撃を止め、その隙に関羽とともに道へ入る。
前にいた義勇兵から順に、昨日確かめた退路へ流れ込んでいた。負傷者を先へ通し、後ろに残った兵が追ってくる黄巾兵を牽制する。
「思ったより追ってこねぇな」
張飛が後ろを見る。
「なら、それでいい」
斜面の入口まで戻ったところで、劉備は先へ下がる兵と、その場に残す兵を分けた。
「ここで少し粘る」
「まだやるのか」
「ワシらが全部引けば、向こうも戻るじゃろ」
張飛が前を見る。
黄巾兵は斜面の途中で止まり、こちらの動きを窺っていた。
義勇兵も距離を取り、盾と槍を構え直す。
劉備は黄巾の動きを見ながら待った。
「……まだか」
張飛が呟く。
「知らん」
やがて、高所に並んでいた旗の一つが動いた。
続いて、正面に出ていた兵の一部が奥へ戻っていく。
関羽が目を細める。
「動いたな」
「うむ」
その直後、遠くから鬨の声が響いた。
張飛が顔を上げる。
「始まったか」
高所でも兵が走り始める。
劉備は剣を握ったまま、その動きを追った。
関羽が前を見る。
「こちらは」
「もう少し引きつける」
正面の黄巾兵が再び動き出した。
劉備は剣を上げる。
「来るぞ!」
義勇兵たちが盾を構え直した。
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