第二十四話 先生の罪
第二十四話 先生の罪
翌朝。
左豊は約束通り、陣の中を歩いていた。
先頭を盧植が進み、その少し後ろを左豊と従者たちが続く。
兵たちは道を空ける。
だが、昨日ほど足を止める者はいない。
矢を束ねる者は手を動かし、槍を運ぶ者はそのまま横を通り過ぎる。
目を向ける先では、誰かしらが働いていた。
幕の前には、腕に布を巻いた兵が腰を下ろしている。
その隣では別の兵が立ち上がり、運ばれてきた水桶へ手を伸ばした。
「負傷者です」
盧植が歩きながら言う。
「軽傷の者は、動ける範囲で陣内の仕事へ回しています」
左豊は一人の足元へ目を止めた。
布の巻かれた脛を庇いながらも、その兵は矢筒を抱えて歩いている。
「戦場へ戻す者も?」
「戻せる状態なら」
それだけ答え、盧植は先へ進んだ。
少し先では、折れた槍の柄がまとめられていた。
使える穂先だけが外され、新しい柄へ付け替えられている。
その隣では、曲がった矢を兵たちが一本ずつ選り分けていた。
左豊は足を止めなかった。
さらに先では、届いたばかりの袋が地面へ並べられている。
兵が木簡と見比べながら数を確かめていた。
「三十七」
「こちらは二十一です」
「西へ回す分を分けろ」
左豊が袋の列を見る。
「兵糧ですか」
今度は近くにいた兵が答えた。
「はい。昨日届いた分と合わせて振り分けます」
盧植はそのやり取りを聞きながら先へ進んでいる。
左豊もついていく。
「随分と多い」
「囲むなら必要になります」
盧植が答えた。
「長く戦うおつもりで?」
盧植はそこで初めて足を止めた。
「長くするつもりはありません」
振り返る。
「長引いても崩れぬようにしているだけです」
左豊は返事をしなかった。
その先では数人の兵が木杭を運んでいる。
陣の外へ向かうらしい。
一人が盧植に気づき、足を止めた。
「北側へ持っていきます」
「見張りの交代は」
「もう向かっています」
「ならそのまま進め」
「はっ」
兵たちはすぐに歩き出した。
木杭を抱えた一団が、そのまま北へ向かっていく。
「夜のうちに黄巾が動きました」
盧植が言った。
「北の見張りを増やします」
「攻めるのではなく?」
「今は必要ありません」
返事はなかった。
一行はそのまま先へ進む。
通りの脇では、荷を積み終えた小さな車が二台、別々の方角へ出ていくところだった。
一台は北へ。
もう一台は西へ。
兵が木簡を見ながら、積まれた袋を最後にもう一度数える。
その横を、泥のついた馬で伝令が駆け抜けた。
「北の見張りより!」
盧植が足を止める。
伝令は馬上から降りる間も惜しむように報告した。
黄巾の一隊が広宗の北側で動いたが、こちらへ近づく様子はないという。
「追うな。人数だけ見ておけ」
「はっ!」
伝令はすぐに馬首を返した。
左豊の横を、また蹄の音が通り過ぎていく。
視察のために兵の動きが止まることはない。
むしろ戦の方が、彼らの脇を絶えず行き来していた。
少し離れた場所では、劉備たちが槍を運んでいた。
休めと言われたはずだった。
だが、昼まで寝ている気にはなれなかった。
結局、動ける範囲で手伝うことになっている。
張飛が槍を三本まとめて肩へ担ぐ。
「休みってなんだろうな」
「戦わんだけでも休みじゃろ」
関羽は二人より先を歩いていた。
その時、向こうから一行が来る。
張飛が足を止めた。
劉備も顔を上げる。
昨日と同じ衣。
左豊だった。
盧植が先頭を歩いている。
左豊は槍を抱えた三人へ目を向けた。
劉備も黙って目を返す。
どちらも何も言わなかった。
盧植だけが一度こちらを見る。
「玄徳」
「なんじゃ」
「休めと言ったはずだが」
劉備は肩に担いだ槍を見る。
「戦っとらんぞ」
盧植はしばらく黙っていた。
やがて前へ向き直る。
一行がそのまま通り過ぎた。
通り過ぎる間際、左豊がもう一度だけ劉備を見る。
関羽は足を止めずに進んでいた。
劉備と張飛もその後を追う。
◇
昼を過ぎる頃には、左豊は陣の外まで出ていた。
広宗へ続く道や見張りの置かれた高み、荷が運び込まれる道まで順に回っていく。
そこでも陣内と同じように人が動いていた。
高みでは兵が遠くを見張り、麓では交代する者が水を受け取っている。
別の場所では、地面へ打ち込んだ杭の間に縄を張っていた。
その向こうを通る道には、馬の蹄と車輪の跡が幾重にも残っている。
一度、足元へ目を落とす。
何も聞かず、そのまま前へ進んだ。
高みへ近づくと、ちょうど交代の兵が下りてきた。
「異常は」
盧植が聞く。
「今のところありません」
兵が答える。
「黄巾の旗が東へ少し動きましたが、兵は出ていません」
「次の者へ伝えろ」
「はっ」
兵は頭を下げ、陣へ戻っていく。
その後ろから新しい見張りが高みへ上がった。
下では交代の刻を木簡へ書きつけている。
しばらくその様子を追っていたが、やがて顔を上げた。
遠くには、黄色い旗がいくつも並んでいた。
「あれが張角の陣ですか」
「はい」
盧植が隣に立つ。
「随分と近い」
「近づけました」
しばらく広宗の方角へ向いたまま、言葉はなかった。
「ここまで近づいたなら、攻められるのでは?」
「攻める時は攻めます」
「今ではありません」
風が草を揺らす。
高みでは、上がったばかりの兵が目を細めて遠くを見張っている。
下では次の荷車が止められ、積み荷を確かめられていた。
そこまで確かめると、左豊は袖を整えた。
「ここまでで結構です」
盧植が見る。
「もうよろしいので?」
「ええ」
左豊は陣へ戻る方角へ歩き出した。
「十分、拝見しました」
盧植もその後を追う。
夕刻を待たず、左豊の一行は陣を出た。
兵たちは少しだけ道を空けると、すぐにそれぞれの持ち場へ戻っていった。
馬の蹄が遠ざかっていく。
劉備は荷を運ぶ途中で、その背を見送った。
左豊は一度も振り返らなかった。
◇
左豊が陣を去ってから、十日あまりが過ぎた。
北へ伸びていた見張りの列は、さらに前へ出ていた。
西の道では、荷を運ぶ兵と見張りの間隔が短くなっている。
南側では、杭を打ち直す音が朝から続いていた。
劉備たちはその日、北寄りの道へ出ていた。
前日の雨で地面がぬかるみ、荷車の轍が深く残っている。
関羽が先を歩き、張飛がその後ろで縄を肩へ掛けていた。
劉備は最後尾の荷車を押している。
「重いぞ、これ」
「押せとるなら問題なかろう」
「アニキも押してるだろ」
「じゃから重いと言っとる」
張飛が振り返った。
そのまま何も言わず、前へ向き直る。
荷車が泥へ沈む。
三人で力を掛けると、車輪が音を立てて抜けた。
少し先で待っていた兵が手を上げる。
「そこまででいい!」
荷車を道の脇へ寄せる。
中には水袋と乾いた薪が積まれていた。
別の兵たちがすぐに荷を下ろし始める。
「次は?」
張飛が聞く。
「今日はこれで終わりだ。この先は見張りが受け取る」
兵が道の向こうを指した。
遠くに数人の兵が見えた。
そのさらに先。
低い丘の向こうに、黄色い旗が揺れている。
数日前より、近い。
劉備は荷車から手を離した。
黄巾の側が近づいたのではない。
こちらが前へ出たのだ。
道の脇では、新しい杭が打たれている。
その間を縄で結び、夜でも人の動きが分かるようにしていた。
少し離れた場所では、弓を持った兵が交代している。
誰かが声を張ることもない。
それぞれが決められた場所へ移っていく。
関羽が丘の方角へ目を向けた。
「また旗が減ったな」
劉備も数える。
以前は丘の左右まで広がっていた黄色が、今は中央へ寄っている。
「逃げたのか?」
張飛が腰へ手を当てた。
劉備はすぐには答えなかった。
足元から、黄巾の側へ続く道を見る。
古い轍はいくつも残っている。
だが、新しく刻まれた車輪の跡はほとんどない。
道そのものが消えたわけではない。
荷を通そうと思えば通せる。
ただ、その先には官軍の見張りがいる。
「……動かしにくくなっとるんじゃろうな」
関羽が頷く。
こちらが道を押さえるたび、向こうは荷を運びにくくなる。
見張りを避ければ別の道へ回らねばならず、そこへ兵を出せば今度は別の場所が薄くなる。
それが十日あまり続いていた。
遠くで角笛が鳴った。
三人が顔を上げる。
黄巾の旗が一つ動く。
続いて十人ほどの兵が丘の陰から姿を見せた。
こちらへ来る様子はない。
少し進んだところで止まり、道と官軍の位置を確かめている。
見張りの兵も動かなかった。
弓を手にしている者はいるが、構えない。
しばらくすると、黄巾兵は来た道を引き返した。
追う者もいない。
劉備はその背が丘の向こうへ消えるまで見ていた。
剣は一度も抜かれていない。
それでも、あの十人はこの道を通らなかった。
◇
陣へ戻る頃には、日の位置が少し傾いていた。
盧植の幕舎の前では、兵たちが次々と木簡を受け取っている。
北へ向かう者。
西へ走る者。
馬を引き出す者もいた。
劉備たちがその脇を通ろうとしたところで、幕が上がった。
鄒靖が出てくる。
手には数枚の木簡があった。
「北も前へ出せたようだな」
「うむ。黄巾も出てきたが、道を見て戻っていった」
鄒靖はそれを聞くと、一枚の木簡を開いた。
「西でも似た動きがあった。荷車が一台、道を変えている」
歩きながら、別の木簡へ持ち替える。
「今夜から、もう一段前へ出る」
張飛が陣の外へ顔を向けた。
「まだ近づくのか?」
「近づく」
鄒靖は足を止めない。
「だが、攻めるわけではない。道を押さえる。出てくるなら、その時だけ止める」
関羽が広宗の方角を見る。
陣の外では、すでに何人かの兵が縄や杭をまとめ始めていた。
別の場所では松明が束ねられ、水袋が荷車へ積まれている。
夜になってから準備を始めるつもりはないらしい。
劉備はその様子を見てから、幕舎へ目を移した。
中ではまだ人の声が続いている。
「今夜の前進も先生が決めたのか」
「そうだ」
鄒靖は木簡を畳んだ。
「お前たちにも動いてもらう。日が落ちる前に休んでおけ」
劉備はすぐに踵を返した。
「なら、今のうちに寝るぞ」
張飛と関羽も後に続く。
「夜に起こされると分かっとるのに、起きておる必要もなかろう」
その背後では、また一人の伝令が盧植の幕舎へ入っていった。
陣の外へは、夜に使う松明が次々と運び出されていた。
日が落ちると、陣の外に松明が並んだ。
数は多くない。
必要な場所だけを照らし、兵たちは声を抑えて進んでいく。
劉備たちも、その列の中にいた。
杭と縄が、今度は昼よりさらに前へ運ばれている。
足元はまだ湿っていた。
松明の明かりが泥に映り、踏むたびに黒く揺れる。
「足元に気をつけろ」
前から声が回ってきた。
張飛が肩に担いだ杭を持ち直す。
「昼より重くなってないか?」
「お前が疲れただけじゃろ」
張飛は何も言わず、杭を担ぎ直した。
劉備はそのまま歩く。
関羽は少し前で、荷を運ぶ兵の列を見ていた。
やがて先頭が止まる。
松明が一本、地面へ差し込まれた。
「ここだ」
低い声が飛ぶ。
昼間、遠くに見えていた場所だった。
すぐ近くには何もない。
ただ暗闇の向こうに、黄巾の陣で焚かれた火がいくつか見えている。
思っていたより近い。
兵たちは杭を下ろし、地面へ打ち始めた。
槌の音までは消せない。
そのため、一か所に大勢を集めず、何人かずつ離れて作業を進めていく。
一本打ち終えると、次の場所へ移る。
少しずつ、杭の列が前へ伸びていった。
劉備も一本を支えた。
隣で張飛が槌を振る。
槌が杭を深く叩き込んだ。
「強すぎるぞ」
「抜けねぇ方がいいだろ」
二度目の槌は、少しだけ弱くなった。
縄が渡される。
関羽が杭の間を結び、その先を別の兵へ回した。
作業は止まらない。
しばらくして、暗闇の向こうで声が上がった。
「動いた!」
全員の手が止まる。
黄巾側の火がいくつか揺れていた。
人影が走る。
十ではない。
昼より多い。
「構えろ!」
弓を持った兵が前へ出た。
張飛が杭を置き、槍へ手を伸ばす。
関羽も前へ出た。
劉備は暗闇を見る。
黄巾兵は近づいてきた。
だが、途中で足を止める。
こちらには松明がある。
その後ろには人影が並んでいる。
何人いるのか、向こうからは分からないはずだった。
しばらく声が飛び交った。
一人が前へ出る。
官軍の弓が上がった。
それ以上は来なかった。
黄巾兵は少しずつ下がり始める。
やがて火の向こうへ消えた。
「追うな!」
誰かが命じた。
兵たちはその場に残る。
張飛が槍から手を離した。
「帰ったぞ」
「見れば分かる」
劉備は杭を起こした。
「続きじゃ」
止まっていた槌の音が、また一つずつ戻ってきた。
夜が深くなる頃には、新しい見張りの位置が決まっていた。
昼まで黄巾が様子を窺っていた道の手前に、官軍の兵が立っている。
劉備は遠くの火を見た。
さらに近くなった。
◇
翌朝。
劉備は兵の幕舎で目を覚ました。
外が騒がしい。
昨夜の作業を終えて戻ったのは、空が白み始める少し前だった。
まだ身体が重い。
隣では張飛が寝たまま眉を寄せている。
関羽はすでに起きていた。
「何かあったか」
劉備が身体を起こす。
「都から使者が来たらしい」
眠気が消えた。
「またか」
幕舎を出る。
中央の道には、昨夜とは違う馬が並んでいた。
泥のついた軍馬ではない。
その側には、朝廷の使者らしい男たちが立っている。
兵たちは遠巻きにしていた。
劉備たちは人の間を抜ける。
盧植の幕舎の前には鄒靖もいた。
盧植は使者と向かい合っている。
手には何も持っていない。
使者の一人が木簡を開いた。
「北中郎将、盧植」
周囲の声が止まる。
「賊将張角を広宗へ追い詰めながら、時を費やし進軍せず。朝廷の命を軽んじ、戦機を逸しているとの報告あり」
劉備の眉が動いた。
昨夜、さらに前へ出たばかりだ。
だが、使者は読み続ける。
「加えて、洛陽において騒擾を起こし、朝廷に仕える者へ手を上げた劉玄徳を軍中に留め、重く咎めることもなく用いているとの報告あり」
劉備の顔が上がった。
「……ワシ?」
張飛もこちらを見る。
関羽は使者へ目を向けたままだった。
使者は木簡を巻く。
「その監督にも疑義あり。よって盧植を北中郎将の任より解き、洛陽へ送還する」
誰も声を出さなかった。
劉備は盧植を見る。
盧植は使者の前に立ったままだった。
「承知した」
それだけだった。
鄒靖が一歩前へ出る。
「盧将軍」
盧植が手で止めた。
「命は命だ」
「しかし――」
「兵を乱すな」
鄒靖の口が閉じる。
盧植は幕舎へ入った。
少しして戻ってくる。
手には印綬があった。
使者へ差し出す。
受け取った男が従者へ渡した。
それだけで終わった。
昨日まで木札を動かしていた手から、将軍の印がなくなった。
周囲の兵は、その場に立ち尽くしていた。
昨夜、一緒に杭を運んでいた兵もいる。
傷を負いながら矢筒を運んでいた者もいた。
劉備の目が、使者の手に渡った印から盧植へ移る。
「先生」
「なんだ」
いつもの声だった。
劉備は口を開いた。
だが、言葉が出る前に、盧植が鄒靖へ向き直った。
「鄒靖」
「はい」
「昨夜進めた北の位置は、できる限り維持してくれ。西も同じだ」
鄒靖は黙って聞いている。
「黄巾が出ても、深追いはするな」
「……承知しました」
使者が少し離れたところで待っている。
盧植はそこでようやく、劉備、関羽、張飛へ一人ずつ確かめるように目を向けた。
「玄徳」
「……なんじゃ」
「余計なことはするなよ」
劉備は黙った。
張飛が劉備を見る。
関羽も何も言わない。
盧植はそれ以上言わず、使者の方へ歩いていった。
幕舎の中には、地図が残っている。
その上には、昨夜動かしたばかりの木札が並んでいた。
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