第二十一話 先生の陣
第二十一話 先生の陣
翌朝。
村を出る頃には、昨日まで街道を埋めていた人影はほとんど消えていた。
道端に残っていた棒や鎌も、兵がまとめて荷車へ積んでいる。
杜遠は別の車に乗せられていた。
両手を縛られ、左右には兵がいる。
劉備が横を通っても、顔を上げなかった。
劉備も声をかけない。
「出るぞ!」
鄒靖の声が飛ぶ。
兵が列を整え、荷車が動き始めた。
関羽が馬を進める。
張飛も続いた。
劉備は一度だけ村を振り返る。
井戸のそばでは、昨日まで黄色い布を巻いていた男が桶を運んでいた。
もう頭には何も巻いていない。
「行くぞ、兄者」
「うむ」
馬首を返した。
◇
冀州へ近づくにつれ、道を行く者が増えていった。
最初にすれ違ったのは、矢を積んだ荷車だった。
次は干し草を運ぶ牛車。
その後ろから、十数人の兵が歩いてくる。
何人かは腕や頭に布を巻いていた。
鄒靖の隊を見ると、道の端へ寄る。
さらに進むと、今度は反対に同じ方角へ向かう兵たちがいた。
旗は違う。
鎧も揃っていない。
だが、向かう先は同じだった。
張飛が辺りを見回す。
「ずいぶん増えてきたな」
「張角の本隊じゃからな」
劉備は前を見る。
「今までとは数が違うんじゃろ」
「先生のところも、こんなにいるのか?」
「もっとじゃろうな」
張飛が横を見る。
「そういや、先生ってどんな人なんだ?」
「厳しいぞ」
返事が早かった。
張飛が少し笑う。
「アニキが言うくらいか」
「どういう意味じゃ」
「そのままだよ」
劉備は眉を寄せたが、すぐ前へ向き直る。
「ワシと伯珪で、よう怒られたものじゃ」
「伯珪?」
「昔の学友じゃ」
「へぇ。それで何したんだよ」
劉備は少し考えた。
「何もしておらんはずなんじゃが、よう怒られたものじゃ」
「……」
張飛が黙った。
関羽は何も言わない。
劉備だけが首を傾げた。
そのまま進む。
昼を過ぎる頃には、道の両側に簡素な野営地まで見え始めた。
兵が鍋を囲み、その向こうでは馬へ水をやっている。折れた槍を膝に挟み、縄で柄を締め直している者もいた。
その間を、伝令が馬で駆け抜けていく。
道の脇では、担架に乗せられた兵が二人、反対方向へ運ばれていた。
張飛の顔から笑いが消える。
「近いな」
「うむ」
さっきまで聞こえていた鳥の声に、人の怒鳴り声や馬のいななき、遠くで何かを打つ音が混じり始めていた。
まだ戦場は見えない。
それでも、空気は変わっていた。
鄒靖が前方を指す。
「見えてきたぞ」
道の先に旗が並んでいた。
一つや二つではない。
柵が伸び、その向こうを兵が行き交っている。
荷車が門を入り、別の車が出てくる。
さらに奥には、いくつもの軍旗が風を受けていた。
劉備が目を細める。
「でかいのう」
「今さら驚くのか?」
張飛が言う。
「昔も大軍は見た」
「じゃあ何だよ」
「久しぶりなんじゃ」
「……そうかよ」
隊列はそのまま門へ近づいた。
門前では兵が行き来する部隊を確認している。
鄒靖が前へ出た。
「涿郡より参った。鄒靖だ」
兵が礼を取り、後ろの隊列を見る。
「軍令は伺っております。中へ」
門が開く。
劉備は馬を進めた。
中へ入った途端、外から見た以上の人の多さが目に入る。
槍を抱えて走る兵とすれ違い、横から馬を引いた男が出てくる。荷を降ろす声が飛び、その向こうでは負傷者を呼ぶ声が重なっていた。
道の真ん中で立ち止まれば、後ろから押されそうだった。
鄒靖が振り返った。
「まず俺が取り次ぐ。勝手に歩くなよ」
その目が劉備で止まる。
劉備も黙って見返した。
鄒靖は兵に案内され、陣の奥へ向かっていく。
残された劉備は周囲を見回した。
学んでいた頃とは、何もかも違っている。
それでも、これから会う男の顔は覚えていた。
「さて」
劉備は小さく息を吐いた。
「先生は、どんな顔をするかのう」
張飛は何も答えなかった。
◇
しばらくして、鄒靖が戻ってきた。
「来い」
それだけ言って、踵を返す。
劉備たちは馬を預け、あとに続いた。
陣の奥へ進むほど、人の動きは少し落ち着いていく。
外では兵や荷車が絶えず行き交っていたが、こちらでは書状を抱えた者が幕舎を出入りし、武官たちが地図を囲んでいた。
鄒靖が一つの幕舎の前で足を止める。
「盧植将軍。連れて参りました」
「入れ」
低い声が返ってきた。
劉備の足が一瞬止まる。
聞き覚えがあった。
昔より少し低くなった気もするが、間違えようがない。
張飛が横を見る。
「どうした?」
「いや」
劉備は幕をくぐった。
中では、一人の男が机の上へ地図を広げていた。
年を重ねている。
だが、鋭い目は記憶の中とほとんど変わらない。
劉備の口元が緩んだ。
「先生、久し――」
ごつん。
「痛っ!」
額を押さえ、その場でしゃがみ込む。
張飛が目を丸くした。
関羽も僅かに眉を動かす。
盧植は手にしていた木簡を机へ置いた。
「洛陽で何をした」
劉備は額をさすりながら立ち上がる。
「何もしておらん」
「……」
盧植が黙った。
その手が、ゆっくり腰へ下がる。
「報告は来ている。洛陽で劉備玄徳なる者が、恐れ多くも高祖様を名乗った挙げ句、宦官を殴って逃亡したとな」
劉備の肩が小さく震えた。
殴られた額をもう一度さする。
張飛が一歩、横へ離れた。
関羽は動かない。
「各所へ手配書と捕縛の命まで回った時は、せめて我が手でと思ったものだが……」
盧植の指が、腰の得物へかかる。
「先生?」
「今からでも遅くはない」
「盧植将軍」
鄒靖が間へ入った。
劉備はすぐその背後へ回る。
「今は私の預かりです」
「預かり?」
「洛陽の件を赦したわけではありません。戦働きを見た上で、上へ報告することになっています」
盧植はしばらく鄒靖を見た。
やがて、得物から手を離す。
「……話は分かった」
劉備の肩から力が抜けた。
盧植は何も言わず、今度は鄒靖へ視線を向ける。
「鄒靖殿」
「は」
「道中、苦労をしておらんか?」
鄒靖は一瞬だけ劉備を見た。
「……変わった考えが、役に立つこともあります」
盧植の眉が僅かに上がる。
劉備は黙っていた。
「ほう」
盧植は机の前へ戻った。
「では、聞こう」
鄒靖は道中の戦働きと、村で起きた一件を手短に報告した。
盧植は途中で口を挟まない。
聞き終えると、地図へ視線を落とした。
「人を集め、官軍の目を引いたか」
「そう見ています」
鄒靖が答える。
盧植が劉備へ目を向けた。
「玄徳」
「なんじゃ」
「なぜ、そう思った」
劉備は少しだけ考える。
「集めた連中を、勝たせる気がなかったからじゃ」
盧植の目が細くなる。
「ほう」
「戦わせたいなら、もっとマシな兵にする。じゃが、あれは違った」
それ以上は言わなかった。
盧植も続きを求めない。
「昔から、お前は妙なところを見る」
劉備の眉が少し上がった。
盧植はもう地図へ視線を戻していた。
「その見立ては覚えておこう」
盧植の指が、地図の一点へ移る。
「では、今度はこちらの話だ」
劉備たちも地図へ目を向けた。
「張角の本隊は、この一帯に陣を構えている」
指先が広宗の周辺で止まる。
「数はこちらより多い。だが、厄介なのはそこではない」
盧植が顔を上げた。
「押せば散る連中ではない」
劉備は地図を見る。
「何が違う?」
「張角のもとに、自分から集まった者が多い」
盧植の指が地図を軽く叩く。
「各地で流れ込んだ者たちより、まとまりがある」
「なるほどのう」
劉備はもう一度、広宗の周辺へ目を落とした。
盧植は別の場所へ指を移す。
「正面は固い。こちらは周囲の道を押さえ、出入りを削っている」
鄒靖が地図へ近づく。
「我々はどこへ?」
「西側だ」
盧植の指が、一本の道をなぞる。
「本隊へ物資を運ぶ道がある。黄巾もそこを使っている。完全に塞げとは言わん。まず、どれだけ動いているか見ろ」
「偵察ですか」
「それだけではない」
盧植は鄒靖を見る。
「敵が出れば退け。無理に追うな。道を押さえることを優先しろ」
「承知しました」
「それと――」
盧植の視線が劉備へ移る。
「敵でない者まで敵にするな」
劉備はすぐに頷いた。
「分かっとる」
「ならいい」
盧植は地図へ目を戻す。
「今日は陣を見ておけ。明朝、西へ出てもらう」
鄒靖が礼を取った。
「玄徳」
「なんじゃ」
「勝手なことはするな」
劉備は口を開きかけた。
盧植が見る。
閉じた。
◇
幕舎を出ると、外の空気が少し冷えていた。
日が沈みかけている。
兵たちはまだ動いていた。
水桶を担いで走る者の横を、矢を積んだ荷車が通る。
柵の近くでは、馬を引く兵が何度も往復していた。
張飛が大きく息を吐く。
「すげぇ先生だな」
「じゃろ」
「殴られてたけどな」
劉備は黙って額をさすった。
鄒靖が先を歩いたまま言う。
「遊んでいる暇があるなら、陣を見ておけ」
振り返りもしない。
劉備たちはそのまま後を追った。
陣の西側へ向かう途中、兵が柵の一部を開けている場所を通った。
外から二台の荷車が入ってくる。
袋を積んだ一台はそのまま奥へ回され、もう一台は止められた。
兵が荷台へ上がり、縄を外して中身を確かめている。
「毎回見るのか?」
張飛が足を緩めた。
「ここまで来ればな」
鄒靖は歩いたまま答える。
「黄巾の陣も近い。人も荷も、そのまま通すわけにはいかん」
確認を終えた荷車が再び動き出した。
反対側からは、空になった車が三台続けて出ていく。
その先では、柵の外に出る兵へ矢が配られていた。
関羽が足を止めずに目だけを向ける。
「夜も見張るのか」
「交代でな。向こうも同じだ」
鄒靖が先を示す。
「明日は、あれより外へ出る」
張飛の顔つきが変わった。
劉備も、さっきまでさすっていた額から手を離す。
陣の外へ出れば、もう盧植の柵はない。
今まで歩いてきた街道とも違う。
張角の本隊が動く道を、こちらから見に行くことになる。
やがて地面が少し高くなった。
柵沿いに土が盛られ、その上へ見張りの兵が立っている。
鄒靖はそこへ続く短い坂を上った。
「こっちだ」
劉備たちも続く。
上へ出ると、視界が一気に開けた。
西へ伸びる道が見える。
途中で林の影へ入り、その先で二つに分かれていた。
片方は北へ。
もう一方は、遠くの黄色い旗へ続いている。
「明日はあの辺りまで出る」
鄒靖が道の分かれ目を指した。
「林の手前に兵を置く。向こうの動きを見ながら、道を使わせにくくする」
「塞がんのか?」
張飛が聞く。
「最初から塞げば、向こうも兵を出す。こちらはまだ相手の動きを掴んでいない」
劉備が道を眺める。
「道だけ欲しいわけではないんじゃな」
「そうだ」
鄒靖が頷いた。
「何が、どれだけ、どの時間に動くか。それを先に見る」
劉備は林と分かれ道を交互に見た。
「なるほどのう」
すぐ突っ込めばいいというものではない。
相手が大きくなれば、その分だけ見なければならないものも増える。
鄒靖が再び歩き出した。
「まだ先がある」
陣の西側へ向かうにつれ、柵の向こうが見える場所が増えていく。
やがて足を止めた。
「見えるか」
劉備たちも並ぶ。
遠くに、もう一つの陣があった。
こちらほど整ってはいない。
だが、広い。
黄色い旗が何本も立ち、その間を人が動いている。
夕暮れの中でも、人の多さだけは分かった。
張飛が目を凝らす。
「あれ全部、黄巾か?」
「全部ではないだろう」
鄒靖が答える。
「だが、中心はそうだ」
劉備はしばらく黙っていた。
これまで見てきた黄巾とは違う。
遠く離れていても、あの陣だけは一つの意志で動いているように見えた。
「張角は、あそこか」
「いると見ていい」
鄒靖が言う。
劉備は黄色い旗を見た。
漢を倒そうとしている者たち。
その中心にいる男。
避けては通れない。
関羽が隣へ立つ。
「兄者」
「うむ」
張飛も反対側へ並んだ。
「明日からだな」
「そうじゃな」
劉備は腰の名もない剣へ手を置いた。
遠くで角笛が鳴った。
黄巾の陣からだった。
少し遅れて、こちらの陣でも鐘が鳴る。
柵の下にいた兵が持ち場へ走り、見張りの一人が旗を振る。
さっきまで荷を運んでいた者たちも道の端へ寄り、外へ出ていた兵が数人ずつ戻ってきた。
劉備はその動きを目で追った。
誰かが怒鳴らなくても、それぞれが自分の場所へ動いていく。
大きな軍は、それだけで一つの生き物のようだった。
鄒靖もそちらを見る。
「戻るぞ」
劉備は最後に一度だけ、遠くの黄色い旗を見た。
「張角か」
しばらく目を離さない。
「話せる相手なら、一度話してみたいものじゃな」
張飛が横を見る。
劉備はもう歩き出していた。
背後では、黄巾の旗が夕闇の中へ沈み始めていた。
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