第十九話 広がる噂
第十九話 広がる噂
村へ戻ると、入口から騒がしかった。
兵が二人、街道の先を見張っている。
村人たちは家の前へ出ていた。
荷を運ぶ者。
戸を閉める者。
子供の手を引いて家へ入れる者。
劉備が足を止める。
「何があった」
先に戻っていた官兵が駆け寄った。
「東の集まりが動き始めています」
鄒靖の表情が変わる。
「どちらへ」
「ばらばらです。西へ戻る者もいれば、南へ向かう者も」
「何人だ」
「まだ分かりません。ただ……」
兵が一度、村の外を見る。
「武器を持ち出した者がいます」
張飛の顔つきが変わった。
「何で急に」
「官軍が来る、と」
劉備が眉を寄せる。
「来とるじゃろ。ワシらがおる」
「違います」
兵が首を振った。
「大勢で攻めてくる。集まっている者を残らず討つ、と」
鄒靖がすぐに聞く。
「見張りは何を見た」
「兵の姿は確認していません。戻った時には、もう話が広がっていたそうです」
劉備は黙った。
今朝まで、そんな話はなかった。
「……妙じゃな」
関羽が劉備を見る。
「何がだ」
「早すぎる」
劉備は街道の東を見る。
「ワシらが何かしたならまだ分かる。何もしとらんのに、向こうだけ先に騒いどる」
鄒靖も同じ方を見る。
「妙だな」
「うむ」
劉備はすぐに歩き出した。
「とにかく行くぞ」
◇
村の東へ出ると、人が流れてきていた。
一人。
二人。
その後ろから、さらに何人も。
黄色い布を巻いた者。
何も巻いていない者。
老人。
女。
若い男。
手には荷物。
背負えるだけ背負っている者もいる。
その中に、棒を持った男がいた。
少し離れて、錆びた剣を腰に差した者もいる。
張飛が前へ出かける。
鄒靖が手で止めた。
「待て」
張飛が足を止める。
流れてきた者たちが官兵を見つけた。
一人が後ずさる。
「来たぞ」
その声だけで空気が変わった。
「やっぱり来た!」
「逃げろ!」
「村へ入れ!」
人が一斉に動く。
「落ち着け!」
鄒靖が声を張る。
「こちらからは手を出さん!」
聞く者もいれば、聞かない者もいる。
子供を抱いた女が道の端へ寄る。
老人が転びかける。
棒を持った男が前へ出た。
「近づくな!」
張飛がその場で止まる。
「こっちも近づいてねぇ!」
「嘘つけ! 皆殺しにする気だろ!」
その後ろから声が飛ぶ。
「違う! 黄色い布を巻いた奴だけだって聞いた!」
「村ごと焼くって話だろ!」
「東から何百人も来るんじゃなかったのか!」
「もうすぐ囲まれるって!」
誰かが否定する。
別の誰かが、さらに大きな話を重ねる。
話はばらばらだった。
それでも、人の流れだけは同じだった。
劉備は目を細める。
さらに東から人が走ってきた。
「来るぞ!」
一人の若者が叫ぶ。
「官軍が向こうから来る!」
鄒靖が振り返る。
「見たのか!」
「見てねぇ!」
「では何を――」
「向こうで皆が言ってたんだ!」
若者は息を切らしながら続ける。
「兵が来るって奴もいた! 黄色い布を巻いてる奴は殺されるって奴も! 村まで焼くって奴もいた!」
鄒靖が口を閉じた。
若者はそのまま西へ走ろうとする。
劉備が腕を掴んだ。
「待て」
「離せ!」
「落ち着け。聞くだけじゃ」
「殺される!」
「誰にじゃ」
「官軍に決まってるだろ!」
劉備は鄒靖を指した。
「こいつ官軍じゃぞ」
若者が鄒靖を見る。
「お主に何もしとらんじゃろ」
鄒靖は深く息を吐いた。
「誰も殺さん。まず落ち着け」
「でも……」
「お主自身は兵を見たんか」
「……見てねぇ」
「なら、今見たものだけ信じろ」
若者は何も言わなかった。
肩だけが大きく上下している。
劉備は腕を放した。
若者はしばらくその場に立っていたが、やがて西へ歩き出した。
今度は走らなかった。
街道の向こうから、まだ人が来る。
だが全員が逃げているわけではない。
逆に東へ戻ろうとする者もいた。
棒。
鎌。
古い剣。
手にしているものはばらばらだ。
張飛が目を細める。
「あいつらは?」
一人が叫ぶ。
「先にやるぞ!」
周囲の何人かが足を止めた。
「官軍が来る前に、道を塞ぐ!」
「武器持て!」
「逃げたって追われるぞ!」
さっきまで西へ向かっていた男が立ち止まる。
その隣の若者も振り返った。
恐怖で逃げていた人間が、少しずつ東へ目を向け始める。
鄒靖の顔つきが変わった。
「止めるぞ」
劉備も頷いた。
逃げるだけだった者へ、誰かが別の道を示している。
逃げるな。
集まれ。
先に戦え。
その中で、また声が上がった。
「東へ戻れ! まだ間に合う!」
劉備が振り向く。
人の間を、一人の男が歩いていた。
黄色い布は巻いていない。
武器も持っていない。
だが、逃げる者とは逆の方向へ進みながら、周囲へ声をかけている。
「散るな! 固まれ!」
男が腕を上げる。
「官軍が来るぞ! ばらばらになったら終わりだ!」
怯えた者が次々と足を止める。
男の周りへ視線が集まっていく。
劉備の目が止まった。
今までの者とは違う。
逃げていない。
迷ってもいない。
人を動かしていた。
◇
「道を塞げ!」
男の声に、何人かが動いた。
街道脇に積まれていた薪へ手を伸ばす。
一人が抱え上げると、別の男も続いた。
「待て!」
鄒靖が声を張る。
だが、足を止めない。
「塞がなきゃ入ってくるぞ!」
「荷車も持ってこい!」
道の端に置かれていた空の荷車へ二人が駆け寄る。
張飛が前へ出た。
「おい!」
荷車の前へ立つ。
二人が止まった。
「退け!」
「嫌だ」
「官軍を入れる気か!」
「勝手に持ってくな!」
張飛が荷車を背にする。
少し離れたところで、村人が何度も頷いていた。
二人は舌打ちすると、別の物を探すように周囲を見回した。
街道の真ん中では、人の流れがぶつかり始めていた。
西へ逃げたい者。
東へ戻ろうとする者。
その場に留まる者。
「どけ!」
「そっちへ行くな!」
「子供がいるんだ!」
肩がぶつかる。
荷が落ちる。
地面へ転がった袋を拾おうとした老人の横を、男が駆け抜けた。
関羽が腕を伸ばす。
老人の襟を掴み、そのまま引き上げた。
「道の端へ」
「す、すまん」
落ちた袋も拾って渡す。
その横を、また何人かが東へ走っていった。
「兄者」
「分かっとる」
劉備は人の流れを見る。
数が多い。
一人ずつ止めていては間に合わない。
その時だった。
「官軍がもうそこまで来てるぞ!」
また、あの男の声が飛んだ。
人々が振り返る。
「武器を持て! 今ならまだ間に合う!」
止まりかけた者が、再び周囲を見回す。
「逃げても追われるぞ!」
今度は別の場所から声が上がった。
西へ向かっていた何人かが足を止める。
あの男がすぐに続けた。
「そうだ! 散るな! 固まれ!」
止まりかけた流れが、また東へ動き出す。
劉備は男から目を離さなかった。
東へ向かう者たちの先へ、関羽が回り込んだ。
青龍偃月刀の石突を地面へつく。
先頭が足を止めた。
「どけ!」
「通さん」
「官軍が来るんだぞ!」
関羽は動かない。
「だから道を塞ぐんだ!」
後ろから押され、先頭の男がよろめく。
関羽が片手を出して支えた。
「押すな!」
今度は群衆の後ろから声が飛んだ。
「立ち止まるな! 東へ行け!」
劉備が振り向く。
別の男がいた。
黄色い布は巻いていない。
人の背を押しながら、前へ進ませている。
あの男もそちらを見る。
一瞬だけ目が合った。
それだけだった。
だが、次の声は早かった。
「南へ行くな!」
新しく現れた男が叫ぶ。
「そっちはもう官軍が回ってる!」
南へ抜けようとしていた者たちが止まる。
「ならどこへ行けばいい!」
「東だ!」
あの男が答えた。
「東へ戻れ! 固まって動け!」
人の流れが変わった。
ばらばらに逃げようとしていた者たちが、少しずつ東へ押し戻されていく。
鄒靖がそれを見て、低く言った。
「……揃いすぎているな」
「うむ」
離れた場所から、また声が上がった。
劉備が関羽と張飛を見る。
「雲長」
「うむ」
「翼徳」
「おう」
二人が動く。
関羽は東へ押し込まれかけていた人の前へ立つ。
張飛は荷車の横から回り込み、南へ抜けようとする者たちと煽る男の間へ入った。
「そこを退け!」
「通さねぇ」
男が脇へ回ろうとする。
張飛も同じ方へ動く。
反対へ回る。
また塞ぐ。
「邪魔すんな!」
「行かせねぇ」
男の顔が引きつった。
その間に、南へ向かう者が少しずつ抜けていく。
劉備は最初の男へ歩いた。
「お主ら、ずいぶん息が合っとるのう」
「何の話だ」
「さあのう」
劉備は足を止める。
さらに遠くから、
「散るな!」
声が上がる。
劉備はそちらを見る。
黄色い布も巻かず、武器も持たない男がもう一人いた。
群衆に紛れ、離れた場所から人を東へ押し戻している。
鄒靖も気づいた。
「捕らえるか」
劉備は少しだけ考えた。
その間にも、最初の男が後ずさる。
視線が街道の東へ向いた。
劉備が笑う。
「逃げるなら、今じゃぞ」
男の目が見開かれた。
次の瞬間、踵を返した。
男が走り出す。
鄒靖が一歩出た。
「追うぞ」
「待て」
劉備が止めた。
「逃がすのか」
「少し見よう」
男は人の間を抜け、東へ走る。
振り返らない。
「雲長」
「うむ」
「近づきすぎるな」
関羽が頷いた。
劉備たちはその場を離れない。
◇
最初の男が消えたことで、声が一つ減った。
「東へ戻れ!」
別の男が叫ぶ。
だが、さっきまでの勢いはない。
「本当に官軍が来るのか?」
「誰か見たのか?」
「今の奴、逃げたぞ」
ざわめきの向きが変わり始める。
張飛が道の脇へ寄った。
「帰りてぇ奴は帰れ!」
何人かが張飛を見る。
「止めねぇのか?」
「何で止めるんだよ」
一人が南へ歩き出す。
続いて二人。
東へ押し戻されていた者の中からも、少しずつ人が離れていく。
鄒靖が兵へ声を飛ばした。
「道を空けろ! 武器を振るわぬ者には手を出すな!」
兵たちが左右へ散る。
人の間に道ができた。
子供を抱いた女がそこを通る。
老人も続いた。
劉備は東を見る。
逃げた男の背が、街道脇の林へ近づいていた。
男が林の手前で止まった。
一人の男が立っていた。
年は四十前後。
黄色い布はない。
武器も持っていない。
逃げてきた男が何かを言う。
距離があり、声までは聞こえない。
相手は一度だけこちらを見た。
すぐに周囲へ目を走らせる。
腕を上げた。
「引け!」
声が届いた。
街道のあちこちで動きが起きた。
さっきまで叫んでいた男が人混みから離れる。
南を塞いでいた男も後ずさった。
さらに別の場所でも、一人が踵を返す。
鄒靖が林際の男を見る。
「あれがまとめているのか」
「少なくとも、あいつらは聞いたのう」
劉備が歩き出す。
◇
林際の男も背を向けた。
「待て!」
鄒靖の声が飛ぶ。
男は止まらない。
関羽が横から回り込む。
青龍偃月刀の石突が地面へ落ちた。
「そこまでだ」
男が足を止める。
逃げてきた男が脇へ走ろうとする。
張飛が回り込んだ。
「お前もだ」
二人の動きが止まった。
その時、街道の向こうから声が飛んだ。
「杜遠! 何してる!」
振り向くと、散った男の一人が林の奥へ走っていくところだった。
林際の男が舌打ちする。
劉備が首を傾げた。
「杜遠というのか」
返事はない。
鄒靖が前へ出る。
「連れていく」
杜遠が睨み返した。
「俺を捕らえても、何も変わらん」
「そうかもしれんのう」
劉備は周囲を見る。
散っていった男たち。
まだ残っている人々。
そして杜遠。
「じゃが、今はこれでええ」
杜遠が眉を寄せる。
「人を煽る声は減った」
それだけ言うと、劉備は背を向けた。
街道では、叫ぶ声が減るにつれて人の流れも止まっていった。
「本当に来ないのか?」
一人が聞いた。
鄒靖が答える。
「少なくとも、ここにいる兵はお前たちを討たん」
男はしばらく立っていたが、やがて武器を下ろした。
それを見て、別の者も鎌を下げる。
張飛が息を吐く。
「やっと静かになったな」
「まだじゃ」
劉備は兵に囲まれた杜遠を見る。
「こいつが全部決めとったわけではなさそうじゃ」
鄒靖が頷く。
「連れて戻る」
「うむ」
杜遠が歩かされる。
劉備はもう見ていなかった。
杜遠が一度だけ振り返った。
劉備はもう前を見ていた。
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