第十五話 集まった先
第十五話 集まった先
翌朝。
斥候が戻ってきたのは、兵たちが荷をまとめ始めた頃だった。
「いました」
馬を降りた兵が、鄒靖の前で息を整える。
「どれくらいだ」
「……数えられませんでした」
周囲の手が止まった。
鄒靖が眉を寄せる。
「軍勢か?」
兵はすぐには答えなかった。
「武器を持った者もいます。ですが、老人や子供もいました。荷を背負った者も、何も持っていない者も」
少し息を継ぐ。
「黄色い布を巻いていない者もかなりいます」
「場所は」
「ここから東へ半刻ほどです。街道の先に開けた土地があります。その周りに」
兵が一度言葉を切った。
「人が集まっています」
昨日から続いていた足跡。
村を通り過ぎていった者たち。
ようやく、その行き先が見えた。
鄒靖は少し考えたあと、後方を振り返る。
「荷車はここに残す」
官兵へ指示を出す。
「俺が先を見る。二十人ついてこい」
劉備は立ち上がった。
「ワシらも行く」
鄒靖がこちらを見る。
「勝手に近づくなよ」
「分かっとる」
劉備たちも後に続いた。
◇
街道を進むにつれ、人の痕跡はさらに増えた。
踏み固められた土。
捨てられた縄。
割れた木椀。
道の端には、夜を越したらしい焚き火の跡も残っている。
だが、人影は少ない。
「昨日はあれだけ歩いとったのにな」
「もう先へ着いたんだろう」
関羽が答える。
しばらく進むと、斥候が手を上げた。
「この先です」
街道が緩やかな坂へ入る。
馬を降り、歩いて上った。
先頭の鄒靖が足を止める。
劉備もその隣まで進み、坂の向こうを見た。
「……ほう」
思わず声が漏れた。
開けた土地いっぱいに、人がいた。
百や二百ではない。
地面に座る者。
荷を抱えて歩く者。
子供の手を引く者。
木陰で横になる者。
黄色い布を頭に巻いた男の隣で、何もつけていない老婆が飯を食べている。
武器を抱えた男の足元では、子供が丸くなって眠っていた。
少し離れた場所には、槍を持った者たちが固まっている。
だが、誰も同じ方を向いてはいない。
遠くの道から、新たな一団が歩いてくる。
十人ほど。
その後ろにも人影があった。
「まだ増えとるな」
張飛が呟く。
下では誰かが声を張り上げている。
「並べ! 押すな!」
人の流れが少し動いた。
大きな鍋の前に列ができている。
椀を持つ者。
両手だけ差し出す者。
泣いている子供を抱いた女へ、先に食べ物を渡す者もいた。
劉備は目を細めた。
噂だけではなかった。
「誰が出しとる?」
斥候は鍋の周囲へ目を向けた。
鄒靖も目を凝らす。
「近づくぞ」
「攻めるのか?」
張飛が聞く。
「まだだ」
鄒靖は坂の下を見る。
「これだけ民が混じっている。いきなり兵を入れれば何が起きるか分からん」
馬の手綱を引き、ゆっくり坂を下り始める。
劉備も続いた。
近づくほど、人の声が重なって聞こえてくる。
腹が減った。
水はどこだ。
ここにいれば大丈夫だ。
もう少し待て。
誰かが押した。
子供が泣いた。
その騒ぎの中を、一人の男が歩いていた。
列から外れた子供を母親のところへ戻す。
空になった桶を指し、別の男へ何かを伝える。
揉め始めた二人の間へ入り、片方を列の後ろへ戻した。
大声で命令しているわけではない。
それでも、周囲は男の言葉を聞いて動いていた。
劉備は足を止める。
「……あいつ、仕切っとるな」
鄒靖も男へ目を向けた。
その時。
列の向こうで、誰かがこちらを指した。
「官軍だ!」
声が広がる。
ざわめきが変わった。
立ち上がる者。
武器へ手を伸ばす者。
子供を抱き寄せる者。
逃げようとする者。
鄒靖が兵へ手を上げた。
「抜くな!」
官兵たちが止まる。
群衆の中では、何人かが声を荒らげていた。
「逃げろ!」
「待て、どこへ行く!」
「向こうもまだ抜いてない!」
先ほどの男が振り返る。
近くにいた二人と言葉を交わした。
一人が首を横に振る。
もう一人が官軍を見る。
男は少しだけ黙った。
やがて武器を持っていないことを確かめるように両手を上げ、そのままこちらへ歩いてくる。
十歩ほど手前で足を止めた。
「官軍の方々ですね」
鄒靖は答えず、男を見る。
「話がしたい」
男はそう言った。
◇
背後では、まだざわめきが続いている。
武器へ手を伸ばした者も、そのままこちらを見ていた。
鄒靖が一歩前へ出る。
「お前がここの頭か」
「違います」
答えは早かった。
「じゃあ、なぜ出てきた」
男は一度だけ後ろを見る。
「他に来る奴がいなかったからです」
劉備が群衆へ目をやる。
確かに、こちらへ近づこうとする者はいない。
むしろ距離を取っている。
「名前は」
「陳景です」
男――陳景は両手を下ろさないまま答えた。
「黄巾か?」
「違います」
少し黙る。
「俺みたいなのもいれば、黄巾に入った奴もいる。家族について来ただけの奴もいる。飯があるって聞いて来た奴も」
視線を群衆へ向ける。
「ここに来れば追われないって聞いた奴もいます」
昨日の男と同じだった。
言葉は違っても、聞いてきた話は似ている。
「誰が集めた」
鄒靖が聞く。
「俺が来た時は数十人くらいでした。そこへ別の連中が来て、その次の日にはまた増えた」
話している間にも、遠くの道から五人ほど歩いてくる。
そのうち二人が黄色い布を巻いていた。
「誰かが集めたっていうより、勝手に増えていったんです」
「追い返さなかったのか」
陳景が鄒靖を見る。
「俺が追い返せる立場でもないでしょう」
「近くの村は困っている」
その言葉に、陳景の表情が止まった。
「……やっぱりですか」
「昨日通った村では、食料も水も減っている」
陳景は振り返る。
群衆の中にある荷物や鍋へ目を向けた。
「ここへ来る途中で取った奴もいると思います」
「ここでは?」
「勝手に奪うのは禁止にしてます」
「お前が決めたのか?」
「何人かでです」
劉備は黙って聞いていた。
頭ではないと言う。
それでも、ここにいる者たちは陳景の言葉を聞いている。
役目が先にできて、立場があとからついてきたように見えた。
「飯は?」
劉備が口を挟む。
「あれだけの人数に配っとる。持ち寄っただけじゃ足りんじゃろ」
陳景は頷いた。
「今朝、荷車が三台来ました。米と粟、それに干した豆を置いて、そのまま東へ戻っていった」
「銭は?」
陳景の眉がわずかに動く。
「取られてません」
劉備は鍋の方を見る。
大勢へ配るだけの食料を運び、代金も取らない。
張飛も同じ方を見ていた。
「随分と気前のいい奴がいるもんだな」
誰も続かなかった。
「何か言っとらんかったか」
陳景は記憶を探るように目を伏せる。
「散らばるな。飯はまた持ってくる、と」
鄒靖の表情が変わった。
「次はいつ来る」
「今夜か、遅くても明日の朝には来るって言ってました」
風が通り抜ける。
群衆の中で、鍋の蓋が鳴った。
劉備は東へ続く道を見る。
ただ飯を置いていっただけではない。
散らばるな。
飯はまた持ってくる。
そこには、誰かの意図がある。
隣で、鄒靖も同じ方角を見ていた。
陳景が二人を見比べる。
「……何かあるんですか」
「まだ分からん」
鄒靖はそう答えた。
だが、すぐに引き返す様子はなかった。
東へ続く街道の先には、今も新しい人影が現れていた。
◇
鄒靖はしばらく動かなかった。
やがて陳景へ向き直る。
「ここにいる連中へ伝えろ」
陳景の肩がわずかに強張る。
「官軍は、今すぐここへ踏み込まない」
背後のざわめきが少し弱まった。
「ただし、武器を持って村へ向かう者がいれば止める。近隣から食料を奪うのも認めん」
陳景は黙って聞いている。
「できるか」
「全員を止められるとは言えません」
「それでいい」
鄒靖は群衆を見る。
「止めようとする者がいるだけでも違う」
陳景は少しだけ目を見開いた。
それから頷く。
「伝えます」
背を向け、群衆へ戻っていく。
途中で何人かに呼び止められた。
陳景が何かを話すと、一人がこちらを見た。
別の者も続く。
すぐに安心した様子にはならない。
それでも、武器へ手をかけていた者の何人かは腕を下ろした。
鄒靖は東の道へ目を戻す。
「今ここで散らせば、近くの村へ流れるだけだ」
張飛もそちらを見る。
昨日の村が頭に浮かんだのか、それ以上は言わなかった。
「荷を運んできた連中を待つつもりか」
関羽が聞く。
「ああ」
鄒靖は短く答えた。
「少なくとも、そいつらは何か知っている」
劉備は群衆の中央を見る。
鍋の前では、また列が動き始めていた。
先ほどまで泣いていた子供が、椀を両手で抱えている。
武器を持った男が、自分の順番を一つ後ろへ譲った。
ここにいる全員が、戦いたくて集まったわけではない。
だからといって、このまま放っておけばいいわけでもない。
「……面倒じゃな」
誰も返さなかった。
◇
いったん村へ戻ると、鄒靖は兵を分けた。
群衆を見る者。
東の道を張る者。
村の周囲へ残る者。
荷車はそのまま動かさない。
「夜まで来なかったら?」
官兵の一人が聞く。
「明日の朝まで待つ」
「それでも来なければ」
「その時は東へ探りを出す」
指示を受けた兵たちが散っていく。
劉備たちは村の外れへ戻った。
昨日の黄巾の男は、まだ木の下にいた。
置かれていた椀は空になっている。
こちらを見ると、少しだけ身体を起こした。
「見てきたのか」
「ああ」
「飯は?」
「あった」
男の顔が止まった。
「本当に?」
「ああ」
しばらく何も言わない。
やがて木へ背を戻した。
「そうか」
それだけだった。
少し離れた場所では、例の老人が縄を束ねていた。
男を見ることもなく作業を続けている。
◇
夕方が近づくにつれ、村の外を通る人影は減っていった。
代わりに、東へ向かった斥候が何度か戻ってくる。
「まだです」
「分かった」
鄒靖はそれだけ答えた。
二度目も同じ。
三度目も、荷車は現れなかった。
空が赤く染まり始める。
張飛が座ったまま槍を膝へ置いた。
「来ねぇな」
「まだ日が落ちたわけではない」
関羽が答える。
劉備は荷車のそばで干し飯を齧っていた。
「もう少しましなもんはないんか」
近くの兵が振り返る。
「兵糧に何を求めてる」
劉備は袋の中を見る。
「昨日もこれじゃったぞ」
兵は返事をしなかった。
その時だった。
街道の先から馬の蹄が聞こえた。
全員の視線が向く。
一騎。
東へ出ていた斥候だった。
馬を急がせ、村へ入ってくる。
「来ました!」
鄒靖が立ち上がる。
「荷車か」
「はい!」
斥候が馬から降りる。
「三台です。昨日と同じ道を通って、こちらへ向かっています」
兵たちが動き始めた。
「人数は」
「護衛らしい者が六人。御者を合わせても十人ほどです」
鄒靖はすぐに指示を飛ばす。
「道を塞ぐな。隠れて見ろ」
官兵たちが頷く。
「群衆側にも知らせるな。いつも通り入ってくるか確かめる」
劉備は残っていた干し飯を口へ放り込んだ。
「行くぞ」
張飛が立ち上がる。
「今度は勝手に近づくなよ」
鄒靖がこちらを見る。
劉備は片手を上げた。
「分かっとる」
街道の向こうでは、日が沈みかけていた。
その薄暗がりの中を、三台の荷車がこちらへ近づいていた。
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