第十四話 この先に
第十四話 この先に
倒木を片づけ終えた頃には、日が傾き始めていた。
荷車の車輪を確かめ、崩れた荷を積み直す。
武器を置いた黄巾たちは官兵にまとめられ、その場に残る兵へ引き渡された。
「進むぞ」
鄒靖の声で、列が再び動き始める。
街道を北東へ。
足跡は途切れなかった。
むしろ進むほど増えていく。
道端には片方だけの草履や、燃え残った薪が落ちていた。
「増えとるな」
足元を見る。
「さっきの連中だけではないようだ」
関羽がしゃがみ、土に残った跡へ指を添える。
「新しいものもある」
「先を歩いとるか」
「ああ」
張飛が街道の先を見る。
「今度は何を聞いて来た連中だろうな」
「それが分かれば苦労せん」
「そりゃそうか」
そのまま前を見る。
「村だ」
◇
村へ入ると、視線が集まった。
歓迎とは程遠い。
鍬を手にした男。
戸口からこちらを窺う女。
井戸のそばで桶を抱えた老人。
官軍の旗に気づいた途端、家の中へ入る者までいた。
「また来たぞ」
誰かが言った。
「黄色い布じゃない」
「官軍だ」
「……どっちでもいい。飯はもうないぞ」
「……」
「昨日からずっとだ。水をくれ、飯をくれ、休ませろってな!」
「何人来た」
鄒靖が聞く。
「分からん」
「だいたいでいい」
「数えてられるか」
男は街道を指した。
「朝からずっとだ。来たと思ったら、また次が来る」
「襲われたのか?」
「いや」
答えはすぐだった。
「勝手に畑へ入った奴はいた。食い物を寄越せって騒いだ奴もいた。でも、何もせず通った奴の方が多い」
「どこへ」
「東だ」
「何がある」
「こっちが聞きたい」
吐き捨てるように言う。
「行けば食えるだの、仲間がいるだの言ってるが、こっちは水も飯も減る一方だ」
後ろから老婆が口を挟んだ。
「井戸だって一日中汲みっぱなしだよ」
手にした桶は空だった。
「昨日の夕方から、休む暇もありゃしない」
男が振り返る。
「婆さん、もういい」
「何がいいんだい。畑の菜まで抜かれてるんだよ」
「全部じゃない」
「一つでも抜かれりゃ同じだよ」
言い返せず、男が口を閉じる。
鄒靖は村の中を見回した。
道の端には潰れた藁。
軒先には空になった籠。
家の前に積まれていた薪も、ところどころ抜けている。
「官軍の方々も泊まるつもりか」
別の男が言った。
声に敵意はない。
ただ、疲れていた。
「まだ決めていない」
鄒靖が答える。
「なら、決める前に言っておく」
男が井戸を見る。
「水は出す。だが、飯はもう出せん」
鄒靖はすぐには答えなかった。
「こちらの兵糧を使う。村から取るな」
後方へ声を飛ばす。
「井戸も必要な分だけだ。馬に飲ませたら桶を戻せ」
官兵が頷いた。
それを聞いても、村人たちの表情は緩まない。
何度も同じような約束を聞いたのかもしれない。
「……ここに残りたいって奴もいた」
先ほどの男が言った。
「残る?」
「帰れないんだと」
声が少し低くなる。
「黄巾に加わった。村にも戻れない。行く場所もないって」
「置いたのか?」
「置けるわけないだろ」
即答だった。
「こっちだって食うだけで精いっぱいだ」
誰もすぐには返さなかった。
村の奥では、井戸の縄がまた軋んだ。
◇
井戸では、官兵と義勇兵が順番に水を汲んでいた。
馬へ飲ませる分。
兵が飲む分。
空になった桶を戻すたび、縄が井戸の縁を擦る。
義勇兵の一人が桶を持ち上げ、顔をしかめた。
「重いな……」
「貸せ」
横から張飛が取る。
「いや、俺が――」
「さっきから荷を運んでただろ」
返事を待たず、そのまま歩いていく。
馬の前へ桶を置き、水を飲ませる。
戻ってくる途中、井戸のそばにいた老人と目が合った。
老人は何も言わない。
張飛も何も言わなかった。
空の桶を井戸へ戻す。
「これ以上、人が増えたら村の方が先にもたん」
老人が呟いた。
張飛は黙って桶から手を離した。
鄒靖の命令通り、兵糧は荷車から出されていた。
村の食料へ手を伸ばす者はいない。
それでも戸口から覗く視線は消えなかった。
劉備は井戸の脇に積まれた空桶を見る。
黄巾が来る。
官軍が来る。
どちらが来ても、井戸の水は減る。
考えたところで、今すぐどうにかできる話ではない。
少なくとも、自分たちまで同じことをする必要はなかった。
「おい!」
村の外から声が飛んだ。
少年が街道を駆けてくる。
「またいる!」
鄒靖が振り返る。
「何人だ」
「一人!」
「武器は?」
「持ってない!」
鄒靖は官兵を二人呼んだ。
「見に行く」
劉備たちもその後に続く。
◇
男は村の東外れにいた。
街道脇の土手に腰を下ろしている。
首には黄色い布。
足元には小さな袋が一つ。
口は開いていたが、中に食べ物らしいものは残っていなかった。
官兵が近づいても、逃げる様子はない。
「もう歩けねぇ」
先に男が言った。
声も弱い。
「どこまで行く気だ?」
張飛が聞く。
男は顔だけ上げ、街道の先を指した。
「あっち」
「どこだよ」
男はしばらく先を見たまま、肩を落とした。
「この先に行けば何とかなるって聞いたんだ」
「何とかって?」
「飯があるって。仲間もいるって。それだけだ」
張飛が眉を寄せる。
「それだけで来たのか」
「じゃあ他にどうすりゃいいんだよ」
口を開く。
だが、何も言わなかった。
男もこちらを見ない。
「もう追われなくて済むって話もあった」
劉備が男を見る。
「追われる?」
「官軍だよ」
男は鄒靖たちへ目を向けた。
「黄巾に入ったら、村には戻れないって聞いた」
少し間を置く。
「村を出る時には、もうそういう話だった」
土を掴み、指の間から落とす。
「戻るのも怖かったんだ」
視線を落とす。
「何されるか分からねぇし、村の奴らが入れてくれるかも分からねぇ」
先ほどの村人の言葉が浮かぶ。
ここに残りたいと言った者がいた。
だが、あの村にも余裕はない。
男の唇は乾いていた。
「水を」
鄒靖が官兵へ言う。
椀が差し出される。
男は一度それを見た。
「捕まえるのか?」
「立てるようになってから話を聞く」
「……そうかよ」
椀を受け取る。
一口飲んだところで止まり、もう一度口をつけた。
今度は少し長い。
「ゆっくり飲め」
関羽が言う。
男は返事をしなかった。
飲み終えると、袖で口を拭う。
「この先には、どれくらいいる」
鄒靖が聞く。
「見てねぇよ。俺もまだ着いてない」
鄒靖はそれ以上聞かなかった。
張飛が街道の先を見る。
男も同じ方向を向く。
「俺が聞いたのは、行けば何とかなるってことだけだ」
風が吹き、首の黄色い布が揺れた。
劉備もその先へ目を向ける。
街道は丘の向こうへ続いている。
ここからでは、その先に何があるのか見えなかった。
◇
男が立てるようになるまで、しばらく待った。
何度か足へ力を入れ、ようやく身体を起こす。
「歩けるか」
「たぶん」
鄒靖が官兵へ目を向ける。
「村まで連れていけ」
二人が左右についた。
男は一度だけ黄色い布へ触れ、そのまま歩き出した。
村へ戻ると、先ほどまで外にいた者たちがこちらを見た。
男の首に巻かれた黄色い布へ視線が集まる。
「そいつも黄巾か」
井戸のそばにいた老人が言った。
「そうらしい」
鄒靖が答える。
「ここに置くのか?」
「村の中には入れない。兵のそばに置く」
老人は男を見る。
男も顔を上げた。
どちらも何も言わない。
「飯は出せんぞ」
「こちらのものを使う」
それを聞くと、老人は桶を持ち直した。
「なら好きにしろ」
歩き去る。
男はその背中を見ていた。
官兵に促され、村外れの木陰へ座る。
少し離れたところに槍を持った兵が立った。
男はそちらを見た。
「……逃げられそうにはねぇな」
「まず休め」
鄒靖はそれだけ言って離れた。
男は木へ背を預ける。
しばらくして、先ほどの老人が井戸から戻ってきた。
男の前で足を止める。
手にしていた椀を地面へ置いた。
「飲むなら勝手に飲め」
そのまま歩いていく。
男は椀を見る。
すぐには手を伸ばさなかった。
◇
日がさらに傾いた。
鄒靖は斥候を街道の先へ出した。
その間、村の外れで夜営の準備が進められる。
兵たちは荷車を寄せ、火を起こす場所を決めた。
村の家からは少し離れている。
義勇兵も荷を下ろし始めた。
張飛は地面へ束を置くと、腰を伸ばした。
「今日はここまでか」
「ああ」
鄒靖が街道を見る。
「先が分からんまま、荷車ごと進む必要はない」
関羽もその先へ目を向けた。
道は夕日の中へ伸びている。
やがて、一人の男が現れた。
頭に黄色い布を巻いている。
こちらに気づいた。
足が止まる。
官兵たちも相手を見る。
男はしばらく動かなかった。
やがて街道を外れ、畑の向こうを大きく回り始める。
村へは入らない。
官兵も追わなかった。
少しして、また人影が見えた。
今度は二人。
一人は黄色い布を腕へ巻き、もう一人は何もつけていない。
二人も官軍を見ると道を外れた。
それでも引き返しはしなかった。
さらに向こう。
丘の間から、また誰かが出てくる。
別の道にも人影がある。
皆、同じ方角へ向かっていた。
村の中では、夕餉の煙が上がり始めている。
兵たちの火も増えていく。
それでも街道だけは、暗くなるまで人が途切れなかった。
張飛が腕を組んだまま見ていた。
「……あいつらも、何とかなると思ってんのかな」
劉備は答えなかった。
やがて丘の向こうへ日が沈む。
村では、兵たちが陣を作り始めていた。
それでも街道の向こうでは、人の流れだけが止まらなかった。




