第十話 黄巾の民
第十話 黄巾の民
初陣から二日後。
「南の村で、黄巾らしき者が見つかった」
鄒靖は机に広げた地図の一点を指した。
「昨夜、村へ入る五人ほどの男を旅人が見ている。黄色い布を持つ者もいたそうだ」
「五人か」
地図を覗き込む。
「逃げ残りか?」
「その可能性が高い。義勇兵を四人連れて確認してこい。武器は取り上げろ。抵抗するなら捕らえろ」
「うむ」
「その後はこちらへ報告しろ。処遇はそれからだ」
「分かっとる」
「本当にか?」
「何で毎回そこだけ念を押すんじゃ」
「お前だからだ」
口を曲げる。
隣では関羽が地図から目を離さない。
「行くぞ」
「おう」
◇
昼前。
村の手前で足を止めた。
畑の向こうに家が十数軒。
軒先には干した野菜が並び、鶏が土をつついている。
その穏やかな景色に似合わない怒鳴り声が、村の中央から響いていた。
「追い出せ!」
「どこへ追い出す!」
「知るか!」
「また山へ戻ったらどうする!」
「なら、お前が面倒を見ろ!」
「もう始まってんな」
隣で張飛が眉を上げた。
「ワシら、来るの遅かったか?」
「兄者」
関羽は前を見たまま、
「行こう」
「うむ」
連れてきた義勇兵四人を振り返る。
「二人はここに残れ」
「分かった」
「残り二人は一緒に来い。必要なら一人、鄒靖のところへ走ってもらう」
すぐに頷いた。
◇
村へ入ると、口論が止まった。
集まっていた村人たちの顔が一斉に向く。
その中から、村長らしい年嵩の男が出てきた。
「官軍の方ですか」
「まあ、そんなところじゃ」
「……ご用は」
「昨夜、この村へ五人ほど男が入ったと聞いた」
僅かに顔が強張る。
「黄色い布を持っとった奴もいたそうじゃ」
「……何のことでしょう」
「いるよ!」
背後から老婆の声。
「婆さん!」
腰の曲がった老婆が、鍬を杖代わりに歩いてくる。
「納屋に五人いる!」
「今それを言いますか!」
「隠したって仕方ないだろ!」
「まだ話がまとまっていないんです!」
「朝からそればっかりじゃないか!」
「昨夜から納屋に?」
村長は観念したように息を吐いた。
「……昨夜、五人の方から戻ってきたんです」
「向こうから?」
「ええ。一晩だけ置いてくれ、と」
「村の奴か?」
「三人はこの村の者です。残り二人は隣村の者だと」
「それで納屋を貸した?」
「夜も遅かったので……ひとまず」
「武器は?」
返事が止まる。
「持ったままです」
張飛の眉が上がった。
「よく入れたな」
「こちらから入れたわけではありません。五人が自分から納屋へ入ったんです」
村長は声を落とす。
「武器を置けとは言いました。ですが、手放さなかった。村人だけで無理に取り上げて、暴れられても困ります」
「それで朝から揉めとる、と」
「はい」
「追い出せという者もいる。官軍へ渡せという者もいる。置いてやれという者もいます」
「俺は置くのは反対だ」
少し離れたところから男が言った。
「お主か」
「そうだ」
「理由は?」
「今は言いたくない」
「そうか」
「私だって怖いんです」
村長が続ける。
「武器を持った者を一晩置いた。それだけでも十分危ない。しかも匿ったと見なされれば、この村まで黄巾の仲間だと思われるかもしれない」
「なのに追い出さんかった」
「……元は、この辺りの人間ですから」
村長は納屋を見た。
◇
村外れの納屋。
関羽と張飛は長物を入口脇へ置いた。
義勇兵の一人を入口に残し、もう一人は村人たちとの間へ立たせる。
扉を叩く。
「中におる奴。出てこい」
返事はない。
藁を踏む音だけがした。
「聞こえとるじゃろ」
「……何の用だ」
「それを聞きに来た」
「誰だ」
「劉備じゃ」
「知らん」
「ワシもお主を知らん」
小さく舌打ちする音。
別の声が何か言い返す。
やがて閂が外れた。
◇
中には五人。
藁の上には、昨夜使ったらしい薄い布。
隅には空の椀が五つ置かれていた。
「飯まで出したんか」
外にいる村長へ聞く。
「私は出していません」
「じゃあ誰が」
「……朝には、あったんです」
村人たちを見る。
誰も名乗らない。
老婆も知らぬ顔で鍬にもたれていた。
誰かが夜のうちに置いたらしい。
納屋へ向き直る。
年嵩の男。
若い男が二人。
十代後半ほどの少年。
三十前後の男。
槍を持った二人のうち、一人は扉が開いた時点でもう穂先を下げていた。
もう一人は目を逸らさない。
剣を持つ男の肩にも力が入っている。
「黄巾か」
「……だった」
年嵩の男が答えた。
「だった?」
「俺はもう戻るつもりはない」
「俺は知らん」
三十前後の男が割り込んだ。
「またそれか」
「お前が勝手に決めるな」
「お主ら、そこからもう違うんか」
「だから揉めてる」
剣を持った男が吐き捨てた。
「そうか」
「得物を置け」
最初から穂先を下げていた男が、真っ先に槍を差し出した。
年嵩の男も続く。
剣の男だけが動かない。
「お主は?」
「……俺は誰も斬ってない」
「聞いとらん」
「何?」
「今聞いたのは、剣を置くかどうかじゃ」
しばらく睨み合う。
やがて舌打ちし、剣が床へ置かれた。
少年は何も持っていない。
三十前後の男も腰の短刀を鞘ごと外した。
義勇兵が武器をまとめて入口へ運ぶ。
荷物の上には、畳まれた黄色い布。
そこへ手が伸びる。
「これは渡さない」
「武器じゃないなら取らん」
僅かに目を見開いた。
「何だと思ってる」
「兄貴のだ」
「そうか」
◇
その場に腰を下ろす。
「何で戻ってきた」
「故郷だからだ」
「お主ら二人は隣村じゃろ」
若い男が顔を上げる。
「村長から聞いたのか」
「うむ。何でこっちへ来た」
「行くところがなかったからだよ」
剣を置いた男は壁にもたれたまま、じっと見ている。
真っ先に槍を渡した男は俯いていた。
納屋の外で咳払いが聞こえた。
「そいつら、うちの米を盗んだんだよ!」
老婆だった。
一人の若い男が顔を覆う。
「……またその話か」
「米?」
「二俵!」
「一つ半だ!」
反射的に言い返す。
「二俵!」
「半分は残した!」
「持てなかっただけだろうが!」
黙り込んだ。
振り向くと、張飛が顔を逸らして肩を震わせている。
「本当に盗ったんか」
「……取った」
今度は言い訳しなかった。
「婆さん」
「何だい」
「官軍に渡したいのか」
「渡したところで、あたしの米は戻らないだろ」
「まあ、戻らんな」
「なら働かせる」
若い男を睨む。
「盗んだ分、返してもらう」
「米はもうねぇよ」
「だから働けって言ってるんだ」
返す言葉はなかった。
◇
「俺は、太平道の奴についていった」
少年が小さく言った。
「知り合いだったのか?」
張飛の声。
「村に来た人だった」
「何て言われた」
「飯があるって」
「腹、減ってたから」
「飯はあったか」
「……あった」
膝の上で指が動く。
「その飯は?」
口を閉ざした。
真っ先に槍を渡した男が、顔を伏せたまま答えた。
「村から取った」
「抵抗した奴もいたか」
「……いた」
それ以上、張飛は何も言わなかった。
入口の柱へ背を預けた。
◇
「だから嫌なんだ」
外から声がした。
最初に「追い出せ」と言っていた男だった。
「弟が黄巾にやられた」
剣を置いた男が、初めて視線を落とす。
少年も膝を見たまま動かない。
黄色い布を持つ男だけが、まっすぐ見返した。
「こいつらがやったわけじゃない」
「それくらい分かってる」
視線が黄色い布へ落ちる。
「……その布、見てると腹が立つ」
布を掴む手に力が入った。
「俺が――」
言葉が止まる。
皺の寄った布を見下ろし、
「……いや」
別の村人が納屋へ詰め寄ろうとする。
関羽が一歩前へ出た。
足が止まる。
男が下がると、元の場所へ戻った。
◇
「俺は黄巾へ戻る」
黄色い布の男が言った。
「まだ言うのか」
年嵩の男が顔をしかめる。
「ここに残って何になる」
「戻ってどうする」
「……知らん」
黄色い布から目を上げない。
「兄貴は、あっちにいた」
老婆が鼻を鳴らす。
「ここにも畑はある」
「俺のじゃない」
「当たり前だ」
「……何?」
「働け」
「またそれか」
「嫌なら好きにしな」
老婆はもう男を見ていなかった。
◇
外では、また声が重なり始めた。
「俺の家の近くには置くなよ!」
「だから追い出したらどうするんだ!」
「そいつらを連れていってくれ!」
「うちの子供が怖がってるんだ!」
「でも全員連れていかれたら――」
「知るか!」
「お前はさっきからそればっかりだ!」
「静かにしてください!」
村長の声も埋もれる。
「村長が決めろ!」
「それが決まらないから困ってるんです!」
しばらく聞いたあと、義勇兵を一人呼んだ。
「鄒靖のところへ走れ」
「分かった。何て伝える?」
「五人いた。武器は預かった。抵抗なし」
「ほかは?」
「五人の中でも意見が割れとる。村も同じじゃ。昨夜、自分たちから戻ってきて、納屋を借りとった」
「分かった」
すぐ走り出した。
「残ったお主は武器を見とれ」
「任せろ」
◇
鄒靖の返答を待つ間、五人は納屋に留めた。
今度は武器もない。
義勇兵が入口に立ち、村人も中へは入れない。
老婆だけが何度か近づいてきた。
「米の話が!」
「逃げんから待っとれ!」
「逃げたらどうする!」
「見張っとる!」
「ちゃんと見張りな!」
額を押さえる。
「婆さん強ぇな」
隣で張飛が呟いた。
◇
夕方前。
伝令に出た義勇兵が戻ってきた。
「鄒靖殿から返事!」
「なんじゃ」
「武器はそのまま没収。五人は今日は村から出さない」
「うむ」
「村長にも、事情をあとで説明してもらう」
村長が息を吐いた。
「……承知しました」
「それから、劉備殿たちは戻れ。詳しい話は帰ってから聞くって」
「分かった」
◇
その日の夕方。
話し終えると、鄒靖は長く息を吐いた。
「……ややこしいな」
「じゃろ?」
机の上の報告書へ目を落とした。
「私に五人を赦免する権限はない」
「分かっとる」
「名と事情を上へ報告する。上から沙汰があるまで武器は没収しておく」
「うむ」
「村からも出すな。村長に監督させる」
「納屋に閉じ込めたままか?」
「そこまでは言わん」
顔を上げる。
「村長の目の届くところに置け。武器は返すな」
「分かった」
「昨夜、村長が納屋を貸した件も報告には入れる」
「処罰するんか?」
「それを決めるのも私ではない」
「面倒じゃのう」
「誰のせいでさらに面倒になっていると思っている」
「ワシではないじゃろ」
「今回はな」
「今回は?」
「帰れ」
立ち上がる。
「劉備」
「なんじゃ」
「まだ何も解決していない」
「知っとる」
返事だけはすぐに出た。
◇
翌日。
再び村へ向かった。
五人は納屋の前にいた。
昨日まで持っていた武器はない。
「どうなった」
年嵩の男が聞く。
「まだ決まっとらん」
「……そうか」
「上から沙汰があるまでは村から出るな。武器も返せん」
頷く者。
顔をしかめる者。
黙ったままの者。
「こちらで見ます」
村長が頭を下げた。
「頼む」
◇
「おい」
老婆が黄色い布の男を呼んだ。
「何だよ」
畑の端にあった鍬を一本持ってきて、男の前へ置く。
「暇なら働きな」
「俺は米盗んでないぞ」
「知ってるよ」
「じゃあ何で俺なんだ」
「手が空いてる」
何も言わず鍬を見る。
老婆はそのまま畑へ戻っていった。
足元には、昨日と同じ荷物。
少し離れたところでは、昨日「追い出せ」と言った男が畑仕事をしている。
しばらくして、鍬を拾う。
畑の端まで歩き、土へ刃を入れた。
鈍い音。
「……硬ぇ」
もう一度。
ほとんど入らない。
「そこは石が多い」
顔を上げる。
昨日の男だった。
二人の目が合う。
「掘るなら、もう少し向こうだ」
それだけ言って、自分の畑へ戻っていった。
返事はない。
指された場所へ移り、鍬を振り下ろす。
ざくり。
今度は刃が土へ入った。
黒い土が少しだけ起きる。
村を出る。
関羽と張飛も続いた。
しばらく歩いても、鍬が土を打つ音はまだ背後から聞こえていた。




