第九話 初陣
第九話 初陣
町の外。
朝靄の残る街道沿いに、鄒靖の率いる官軍が陣を敷いていた。
前には槍兵、その後ろに弓兵。街道の左右にも隊列が長く続いている。
劉備たちの義勇兵も、その一角を任されていた。
あり合わせの旗は後方、馬と水を置いた場所のそばに立ててあった。
遠くに土煙が上がっている。
その向こうで黄色い布が揺れ、やがて人影が次々と姿を現した。
「来たな」
張飛が丈八蛇矛を肩から下ろす。
関羽も青龍偃月刀を構えた。
「勝手に前へ出るなよ」
「分かってる」
返事だけは早い。
少し疑わしかったが、それ以上は言わなかった。
◇
「兄者、多いな」
関羽は前方から目を離さない。
「聞いとった通りじゃ」
迫ってくる黄巾は数百。
揃いの鎧などなく、頭や腕に黄色い布を巻き、手にした武器も槍、剣、棒とばらばらだった。
中には農具を握っている者までいる。
軍勢として整っているとは言い難い。
それでも、街道いっぱいに迫ってくる人の群れを前にすると、数字で聞いていた「数百」とはまるで違った。
義勇兵の一人が槍を握っている。
その手が、僅かに震えていた。
「…………」
何も聞かず、男へ近づいて肩を抱く。
驚いたように顔が上がった。
「ワシの背中を見とれ」
「……え?」
「何していいか分からんようになったら、ワシを見るんじゃ」
肩から手を離す。
「勝手に死ぬなよ」
男は一度、自分の震える手を見る。
それから。
「……ああ」
小さく頷いた。
義勇兵たちへ向き直る。
「予定どおりじゃ。雲長、翼徳。前を頼む」
「うむ」
「おう」
「前へ出る者は二人について行け。先には出るな」
何人かが頷く。
「武器を持つ者のうち、何人かはワシと残れ」
「俺たちは?」
「何かあった時に動かす」
「何かって?」
「分からんから残すんじゃ」
「……なるほど?」
「納得できん顔じゃな」
「いや、まあ……」
「そのうち分かる」
馬を扱う男と料理人を見る。
「馬と水は決めた通りじゃ」
「分かった」
「任せろ」
最後に、地理に詳しい男を手招きした。
「お主はワシの横」
「俺?」
「この辺りの道を知っとるじゃろ」
「ああ」
男は街道の右手に広がる林を指した。
「敵側から林へ入って、俺たちの右手へ抜けられる細い道がある。この先でまた街道に戻る」
「何人くらい通れる?」
「狭いぞ。並べても二、三人だ」
林へ目を向ける。
「回り込むには使える?」
「ああ」
「覚えとこう」
◇
黄巾が近づいてくる。
ざっ、ざっ、と無数の足音が重なり、地面を伝って腹に響いた。
官軍の前列から、小さな話し声が消える。
「弓兵!」
鄒靖の声が響いた。
一斉に弓が上がる。
「構え!」
その瞬間、前衛の義勇兵の一人がつられるように一歩前へ出た。
「待て!」
関羽の声に、男の足が止まる。
「放て!」
弦の音が重なった。
矢が頭上を飛び越えていく。
空気を裂く音に、義勇兵の何人かが思わず肩をすくめた。
「下がるな!」
張飛が振り返らずに叫ぶ。
「まだ敵は来てねぇ!」
矢が黄巾の前列へ降り注ぐ。
人の波が揺れた。
だが止まらない。
倒れた者の横を越え、後ろからまた黄色い布が押し寄せてくる。
敵の顔が見える。
叫び声まで聞こえる距離になった。
「槍兵、前へ!」
官軍が動く。
前衛の義勇兵たちも続いた。
だが。
稽古ではできていたはずの動きが、思うように出ない。
敵が近づくだけで足が重くなる。
喉が渇き、握った武器まで普段より重い。
一人の足がもつれた。
「うわっ!」
「待て!」
隣の男が腕を掴み、引き起こす。
それにつられて列が一瞬乱れた。
「慌てるな!」
声を飛ばす。
「前を見ろ! 勝手に走るな!」
関羽が振り返る。
「私について来い!」
張飛も丈八蛇矛を構えたまま叫んだ。
「離れるなよ!」
声を追う。
背中を追う。
少しずつ歩幅が揃っていく。
そして。
黄巾と官軍がぶつかった。
◇
金属のぶつかる音が、一気に耳を満たした。
怒号。
足音。
何を叫んでいるのか分からないほど近い声。
「押せ!」
黄巾側からも声が飛ぶ。
「官軍を止めろ!」
その中を、関羽が一歩前へ出る。
敵の槍が伸びた。
一本目を青龍偃月刀の柄で流し、続く穂先を大きく薙ぐ。
槍が外へ弾かれた。
一瞬だけ敵の前列が開く。
逃さない。
踏み込みと同時に青龍偃月刀が大きく弧を描き、目の前の黄巾兵たちが後ろへ下がった。
「今だ!」
声を飛ばす。
関羽の後ろにいた義勇兵たちが前へ出る。
一人では行かない。
互いの肩が届く距離を保ったまま、開いた場所へ押し込む。
反対側では張飛の丈八蛇矛が一直線に伸びる。
「おおおっ!」
蛇のような穂先が敵の槍へ掛かり、そのまま横へ引く。
槍先が逸れた。
張飛が踏み込み、丈八蛇矛を振ろうとする。
だが、敵が一歩深く入りすぎた。
「ちっ!」
長い得物を振り切れない。
すぐに柄を押し出し、相手を正面から突き返す。
「離れろ!」
空いたところで丈八蛇矛を払う。
敵の足並みが崩れた。
「そこだ!」
後ろの義勇兵が続く。
関羽が正面に穴を開け、張飛がその隣の列を崩す。
前衛の義勇兵たちが、その隙間を埋めていった。
誰かが遅れれば、隣の者が待つ。
武器が目の前をかすめれば、思わず身体を引く。
「こっちだ!」
声が上がった。
先ほど手を震わせていた男だった。
足の止まった仲間の腕を掴み、自分の横へ引き寄せる。
「俺から離れるな!」
「お、おう!」
横目でそれを見る。
何も言わない。
ただ、口元が少しだけ上がった。
◇
「右!」
横にいた男が叫んだ。
「脇道だ!」
林の奥で黄色い布が揺れた。
十人ほど。
街道を外れ、こちらの右手へ回り込もうとしている。
「さっき言っとった道か」
「ああ!」
「一度に出られるのは?」
「二、三人がせいぜいだ!」
「なら止められる」
前線へ目を走らせる。
関羽は正面を押さえ、張飛も敵を食い止めている。
二人を戻せば、今度は前が薄くなる。
「残っとる奴!」
後方へ残していた者たちが振り返った。
「来い!」
「俺たちで?」
「一度に出てくる数は少ない」
腰の剣を抜く。
地理に詳しい男へ振り返った。
「お主は旗のところまで下がれ」
「でも――」
「道は聞いた。もう十分じゃ」
「……分かった!」
男が後方へ走る。
「無理なら下がるぞ」
「下がる?」
「死ぬよりましじゃろ」
男たちは顔を見合わせる。
それでも、後ろについてきた。
◇
草を踏み荒らす音が近づく。
黄巾兵が脇道から飛び出した。
最初の一人が槍を突き出す。
身体は、考えるより先に動いていた。
一歩横へずれる。
槍が脇を抜ける。
そのまま相手の横へ回り込み、剣の柄で腕を打つ。
「ぐっ!」
槍が地面へ落ちる。
二人目が剣を振り下ろしてくる。
一歩下がり、もう一歩。
相手が追う。
その横から義勇兵の棒が伸びた。
「うおっ!」
敵の足が止まる。
「今じゃ!」
踏み込み、剣を振って相手を押し返す。
「一人でやろうとするな! 二人で一人を見ろ!」
また二人が脇道から出てくる。
その後ろにも黄色い布が見えた。
だが、前の二人につかえて後続は出られない。
「右!」
叫ぶ。
男は動かなかった。
「右じゃ!」
「え――」
肩を掴んで引く。
直後、その目の前を槍が走った。
男の顔から血の気が引く。
「ぼさっとするな!」
「わ、分かった!」
また足音。
「次来るぞ!」
一人が敵の槍を止め、その横から別の男が棒を突き出した。
「押せ!」
「おおっ!」
その間を埋めるように剣を振るう。
昔なら、もう半歩踏み込めた。
頭に残る感覚へ、今の身体がまだ追いつかない。
それでも、次にどこを見るべきかだけは忘れていなかった。
心臓だけは、昔よりうるさかった。
◇
「怪我人!」
後ろから声が飛んだ。
腕を負傷した男が座り込んでいる。
馬を任されていた男がすぐに駆け寄った。
「立てるか!」
「何とか……」
「無理するな。乗れ!」
肩を貸し、馬へ乗せる。
「水!」
「ある!」
料理人も走ってきた。
負傷した男へ水を渡し、腕についた汚れを流す。
別の兵が手を伸ばせば、そちらにも水を回した。
傷ついた者が戻れば、そこには水があり、馬があり、肩を貸す手があった。
◇
正面では関羽が青龍偃月刀を振るう。
一度、大きく振った刃が想定以上に前へ走り、足が半歩流れた。
次からは、振りを僅かに抑える。
それでも十分だった。
黄巾の槍を外へ押し退け、その横から張飛が丈八蛇矛を突き込む。
穂先を敵の盾の縁へ掛け、そのまま外へ引く。
敵の正面が開いた。
「開いたぞ!」
官軍の槍兵が一斉に押し込む。
街道の左右からも鬨の声が上がった。
官軍の槍列が前へ出る。
一人の黄巾兵が背を向けた。
「待て! 戻れ!」
隣の男が叫ぶ。
だが、押し返された者たちが左から流れ込み、正面でも黄色い布が次々と後ろへ向く。
右の列まで下がり始めた。
「弓兵!」
鄒靖の声が響く。
「退く敵を狙え!」
前線から離れ始めた黄巾の後方へ、再び矢が降り注ぐ。
「退くぞ!」
誰かが叫んだ。
「退け!」
別の声が重なる。
それまで踏みとどまっていた者まで背を向けた。
黄色い布が街道の向こうへ遠ざかっていく。
「追撃するな!」
鄒靖の命令が飛ぶ。
官軍の足が止まった。
張飛も丈八蛇矛を下ろす。
「翼徳」
「分かってる」
言い切るより早かった。
もう動いていない。
何も言わず、その背を見る。
◇
敵の怒号が遠ざかる。
代わりに戻ってきたのは、荒い息と負傷者を呼ぶ声だった。
馬が鳴く。
誰かが水を求める。
武器を握ったまま、自分の震える手を見ている者もいる。
その場へ座り込む者もいた。
黄色い布は、もう遠い。
勝鬨は上がらなかった。
義勇兵たちを見回す。
「全員いるか!」
返事が返る。
一人ずつ顔を確かめる。
「一人いない!」
誰かが叫んだ。
表情が変わる。
「誰じゃ!」
「鍛冶屋の奴!」
「どこへ――」
「ここだ!」
後ろから声がした。
鍛冶屋の若者が、負傷した官軍兵へ肩を貸しながら戻ってくる。
「何しとった!」
「後ろへ下がってきた奴が途中で倒れたんだよ!」
「それで?」
「放っとけるか!」
大きく息を吐く。
「全員いるな」
「ああ」
負傷した者はいる。
服を汚した者もいる。
まだ手が震えている者もいた。
それでも、全員戻ってきた。
「よし」
関羽が近づいてくる。
「勝敗より先に人数か」
「当たり前じゃ」
「死なせるために集めたわけではない」
関羽は何か言いかけたが、やめた。
◇
鄒靖が歩いてくる。
「劉備」
「なんじゃ」
十数人の義勇兵へ視線を巡らせる。
馬を扱う男はまだ負傷者を運び、料理人は水を配っていた。
「数日前に集まったばかりとは思えんな」
「最初は危なっかしかったぞ」
「それくらいは見えた」
「見られとったか」
「全てではない」
前線へ目を向ける。
「だが、関羽と張飛が前線を崩したのは見えた。側面を抜かれなかったこともな」
肩をすくめる。
「できることを、できる奴にやらせただけじゃ」
鄒靖が僅かに笑った。
「人の使い方は知っているようだな」
「当然じゃ」
◇
その日の夕方。
義勇兵たちは町へ戻った。
疲れ切った顔。
土に汚れた服。
腕に布を巻いた者もいる。
先頭近くでは、地理に詳しい男が後方に立てていた旗を担いでいた。
その周りを、十数人が歩いている。
張飛が丈八蛇矛を肩へ担ぐ。
「なあ、アニキ」
「なんじゃ」
「次も勝てるか?」
すぐには答えなかった。
「負けそうなら立て直す」
「それでも駄目なら?」
「また立て直す」
張飛が笑った。
「しつこいな」
「最後に勝てばよかろう」
関羽は何も言わない。
青龍偃月刀を肩に担ぎ、二人の横を歩いている。
風が吹いた。
土埃のついた旗が、十数人の頭上で大きく揺れた。
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