まず飯食わしたれ
杉下城・評定の間。
畳いっぱいに一枚の地図が広げられていた。
家臣たちは珍しく全員が揃っている。
義藤は腕を組みながら書状を見つめた。
「……尾張の綾部?」
房春が頷く。
「そうや。
尾張守護職やった波野家の分家筋……"波野御三家"って呼ばれてた一門衆の一つや。
御三家の中でも、本家に匹敵する力を持っとった。」
正義が首を傾げる。
「ほな、その綾部が今は尾張を治めとるんですか?」
「そういうこっちゃ。」
房春は地図の尾張を指差した。
「今の当主・綾部信綱の祖父さんの代で、本家の波野をひっくり返した。……いわゆる下剋上や。
御三家の中で、津島家は綾部に付いた。んで、もう一つの一柳家だけが本家に従った。
そんで……本家共々、綾部に滅ぼされたんや。」
指が西へ、そして東へと滑る。
「親父の代で伊勢を平定。さらに東海道を押さえた。」
最後に駿河を指で叩く。
「今の信綱の代になって、駿河守護大名・加原家を討ち破った。
加原の一族の松原家は、綾部家の後ろ盾を得て、駿河を平定。実質、三河から駿河まで勢力を広げとる。」
房春の指は地図の上をゆっくりと移動する。
「近頃は美濃も手中に収めたそうや。」
「美濃まで……。」
義長は唖然とした。
「いま、勢いがある家やな。
中国の大代家、四国の三条家、甲斐・信濃の藤ヶ谷家……。そいつらとも十分やり合えるぐらいの力はあるで。」
部屋が静まり返り、義長がぽつりと呟いた。
「つまり……今、天下の覇権争いに名乗り上げとる家やな。」
「せや。」
しばし沈黙が流れ、やがて義藤が首を傾げた。
「……で。なんでウチや?」
一同が顔を見合わせる中、沈黙を破ったのは、義藤の妹婿・福田勘右衛門義昭だった。
「河内やからです。」
「ん?」
「杉下は河内に根ぇ張っとる。」
義昭は地図の河内へ指を置いた。
「それに。」
今度は堺を指差す。
「堺。」
「……ああ。」
「綾部は東海道を押さえました。
次に欲しいんは畿内への足掛かり。その為には堺との繋がりが要る。」
「つまり……ウチっちゅう訳か。」
「堺との繋がりがありますからね。」
「……近江やないんやな。」
義藤は近江の位置を指で叩く。
「"近江を制するものは天下を制する"って昔から言われとるぐらいや。」
すると、義昭は静かに答えた。
「近江は土地やけど、堺は銭です。
天下取るにも戦するにも、最後は銭が要る。綾部はそこまで考えとるでしょう。」
一拍。
「堺を味方に付けた者が、戦を制します。」
義藤は腕を組み直した。
「なるほどなぁ。」
義長が静かに尋ねる。
「兄上……どないします。」
義藤は地図をじっと見つめる。
「……綾部の兵力は。」
房春が即座に答える。
「少なく見積もっても、ウチのニ十倍。いや……もっとや。」
「兵糧。」
「それもニ十倍以上でしょうな。」
美津が帳簿を閉じる。
「戦したところで、勝ち目はありません。」
再び沈黙。
正義が悔しそうに拳を握る。
「……けど。近江守護職やった杉下が……。格下やった綾部に膝付くんですか。」
誰も何も言わない。
部屋には重苦しい空気だけが流れる。
義藤は地図を見つめたまま、小さく膝を叩いた。
「決めた。」
一斉に視線が集まる。
「生き残るためや。その為やったら、儂はなんぼでも膝付いたる。」
「殿……。」
「ええか。」
義藤は家臣たちをゆっくり見渡した。
「見栄だけで飯は食われへん。
杉下は生き残る。その為に頭下げるんなら、安いもんや。」
義長が静かに頭を下げる。
「……承知しました。」
美津も続く。
「異論ありません。」
義昭も頷いた。
「それが一番です。」
正義は悔しそうな顔をしたまま、やがて深く息を吐いた。
「……分かりました。
殿がそう決めたなら、俺らは殿について行きます。」
義藤は豪快に笑った。
「よっしゃ。ほんなら返事書くか。
いや、その前に……玄蕃。」
「はい。」
房春が義藤の方へ向き直る。
「綾部さんとこの使者、腹減っとるやろ。」
「え?……多分。」
「先に飯食わしたれ。腹減っとったら話も進まへん。」
一同は思わず吹き出した。
「兄上……。」
「殿らしいですな。」
評定の間に、いつもの笑い声が戻った。




