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前野の若様、平気で一線を越えよった

美津が前野家へ嫁いで、一年。


相変わらず信盛との仲は最悪だったが、それでも屋敷は今日もいつも通りに時が流れていた。


「今日も暑いなぁ。」


算盤を弾いていた美津は、額の汗を袖で拭う。

隣では侍女が帳簿を仕分けていた。


「ほんまですねぇ。」


「こう暑いと、頭まで茹だりそうです。」


「せやなぁ。」


美津は苦笑しながら、再び算盤を弾く。


ぱちり。


ぱちり。


「……ん?」


美津の手が、ふと止まる。


「何を騒いどるんや?」


侍女も顔を上げた。


「ほんまですね。」


耳を澄ませみると、玄関の方から大勢の人の声が聞こえてくる。


「玄関やな。」


「はい。」


二人は顔を見合わせ、急いで立ち上がった。


◇◇◇


門前には、大勢の家臣や女中が集まっていた。


「通してください!」


美津は人垣を掻き分ける。

ようやく前へ出た瞬間、目の前の光景に思わず目を見開いた。


忠盛が拳を震わせながら立っており、その隣では巴が必死に夫を宥めていた。


一方、信盛は何が悪いのか分からないと言わんばかりの顔で立っている。


そして、信盛に腕を掴まれ震えている一人の女。


黒髪に白い肌、切れ長の目元が印象的な、まだ若い女性だった。

しかし、その目は涙で真っ赤に腫れている。


忠盛の怒号が屋敷へ響いた。


「どこから連れて来たと聞いておるのだ!!」


美津は近くの家臣へ小声で尋ねる。


「……何があったん?」


家臣は困り果てた顔だった。


「若様が……どこかから、その御婦人を連れて帰って来られまして。」


「……あかんやん。」


それしか言葉が出なかった。

美津は静かに様子を見守る中、忠盛はなおも問い詰める。


「何がいけないのですか?」


信盛は胸を張った。


「前野家嫡男たる私に見初められ、悪い気のする女などおりますまい。」


「誠にそう思うておるのか!」


忠盛の顔が引きつる。


巴が慌てて肩へ手を置いた。


「旦那様……!」


忠盛は荒い息を整えながら尋ねる。


「その女子、どこの娘だ!家には話を通しておるのか!」


信盛は首を傾げた。


「はい?そこまでせねばなりませぬか?」


周囲が静まり返る。


「たかだか商人風情です。

商人の分際で、このような美しい女を囲うとは実にけしからん。

由緒正しき我が前野家へ迎え入れた方が――」


そこまでだった。


「この……!」


忠盛の拳が震える。


「大たわけがぁぁぁぁぁぁーーーー!!」


拳が一直線に信盛の顔面へ叩き込まれた。


「ぐはぁっ!」


信盛は豪快に吹き飛び、門前へ転がる。


「お前は!」


忠盛は馬乗りになる。


「お前のその軽率な行動が!」


一発。


「前野の名を!」


もう一発。


「綾部家の名を!」


さらに一発。


「どれだけ傷付けるか!何故分からぬのだぁぁ!!」


拳が何度も振り下ろされる。


「旦那様!」


「殿!!」


「止めてくだされ!」


巴と家臣たちが慌てて抱き付く。

通り掛かった商人たちまで駆け寄った。


「前野の旦那!」


「殺してしまいますで!」


「落ち着きなはれ!」


その大騒ぎの隙を突き、美津は泣き続ける女性の前へしゃがみ込んだ。


「……アンタ。」


女性が恐る恐る顔を上げる。


「もしかして、大和屋の若奥様のお品さん?」


女性は驚いたように目を丸くした。


「……へぇ。あの、ひょっとして……杉下様のお美津殿?」


美津はにっこり笑う。


「そうそう。いつも贔屓にさせてもろうてます。」


お品の手を優しく握る。


「まぁ、災難やったなぁ。ささ、こっちこっち。」


美津はお品を連れ、人混みを抜けて隣の木浪邸へ向かった。


戸を開けると、身重の弥生が驚いた顔で迎える。


「あら、美津ちゃん?」


「弥生さん、ちょっと事情説明する時間ないん!

この人、預かって!」


弥生はお品の涙で濡れた顔を見るなり、すべてを察した。


「八重!」


「はい!」


長女・八重が駆け寄る。


「今すぐ奉行所の父上呼んできて!」


「はい!」


八重は勢いよく飛び出していった。

弥生はお品へ優しく微笑み掛ける。


「もう大丈夫ですよ。えらい災難でしたねぇ。」


弥生は、ぱんっと両手を叩く。


「さ、お茶でも飲んで、一息つきましょう。」


お品は震える手で何度も頭を下げた。


その頃、隣の前野邸からは――


「まだ分からぬかぁぁぁ!」


「父上ぇぇぇ!」


という親子喧嘩が、堺の町中へ元気よく響き渡っていた。

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