心配なのは、美津ではない
美津が前野家へ嫁いで、早くも三か月。
義藤たちの抱いていた嫌な予感は――見事に的中していた。
チャキチャキ系河内育ちの美津。
蝶よ花よと育てられた前野家嫡男の信盛。
合うはずがない。
例えば――。
「女が口答えするな!」
「ほな、この帳簿は誰が合わせますのん?誰が銭の管理しますん?」
「夫に逆らうとは何事だ!」
「……あんた、夫の自覚はあったんかい。遊郭ばっかり行ってるくせに。」
「杉下の家臣の娘の分際で!」
「それ言うたら、前野かて綾部の家臣やで。」
「我が前野家は、代々綾部家にお仕えしておるのだ!」
「うちの石橋家かて、代々杉下に仕えとります。」
「薄汚い血筋が!」
美津は、じっと信盛を見つめた。
「……それ、御屋形様にも言うてんの?」
「…………。」
信盛は言葉に詰まる。
今日も勝負ありである。
◇◇◇
しかし、そんな二人とは裏腹に、前野家中での美津の評判は非常に良かった。
朝は誰よりも早く起き、女中たちと共に台所へ立つ。
帳簿も見れば、蔵の確認もする。
侍女たちの相談にも耳を傾け、時には庭掃除まで手伝う。
前野邸の隣に住む木浪家とも親しく行き来し、堺の商人たちともすぐに顔見知りとなった。
「前野様の若奥様は、よう働きはる。」
「気さくなお人や。」
「商人相手でも偉ぶらへん。」
そんな噂は、堺中へ少しずつ広まっていった。
その事実が、信盛には面白くなかった。
自分より、嫁いできた美津の方が屋敷でも堺でも評判が良い。
それが、余計に癇に障る。
◇◇◇
ある日。
正義と義昭が堺奉行所を訪れた帰り、前野邸へ立ち寄った。
「左衛門!勘右衛門のおっちゃん!」
久しぶりの再会に、美津の表情がぱっと明るくなる。
「元気しとった?」
「ぼちぼちや。」
「河内は?」
「相変わらずや。」
三人は懐かしい話に花を咲かせる。
その時、廊下の向こうから信盛が姿を現した。
三人を見るなり眉をひそめ――次の瞬間。
パァンッ!!
乾いた音が屋敷中へ響いた。
美津の頬が横へ弾かれる。
一瞬の静寂、美津はゆっくり頬へ手を添えた。
「…………。」
そして。
パァンッ!!
美津も反射的に信盛の頬を張り返した。
信盛は二、三歩よろめき、その場へ尻餅をつく。
「い……い、いきなり何をするのだ!」
頬を押さえながら叫ぶ信盛が、美津は真顔だった。
「こっちの台詞ですわ。アンタこそ、いきなり何すんのよ。」
「お、お主は前野の嫁であるのだぞ!」
信盛は顔を真っ赤にする。
「斯様に男と話すでない!人妻である自覚はないのか!」
美津は呆れたようにため息をつく。
「はぁ?左衛門も勘右衛門のおっちゃんも身内ですわ。」
正義と義昭は揃って頷いた。
「せや。」
「美津と儂らは身内や。」
「それにしてもじゃ!」
信盛はなおも食い下がる。
「はしたない!」
「はしたないんはどっちや。」
美津は腕を組んだ。
「昨日、遊郭から人来ましたで。」
信盛の肩がぴくりと震える。
「『ツケ、ええ加減払うてもらえまへんやろか』って言うてましたけど。
……どういうことやの?」
「そ、それは……!」
「奥方ほったらかして遊郭通い。その上ツケまで溜める……。
それで人妻がどうとか言われても困りますわ。」
信盛は何も返せない。
「お、お主という女は……!」
「はいはい。まずツケ払うてき。」
再び夫婦喧嘩が始まる。
正義と義昭は少し離れた場所で、その様子を眺めていた。
義昭がぽつりと呟く。
「……美津。」
「ん?」
「そのうち、新兵衛殿にトドメ刺さんやろか。」
正義は真顔で頷いた。
「心配や。」
「命が危ないかもしらんな。」
二人は同時にため息をついた。
心配しているのは、美津ではない。新兵衛の方だった。
廊下を歩いていた三人の侍女は足を止める。
「ああ、また始まった。」
「若様も学ばんお人やな〜。」
「毎度毎度、若奥様に言い負かされてるのに。」
そして、顔を見合わせる。
「若奥様、そのうち若様の息の根を止めかねませぬ。」
「「あり得る。」」
同じ心配をしていた。




