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サイドストーリー~麗華という女の子④~

嘉納シンジの隠れ家である新宿のアパートの一室は、およそ中学二年生の男子が放課後を過ごす場所とは思えない異様な光景であった。壁一面を埋め尽くすモニター群が、青白い光で室内の埃を照らし出し、基板の焼ける独特の匂いが鼻を突く。窓の外に広がる新宿の喧騒とは完全に隔絶された、冷徹な数字だけが呼吸する閉鎖空間であった。


麗華は、差し出されたコーンスープの空き缶を、震える手で強く握りしめた。スープの温かさが喉を通るたび、凍りついていた思考がようやく解け、代わりに「なぜ自分がここにいるのか」という猛絶な現実に襲われた。


目の前に座る少年、嘉納シンジ。

学園では特進クラスの「数学狂い」として知られ、常にノートに複雑な数式を書き殴っていた、影の薄い同級生。麗華とは同じ学年でありながら、これまで言葉を交わしたことなど一度もなかった。高嶺の花であった「神宮寺の令嬢」と、地味な「計算オタク」。その二人が今、泥だらけの靴を並べて狭い部屋にいる。


「……嘉納くん。助けてくれたことには、感謝するわ。でも、一つ聞かせて。あなたは系列中学の同級生だけれど、なぜ私を助けたの? 没落して指名手配犯の娘になった私に、あなたを動かすほどの『価値』があるとは思えないのだけれど」


シンジは、散乱した基板の一つをピンセットで弄りながら、感情の読めない瞳で麗華を見つめた。


「価値、か。麗華……君はまだ、自分の本当の『資産価値』を理解していないようだね」


シンジは呼び捨てにした。学園では誰もが「麗華さん」と恭しく呼んでいた彼女を、彼はあたかも一つの「銘柄」のように呼んだのである。シンジはメインモニターの一台を指差し、そこに映し出された複雑なフラクタル図形と刻々と変化する株価の数値を提示した。


「神宮寺コンツェルンが潰されたのは、単なる不祥事じゃない。ある巨大な『組織』が、この国の経済インフラを書き換えるために、君の父親をスケープゴートにしたんだ。……つまり、今の神宮寺家は、世界という巨大な盤面における『最大のバグ』なんだよ。そして、そのバグの正当な継承者である君は、彼らにとって最も消し去りたい『不確定要素』だ」


「不確定要素……。私が?」


「そう。論理的に計算された絶望の中で、君のように一ミリも折れずに質屋を歩き回るような人間は、統計学上の『ノイズ』なんだ。……僕はね、完璧な数式よりも、その数式をぶち壊す可能性のあるノイズに投資したい。……麗華、君のプライドを、僕の演算の『燃料』として貸してくれないか?」


シンジが提示したのは、対等な「契約」であった。

彼が独自に開発したアルゴリズムを用い、匿名性の高いダークウェブ上の資金や、休眠口座を「運用」し、神宮寺家再興のための軍資金を作る。そのための「顔」として、麗華の持つ神宮寺のネットワークと、何より彼女の圧倒的な存在感、交渉力が必要だという。


「……要するに、私に『勝負師』になれというのね? 私が最も嫌っていた、数字の奴隷に」


「違うよ。数字を使って、世界という奴隷を買い叩くんだ」


シンジは、不敵な笑みを浮かべ、一枚のICカードをテーブルに置いた。

「これが、僕たちが最初に動かせる三〇〇万円だ。僕がデイトレやハッキング紛いのバイトで貯めた全財産。……これを元手に、一週間で一億円にする。……やるかい? 同級生のよしみで、特別に『勝ち馬』に乗せてあげるよ」


麗華は、テーブルの上のカードを見つめた。

三〇〇万円。かつての彼女なら、一ヶ月の衣類代にも満たない額。しかし、今の彼女には、真珠を売って手に入れた汚れた五万円すら奪われ、手元には何もない。


(……阿部倉のような裏切り者に頭を下げるのか。それとも、この得体の知れない同級生の狂気に乗るのか……)


麗華は、泥に汚れた自分の指先を見た。

プライドとは、守るものではなく、武器にするものだ。

彼女は迷いなく、カードを手に取った。


「……いいわ。嘉納シンジ。……あなたのその生意気な期待値、私が現実のものにしてあげる。私をただの令嬢だと思っていたら、火傷するわよ」


その瞬間、部屋の警報装置が赤く点滅し、低いブザー音が鳴り響いた。


「……っ!? 追っ手か、早すぎるな」

シンジが素早くキーボードを叩く。モニターに映し出されたのは、アパートの階段を無音で、かつ軍隊のような統制で駆け上がる、黒ずくめの男たちの姿であった。それは阿部倉が差し向けた程度の低いチンピラではない。組織が送り込んだ、本物の「清掃員プロ」たちであった。


「……麗華、裏口へ! 君の居場所が割れるのが早すぎる……。阿部倉の家で、何かトラッカーでも付けられたんじゃないか?」


麗華は、ハッとして自分のカシミアコートの襟裏に手をやった。そこには、極小の発信機が埋め込まれていた。阿部倉が彼女を「売る」ための担保として、最初から仕掛けていた罠であった。


「……あの、腐れ外道……!」


麗華は怒りに震えながら、発信機を引き剥がし、シンジが実験用に使っていた強酸の入ったビーカーの中に投げ捨てた。

二人は、アパートの狭い非常階段を駆け下りた。夜の新宿の冷たい風が、麗華の頬を打つ。


「嘉納くん、逃げ切れるの?」


「……確率論では、二〇%以下だね。……でも、運がいい。……今夜の新宿は、僕のホームグラウンドだ」


シンジが小型のジャミング装置を起動させると、周囲のデジタルサイネージが一斉にノイズを吐き出し、追跡者の通信網が混乱に陥った。

光と影が交錯する路地裏。麗華は、自分を導く同級生の少年の背中を見つめた。

同じ教室で、同じ授業を受けていたはずの少年が、なぜこれほどまでに冷徹で、そして巨大な組織と渡り合う力を持っているのか。


麗華は、初めて「自分たちを陥れた世界の全貌」を肌で感じていた。

同時に、その巨大な壁に風穴を開けようとするシンジの横顔に、かすかな希望という名の、熱い信頼を感じ始めていた。


「……嘉納くん。……私、絶対に負けないわ。神宮寺の名にかけて。お父様をあんな場所から必ず救い出す」


「……ああ。期待しているよ、麗華。君が女王として君臨するなら、僕はその『帳簿』を完璧に付けてやる」


二人の少年少女は、新宿の闇の中へと消えていった。

それは、没落した令嬢が「氷の女王」へと覚醒し、後に現れる「神」今中みやびを迎え入れるための、運命の歯車が噛み合った瞬間であった。


麗華の手に握られたICカードは、街のネオンを反射して、かつての真珠以上に冷たく、そして鋭利に輝いていた。

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