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サイドストーリー~麗華という女の子③~

地下道の冷たいコンクリートの上で、麗華は浅い眠りと覚醒を繰り返した。

湿り気を帯びた新聞紙の臭い、遠くで響く始発電車の重低音、そして時折聞こえる誰かの咳き込む声。それらすべてが、昨日までの彼女の世界には存在しなかった「異物」であった。


夜が明け、地上へと這い出した麗華の姿は、もはや系列私立中学の誇り高き「神宮寺の令嬢」の面影を失いかけていた。指定のカシミアコートは雨に濡れて重く垂れ下がり、泥の跳ね返りが白いハイソックスを無残に汚している。

しかし、彼女の瞳だけは、依然として周囲を拒絶するような鋭い光を放っていた。


「……お腹が、空いたわ」


不意に漏れた独り言が、自分でも驚くほど弱々しく響いた。最後にまともな食事を摂ったのは、いつのことであったか。胃の腑を直接掴まれるような鈍い痛みが、中等部二年生という幼い少女から、高潔な思考を奪い去ろうとしていた。


麗華は、自分の首元に触れた。

そこには、母の形見である真珠のネックレスが、冷たく、しかし確かな存在感を持って鎮座していた。

この真珠一粒で、今の彼女が必要とする食事も、乾いた服も、安全なベッドも、すべて手に入れることができるはずであった。神宮寺の令嬢として、物の価値を測る秤は、彼女の血肉に刻まれている。


(……これを売れば、私は神宮寺麗華ではなくなる。……母様との、最後の繋がりさえも、私は切り捨てるというの?)


葛藤が、彼女の足を止めた。

しかし、向かいのビルのショーウィンドウに映った自分の姿を見た瞬間、彼女は自嘲気味に口角を上げた。

髪は乱れ、顔色は青白く、まるで捨てられた仔犬のような惨めな少女。

このままでは、誇りを守る前に、この野良犬のような体力が尽きてしまう。


「……背に腹は代えられない。……いいえ、これは『再興』のための投資よ」


彼女は自分に言い聞かせ、足を引きずるようにして新宿の雑居ビルが立ち並ぶエリアへと向かった。そこには、訳ありの品物を買い叩く質屋や貴金属買い取り店が、牙を剥いて獲物を待っている。


「……いらっしゃい。おや、ずいぶんと小綺麗な格好をしたお嬢ちゃんだね。家出か?」


雑居ビルの三階、タバコの煙が充満した狭い店内で、恰幅の良い店主が麗華を値踏みするように見つめた。

麗華は震える手でネックレスを外し、カウンターの上に置いた。


「……これを、査定してください」


店主はルーペを取り出し、真珠を光に透かした。

その一分一秒が、麗華にとっては心臓を直接削り取られるような苦痛であった。この真珠は、かつて父が母との結婚記念日に、南洋の真珠王から直接買い付けた最高級品。本来ならば、数百万円は下らないはずであった。


「……ふむ。いいもんだが、鑑定書もなけりゃ、この制服のエンブレム……。どこぞのお嬢様が、親の宝石を黙って持ち出したってところか?」


店主が、濁った笑みを浮かべた。麗華は、彼が自分の正体を知らないことに、皮肉な安堵を覚えた。世間を揺るがしている「神宮寺コンツェルン崩壊」のニュースは知っていても、その渦中にいる少女の顔まで、この男は覚えていない。


「……五万。それでどうだ」


「五万!? ……ふざけないで。これはテリも巻きも完璧な……」


「お嬢ちゃん、世の中を知らないのかい?」

店主が、カウンターを指で叩いた。

「出所不明の宝石なんてのは、こっちにとっちゃリスクなんだよ。警察に届けられりゃ、俺が捕まっちまう。……嫌なら他へ行くんだな。ガキ一人で歩き回って、強盗にでも遭わなきゃいいがね」


麗華は、拳を強く握りしめた。

足元を見られている。

自分が守ってきた「神宮寺」という看板は、ここでは何の効力も持たず、ただの「無知な子供」として処理される。

五万円。

昨日の自分であれば、一回のランチ代にも満たないような端金。

しかし、今の彼女にとっては、一週間の命を繋ぐための「大金」であった。


「……わかりました。……それでいいわ」


麗華は、血が滲むほどに唇を噛み締めながら、カウンターに置かれた汚い千円札の束をひったくるように受け取った。

母の形見が、紙屑のような札束に変わった瞬間。

彼女の中で、何かが決定的に壊れた。

あるいは、何かが新しく、硬く、冷たい鋼へと変質した。


店を出た麗華を待ち受けていたのは、さらなる地獄であった。


「……おい、お嬢ちゃん。いいもん持ってたな。その金、俺たちに預けなよ」


ビルの非常階段の影から、三人の男たちが現れた。

一人は派手なスカジャンを着、一人はピアスをこれでもかと耳にぶら下げた、絵に描いたような街のハイエナたち。彼らは、質屋に入る麗華の姿を、獲物としてマークしていたのである。


「……どきなさい。……私の邪魔をしないで」


麗華は声を絞り出したが、恐怖で喉が引き攣っていた。

男たちは、包囲網を狭めるように近づいてくる。


「強がるなよ、お嬢様。……その制服、お高い学校だろ? 親に言えば、もっと金が出てくるんじゃねえか?」


一人が、麗華の腕を乱暴に掴んだ。

「……離して! 汚い手で触らないで!」


麗華は必死に抗ったが、空腹と疲労で力が入らない。

壁に押し付けられ、カバンから札束が零れ落ちる。

路上の水溜りに、五万円の札束が浮かんだ。


「……やめて……それだけは……私の、母様の……」


彼女の叫びは、新宿の雑踏にかき消された。

誰一人として、泥に塗れた少女を助けようとする者はいなかった。

皆、自分たちの生活に手一杯で、他人の不幸は最高の娯楽でしかなかったからである。


「……おい、派手にやってんなぁ。期待値、マイナス一〇〇だぜ」


不意に、頭上からやる気のない、しかし透き通った声が降ってきた。

男たちが動きを止めた。


非常階段の踊り場に、一人の少年が座っていた。

黒いパーカーのフードを深く被り、手元には不格好な電子部品が詰まった箱を抱えている。


「……なんだ、ガキ。……引っ込んでろよ、怪我したくねえだろ」


少年は、欠伸を一つして、階段をゆっくりと降りてきた。


「……神宮寺麗華。……系列中学の『氷のクイーン』が、こんな汚い路地裏でカツアゲされてるなんて、確率論的にあり得ない光景だな」


麗華は、目を見開いた。

その少年が、自分と同じ中学の、特進クラスにいる嘉納シンジであることに気づいたからである。彼は学園でも「変人」として有名で、常に何かの計算式を呟いている、浮いた存在であった。


「……嘉納、くん……?」


「……なんだ、知り合いかよ。だったらまとめて……」


男がシンジに殴りかかろうとした瞬間。

シンジの手元にあるデバイスから、激しい電子音と共に不可視の波形が放たれた。


パキィィィィィィン!!


男たちの持っていたスマートフォンのバッテリーが、同時に過熱し、小規模な爆発を起こした。


「……熱っ! あ、あちっ!?」

「なんだ!? 何が起きた!?」


パニックに陥る男たちを尻目に、シンジは麗華の手を掴んだ。

「……走れる? ……麗華先輩」


麗華は、呆然としながらも、シンジの細い、しかし温かい手を握り返した。

泥に汚れた靴が、アスファルトを蹴った。

初めて、他人の温もりに触れた瞬間であった。


路地の裏側。

息を切らしながら辿り着いた、古いアパートの一室。

そこは、嘉納シンジが親に内緒で借りている「研究所」と称する、電子部品の山であった。


シンジは、麗華を座らせると、近くの自販機で買ってきた温かいコーンスープの缶を差し出した。


「……飲みなよ。……脳の糖分が足りないと、プライドなんてただのゴミにしか見えなくなるから」


麗華は、震える手で缶を受け取った。

温かい。

阿部倉の家で見せられた氷のような冷淡さとは、正反対の温もり。


「……嘉納くん。……どうして、私を助けたの。……あなたには、何のメリットもないはずよ」


シンジは、パーカーのフードを脱いだ。

嘉納シンジ。

後に、今中帝国の「数字の王」となる少年の、これが麗華との本当の出会いであった。


「……メリット? 冗談。……僕は、自分にとって最も期待値の高い『投資対象』が、こんなところで潰れるのを見逃したくなかっただけだよ」


シンジは、モニターに映し出された神宮寺コンツェルンの株価チャートを指差した。


「……神宮寺麗華。……君の父親は、組織に嵌められた。……でも、君という資産は、まだ死んでいない。……僕と契約しないか? ……僕の頭脳と、君の誇り。……これを使って、世界を買い戻してやるよ」


麗華は、温かいスープを一口、口に含んだ。

鼻の奥がツンと痛んだ。

真珠は消えた。

神宮寺の名は地に落ちた。

けれど、彼女は初めて、他人の慈愛という名の「抱擁」に触れた。


「……嘉納……シンジ……。……お生意気なことね」


麗華の瞳に、再び強い光が宿った。

それは、昨日までの特権階級の輝きではない。

泥の中から、自らの意志で立ち上がろうとする、一人の「人間」の輝きであった。


彼女の逆襲は、この六畳一間の安アパートから、静かに、しかし確実に始まろうとしていた。

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