サイドストーリー~麗華という女の子②~
漆黒のセダンが、雨の降り始めた都心を滑るように走った。車内には、安っぽい芳香剤の匂いと、男たちが発する無機質な威圧感が充満していた。麗華は、没収されたスマートフォンの代わりに、自分の膝の上で組んだ両手をじっと見つめていた。指先は氷のように冷たかったが、彼女は震えを見せることだけは断固として拒絶した。
「……どこへ連れて行くつもりかしら」
麗華の声は、静寂を切り裂くナイフのように鋭かった。運転席の男は、バックミラー越しに彼女を一瞥しただけで、答えなかった。その無礼な沈黙こそが、彼女がもはや「神宮寺の令嬢」ではないという現実を、何よりも雄弁に物語っていた。
車が停車したのは、港区にある高級マンションの前であった。かつて神宮寺コンツェルンの副社長を務め、父・大造が「右腕」と頼んでいた男、阿部倉の自宅であった。阿部倉は、麗華が幼い頃から誕生日ごとに高価な贈り物を欠かさず、父が不在の折には「第二の父と思ってください」とまで口にしていた人物であった。
「降ろしてください。ここなら、私の居場所があるはずよ」
麗華は、男たちがドアを開けるのを待たず、自ら外へ出た。冷たい雨が彼女の絹のような髪を濡らしたが、そんなことは些細な問題であった。彼女はフロントを通り抜け、見慣れたエレベーターに乗り込んだ。最上階のインターホンを押す指は、微かに躊躇ったが、すぐに強い意志で押し込まれた。
「……麗華お嬢様? どうしてこのような時間に」
現れたのは、阿部倉の妻であった。彼女は、神宮寺家のパーティーでは常に麗華の美しさを褒めちぎり、取り入ろうとしていた女性であった。しかし、今の彼女の瞳には、かつての媚びへつらうような光はなく、代わりに得体の知れない「不快感」が宿っていた。
「お父様が当局に……。住む場所も、すべて差し押さえられました。阿部倉さんに、お話があります」
麗華が言葉を終える前に、奥から恰幅の良い男が現れた。阿部倉本人であった。彼はパジャマの上にガウンを羽織り、片手にはブランデーグラスを揺らしていた。その姿は、麗華の記憶にある「忠実な部下」のそれとは、あまりにかけ離れていた。
「ああ、麗華くんか。騒々しいな」
阿部倉の声には、かつての敬意の欠片もなかった。彼は麗華を招き入れることさえせず、玄関先で立ち止まった。
「阿部倉さん、父の容疑は何かの間違いです。協力してください。神宮寺のネットワークを使えば……」
「ネットワーク? 笑わせないでくれたまえ」
阿部倉は、あたかも汚物を見るかのような視線を麗華に投げた。
「神宮寺大造は終わりだ。粉飾決済、横領、贈賄……奴が積み上げてきた悪行の数々を、私はすべて当局に報告させてもらったよ。私は被害者だ。あの暴君に無理やり加担させられていた、哀れな羊なのだよ」
麗華の思考が、一瞬だけ停止した。
目の前の男が、父を告発した。長年、父の側で甘い汁を吸い続け、恩恵を一身に受けていたこの男が、真っ先に船を降り、泥を投げつけたのである。
「……あなたが、お父様を裏切ったの?」
「裏切り? 心外だな。これは正義だ。神宮寺という巨大な癌を、日本経済から切除するための神聖な行為だよ」
阿部倉は、ニヤリと下卑た笑みを浮かべた。
「ところで麗華くん、君には行く宛がないのだろう? ちょうどいい。私の知人が、若い女性を求めている場所があってね。神宮寺のブランドが剥げ落ちる前に、その美しい容姿を売れば、少しは借金の足しになるかもしれないぞ」
その言葉が、麗華の耳に届いた瞬間。
彼女は、反射的に右手を振り抜いていた。
乾いた音が、豪華な玄関ホールに響き渡った。阿部倉の頬が、赤く腫れ上がった。
「……無礼者」
麗華の声は、地を這うような低音であった。彼女の全身を、かつてないほどの激しい怒りが支配していた。
「私が無一文になろうとも、お前のような犬に売る魂は持ち合わせていないわ。……その薄汚い顔、二度と私の前に晒さないことね」
「……この、落ちぶれが!」
阿部倉が激昂し、手を振り上げた。しかし、麗華は一歩も引かなかった。彼女の銀色の瞳には、死を恐れぬほどの鋭利な誇りが宿っていた。その気迫に気圧されたのか、阿部倉の手は空中で止まった。
「出て行け! 二度と敷居を跨ぐな! 警察を呼ぶぞ!」
背後で、重厚なドアが乱暴に閉ざされた。
麗華は、一人、冷え切った廊下に立たされた。
彼女の手のひらは、阿部倉を叩いた衝撃で痺れていた。しかし、それ以上に心が、氷の楔を打ち込まれたように痛んだ。信じていた人間、家族のように思っていた存在が、利害が一致しなくなった瞬間に、これほどまで無残な怪物に変貌する。その現実こそが、彼女にとっての本当の絶望であった。
麗華は、ふらふらとした足取りでマンションを出た。
雨は激しさを増し、彼女の自慢であった制服を無残に濡らしていった。都心の街明かりは、あたかも彼女の没落を嘲笑うかのように眩しく、そして冷酷であった。
彼女は、自分が持っている唯一の財産――首元に揺れる真珠のネックレスに触れた。それは母の形見であり、神宮寺の誇りを象徴するものであった。
「……誰も、いない。……私には、何もないわ」
麗華は、雨に打たれながら、あてもなく夜の街を歩き続けた。
神宮寺麗華という名を失い、住む場所を失い、信じる人間を失った。
彼女の足元には、高級な革靴が泥に汚れ、見る影もなくなりつつあった。
しかし、彼女の瞳からは、依然として涙は溢れなかった。
ここで泣いてしまえば、神宮寺麗華としての最後の矜持までもが、泥水に流されてしまうような気がしたからである。
彼女は、地下道の入り口へと避難した。そこには、新聞紙を被り、雨露を凌ぐ人々が肩を寄せ合っていた。昨日までの彼女であれば、決して視界に入れることさえなかった光景。
「……おい、お嬢ちゃん。そんな格好でどうした。風邪引くぞ」
声をかけてきたのは、薄汚れたコートを着た浮浪者の老人であった。麗華は、反射的に身を引いた。その「汚れ」に対する嫌悪感は、彼女の骨の髄まで染み付いた習性であった。
「……触らないで。汚らわしい」
老人は、ハハハと力なく笑った。
「汚れか。……お嬢ちゃん、あんたも今は同じ穴の狢だ。その真珠、高そうだが、今のあんたには重すぎるんじゃないか?」
麗華は、ネックレスを強く握りしめた。
重すぎる。
その言葉は、彼女の胸に鋭く突き刺さった。
神宮寺の名も、この真珠も、今の彼女にとっては、ただの重荷でしかなかった。それらを捨ててしまえば、どれほど楽になれるだろうか。しかし、それらを捨ててしまった自分に、何が残るというのか。
彼女は、冷たいコンクリートの壁に背を預け、ずるずると座り込んだ。
泥に汚れた靴。
濡れそぼった髪。
そして、暗闇の中で微かに光る、白磁のような真珠。
麗華の「裏切りの晩餐」は、一口も食べることも叶わず、ただ泥の味だけを残して終わった。
夜は、まだ始まったばかりであった。
彼女の本当の戦いは、この暗く、冷たい、他人の憎悪が渦巻く地上の底で、これから始まろうとしていた。
麗華は、瞳を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、父の笑顔ではなく、阿部倉の歪んだ顔であった。
彼女は、拳を握りしめた。
「……忘れない。この屈辱、一分一秒たりとも忘れないわ」
復讐ではなく、再興。
壊された誇りを、自らの手で組み直すための誓い。
神宮寺麗華の物語は、このどん底から、血を吐くような再始動の幕を開ける。




