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サイドストーリー~麗華という女の子~

神宮寺家の朝は、一滴の狂いもない静寂から始まる。


東京都内の一等地に広がる広大な敷地、その中心に鎮座する白亜の邸宅。神宮寺麗華は、職人が彼女のためだけに織り上げたシルクのシーツの中で、毎朝六時に正確に目を覚ました。窓の外には、朝露に濡れた完璧な幾何学模様の庭園が広がり、小鳥の囀りさえもが、神宮寺という巨大な資本に管理されているかのように規則正しかった。


「お目覚めですか、麗華お嬢様」


執事の老人が差し出す朝食は、あたかも世界中の最高級食材を「健康と美」という一貫した論理で整えた芸術品のようであった。麗華はそれを、一分の隙もない所作で口に運んだ。彼女にとって、食事も、学びも、ピアノの鍵盤を叩く指の角度さえも、すべては「神宮寺の正当なる後継者」という完璧なロールプレイの一環であった。


「お父様は?」


「はい。昨夜よりシンガポールの買収案件で発たれました。お嬢様によろしくとのことです」


麗華は小さく頷き、クリスタルのグラスに注がれた水を飲んだ。父、神宮寺大造。日本経済の心臓部を握るコンツェルンの総帥。彼にとって麗華は愛娘である以上に、神宮寺の血筋を次代へ繋ぐための「最高傑作」であった。麗華もまた、その期待に応えることこそが自分の存在理由だと信じて疑わなかった。


神宮寺コンツェルン。

その名は麗華にとって無上の誇りであると同時に、決して脱ぐことの叶わない黄金の鎧であった。学園へ行けば、周囲は彼女を一個の少女ではなく、歩く巨大資本として扱った。教師は成績に加点するために媚を売り、同級生たちは彼女の言葉一つに一喜一憂し、その特権的な地位を羨望の眼差しで、あるいは隠しきれない嫉妬の炎で見つめていた。


「……おはよう、麗華さん。今日のブローチ、とても素敵ね。やはり神宮寺家の目利きは、私たちとは次元が違うわ」


登校した彼女を囲むのは、同じく資産家の令嬢たちであった。しかし、その笑顔の裏側に透けて見えるのは、神宮寺の庇護を受け続けたいという卑俗な計算に他ならなかった。麗華はそんな彼女たちに対し、氷のような気品を湛えた微笑みを返しながら、心の中で冷徹に呟いた。


(……この者たちの親が経営する会社のうち、三社は来月には我がグループの傘下から外される。その時、彼女はどのような顔をして私に縋り付いてくるのか)


そんな冷めた視線を持つ彼女を、周囲は畏怖を込めて「氷の令嬢」と呼んだ。麗華自身、自分は一生、この孤独な高みで誰とも交わることなく生きていくのだと確信していた。


しかし、その「完璧な日常」は、ある一通の連絡によって呆気なく崩壊の序曲を奏で始めた。


放課後。いつも通り、校門の前には神宮寺家の家紋が刻まれた最高級の送迎車が待機しているはずであった。しかし、そこにいたのは、いつもの柔和な執事ではなく、見たこともない黒ずくめのスーツを着た男たちであった。


「……どなたかしら。運転手の佐藤はどうしたの」


麗華が鋭い声を放った。男たちは無機質な、どこか金属的な響きのする声で答えた。


「神宮寺麗華様ですね。……お父上は現在、当局の任意同行を求められました。我々が保護いたします。この車に乗ってください。安全のためです」


心臓が、一度だけ大きく、そして重く跳ねた。

麗華は震える指先を隠すため、制服のスカートを強く握りしめた。


「当局? 私の父が、何の容疑で」


「インサイダー取引、および巨額の脱税。……それだけではありません。神宮寺コンツェルンに関連する全資産は、現在、差し押さえの対象となっております」





放課後の校門前。多くの生徒たちが、驚愕と、そして隠しきれない期待に満ちた好奇の目でその光景を注視していた。昨日まで彼女を「女神」と崇めていた少女たちが、今はスマートフォンを向け、没落の瞬間を一秒たりとも逃すまいと録画を始めていた。


「……麗華、これってどういうことなの?」


さっきまで彼女のブローチを褒めそやしていた令嬢の一人が、一歩後ろに下がりながら、憐れみという名の残酷な嘲笑を浮かべた。


「信じられない……。私たちの学費、神宮寺さんのところの汚いお金で回っていたのかしら」


「所詮は成金の末路ね。気取っていたのが滑稽だわ」


周囲の視線は、瞬時に鋭い刃へと書き換わっていった。

彼女たちがそれまで麗華に対して抱いていた「劣等感」という名の歪んだ感情が、今、正義という名の免罪符を得て爆発したのである。


「……お黙りなさい」


麗華は、折れそうな膝を叱咤し、背筋を真っ直ぐに伸ばした。

たとえ泥を塗られようとも、たとえ明日から住む家がなかろうとも。彼女は神宮寺麗華であることを、一瞬たりとも、その魂の欠片さえも捨て去るつもりはなかった。


彼女は黒ずくめの男たちが差し出したドアに、自ら手をかけた。


「行きましょう。……ただし、私が座るのは後部座席よ。あなたたちの隣ではないわ」


車が走り出す瞬間、麗華はバックミラー越しに、自分の通った学園が遠ざかっていくのを眺めた。そこにはもう、彼女の帰る場所などどこにも存在しなかった。


車内で、男たちが事務的な動作で彼女のスマートフォンを没収した。


「お嬢様、これからは『神宮寺』の名は通用しませんよ。……あなたの持つ全てのクレジットカード、および銀行口座は凍結されました。今この瞬間、あなたは無一文です」


麗華は窓の外に流れる、無機質な東京の夜景を凝視した。

一滴の涙も流さなかった。彼女の胸にあるのは、父への心配以上に、これまで自分を支えていた「完璧な世界」がいかに脆い砂の城であったかという、凄絶なまでの絶望であった。


まさに暗転。


神宮寺麗華の、本当の地獄と、そこから立ち上がるための、血を吐くような戦いが今始まった。

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