第二十八話
理事長室に流れる空気は、物理的な質量を伴って今中みやびを押し潰そうとしていた。
窓の外、夕闇に沈みゆく学園の景色は、田中が提示したホログラムと重なり合い、どこまでが現実でどこからが「崩壊」なのか判別がつかない。
「……選びなさい、今中。お前がこのスイッチを押せば、お前が今日まで愛した『今中みやび』としての半年間は、すべてなかったことになる」
田中の声は、教師としての慈しみなど微塵も感じさせない、冷徹な観測者のそれだった。
みやびの指先が、机に置かれた無機質な黒いスイッチへと、震えながら伸びていく。
(……私が、この半年間で手に入れたもの。阿久津くんの無鉄砲な情熱。麗華さんの誇り高い優しさ。シンジくんの冷徹な知性。そして、カレン先輩の強欲なまでの生命力……)
それらすべてを「消去」すれば、世界各地で起きている空間の剥離は止まる。自分がこの世界に持ち込んだ異物――「未来の因果」を回収すれば、この2026年は、かつての自分が知る「正しい歴史」へと修復されるのだ。
「……私が、いなくなれば。みんなは、普通の高校生に戻れるのね」
みやびの瞳から、銀色の涙が一筋こぼれ、スイッチの表面に落ちた。
その瞬間だった。
バォォォォォン!!
理事長室の重厚なマホガニーの扉が、物理的な衝撃波によって粉々に粉砕された。
舞い上がる木片と煙を切り裂いて、一人の少年の怒号が響き渡る。
「……るっせえんだよ、クソ教師!! 勝手に『卒業式』始めてんじゃねえぞ!」
肩に無骨な『参号機・改』を担ぎ、煤だらけの顔で仁王立ちする阿久津の姿があった。その背後には、神宮寺の家紋が刻まれた短剣を抜き放った麗華、三台のスマートフォンを空中に浮かせたカレン、そしてトランプを指に挟んだシンジが続いている。
「……阿久津くん……みんな……どうして……」
「どうして、じゃないわよ、みやび!」
麗華が、みやびの前に立ちはだかり、田中を鋭く睨みつけた。
「ネクサス・コアの監視網を抜けてここへ来るのが、どれだけ大変だったと思っているの? あなたが一人で『清算』をしようとするなんて、神宮寺の令嬢に対する最大の侮辱だわ!」
「……今中さん。計算違いだよ」
シンジが、冷ややかに田中を見据えながらノートパソコンを開いた。
「あなたがスイッチを押して因果を消去したとしても、僕たちの脳内に刻まれた『異常な半年間』の記憶は消えない。脳細胞のニューロン接続を物理的に書き換えない限り、僕たちは『普通』には戻れないんだ。……つまり、あなたの自己犠牲は数学的に無意味だ」
田中は、愉快そうに肩を揺らした。
「……ほう。仲間たちが揃ったか。だが阿久津、お前たちがここに来るために使った『参号機』のエネルギーこそが、世界の崩壊をさらに加速させている。自覚はあるか?」
「……知るかよ、そんなこと!」
阿久津が参号機のトリガーを強く握り直した。
「世界が壊れるなら、俺がこの手で直してやる! 物理法則がバグってるなら、デバッグしてやるよ! そのために俺たちは、一〇兆円もの資金と、三田村のクソ親父まで味方につけたんだ!」
カレンが、田中の鼻先に中指を立て、一〇兆円の残高画面を空中に投影した。
「……あんたの提示した『世界の終わり』、あまりに安っぽすぎて欠伸が出るわ。……いい? 田中。この世界はもう、私たちの『所有物』なのよ。勝手に店を畳もうなんて、オーナーである私が許さないわ」
みやびは、震える手でスイッチから指を離した。
自分の後ろに並ぶ、不完全で、騒がしくて、愛おしい人間たち。
未来の「九条」が、決して得られなかった「最悪の仲間」たち。
「……そうね。……田中先生。交渉は決裂よ」
みやびがゆっくりと立ち上がった。彼女の全身から、これまでのような「静かな調律」ではない、激しい白銀の奔流が溢れ出した。
「私は世界を買い取る。けれど、それは独裁のためじゃない。……壊れゆく世界さえも丸ごと『調律』し、この仲間たちと一緒に生きていくためのコストとして、買い叩かせてもらうわ!」
みやびの瞳が、完全に銀色の輝きを取り戻した。いや、それは以前の「冷たい銀」ではない。仲間たちの熱を受け取り、黄金色さえ混ざり始めた、新たな調律師の輝きだった。
田中は、しばらく無言でみやびを見つめていたが、やがてフッと溜息をつき、広げていたアルバムを閉じた。
「……卒業試験、不合格だ、今中。……だが、それこそが私の見たかった『解答』かもしれないな」
田中が指を鳴らすと、室内のホログラムが霧散し、夕陽が差し込む元の静かな理事長室に戻った。レンとエリカも、いつの間にか気配を消している。
「……行け。学園という檻は、もはやお前たちの器には小さすぎる。……だが忘れるな。お前たちが進む先は、今日までの数字の遊び場ではない。……剥き出しの憎悪が渦巻く、本物の『現実』だ」
数時間後。
聖ガバナンス高校の校門前には、三田村康介が手配した漆黒の大型ワゴンが、エンジンを唸らせて待機していた。
四人は、それぞれ最小限の荷物と、自分たちの半年間の結晶であるデバイスを抱え、夜の校舎を振り返った。
「……本当に、行っちゃうのね。私たち、まだ高校生なのに」
麗華が、少しだけ寂しげに呟いた。
「……高校生活は『休学』よ。……長期休暇みたいなものね」
みやびが、麗華の手を優しく握った。
「……よし! 行こうぜ! 目的地は、埼玉県日野市! 日本の製造業の墓場にして、俺たちの帝国の『造船所』だ!」
阿久津の声と共に、ワゴン車が急発進した。
車内では、カレンが既に次の買収対象である「佐藤精密工業」の財務状況をスマホで精査し、シンジは組織の追跡を逃れるための虚偽通信を世界中に散布し始めていた。
みやびは、窓の外を流れる東京の明かりを見つめていた。
自分の右腕には、まだ因果の過負荷による熱が残っている。
けれど、その痛みさえも、今は心地よかった。
(……九条。あなたは一人で世界を救おうとして、孤独の中で終わった。……でも、私は違う。……私は、この欲張りな仲間たちと一緒に、壊れゆくこの世界を、最高に贅沢な場所に作り替えてあげる)
第一期終了。サイドストーリーを次からはじめます。




