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サイドストーリー~麗華という女の子⑤~

新宿の地下に潜み、嘉納シンジの演算と神宮寺麗華の度胸が火花を散らした一週間。それは、二人の中学二年生にとって、数十年分もの人生を凝縮したような濃密な時間であった。


シンジの組んだアルゴリズムは、世界中の金融市場の「僅かな歪み」を、ダークマターの波形をなぞるように正確に射抜いた。麗華は、かつて父の側近たちが交わしていた暗号のような会話を思い出し、投資対象の背後に潜む「人間の欲」を読み解いた。

軍資金の三〇〇万円は、複利の魔法とレバレッジの暴力によって、モニター上の数字を狂ったように書き換えていった。


「……一億。確定だね」


シンジが、充血した瞳でエンターキーを叩いた。

メインモニターには、タックスヘイブンを経由して洗浄された、完全なる自由資金「一〇〇、〇〇〇、〇〇〇円」の数字が冷酷に表示されていた。


麗華は、パイプ椅子に深く腰掛け、天井を見上げた。

真珠を売って手に入れた汚れた五万円を奪われた、あの路地裏の屈辱からわずか数日。彼女は再び、一国のあるじに匹敵する「弾丸」を手に入れたのである。


「嘉納くん。これで、お父様を救えるのかしら」


麗華の声には、一〇〇億を動かした後のような昂揚感はなかった。代わりにあったのは、冷徹な現実主義者としての響きであった。


「……金だけじゃ足りない。麗華、残念だけど、事態は僕の予測を上回る速度で悪化している」


シンジが、別のモニターに映し出された内部情報を指差した。それは、父・神宮寺大造が収容されている東京拘置所の管理システムから、シンジが違法に抜き出した極秘ログであった。


「……お父上の食事メニューと、投薬記録が不自然に書き換えられている。……『組織』は、裁判を待つつもりはないらしい。獄中での、心不全を装った暗殺計画だ。実行は、明朝の午前六時」


麗華の心臓が、凍りついたように止まった。

阿部倉の裏切り、財産の没収。それらはすべて、父を抹殺し、神宮寺の血筋を絶やすための「序曲」に過ぎなかったのだ。


「……今すぐ、拘置所へ行くわ」


「無理だ。正面から行けば、君も捕まるだけだ。……麗華、これを見て」


シンジが提示したのは、拘置所の警備システムを一時的にマッピングした三次元モデルであった。


「僕が一億の半分を使い、暗黒サイトで『清掃員』のリーダーを買収した。……明朝五時五〇分、北側の監視カメラが一分間だけループ映像に切り替わる。その隙に、君がお父上に面会し……あるいは、彼を連れ出すしかない」


「……私が行くのね」


「君じゃなきゃダメなんだ。神宮寺大造という男は、たとえ死の淵にいても、他人の言葉は信じない。……自分の血族である君の言葉でなければ、彼は動かない」


麗華は、立ち上がった。

足元には、まだ泥に汚れたあの高級靴が転がっていた。

彼女は、シンジのデスクにあった無機質な裁ち鋏を手に取った。


「……麗華? 何を……」


麗華は迷いなく、自分の背中まで届いていた美しい黒髪を掴み、根元から一気に切り落とした。

絹を裂くような音が室内に響き、神宮寺の令嬢としての「象徴」であった長い髪が、埃っぽい床にハラハラと落ちていった。


「……神宮寺麗華は、あの夜に死んだわ」


切り揃えられた、鋭利なショートヘア。

鏡に映った自分の姿を、麗華は冷徹に見据えた。

そこには、守られるべき少女の面影など微塵もなかった。

あるのは、奪われたすべてを奪い返すために、地獄から這い上がってきた「帝王」の眼差しであった。


「嘉納くん。残りの五〇〇〇万、すべて使いなさい。……明朝、東京中のネットワークをパニックに陥れて。……私がお父様を救い出す、その瞬間のための『目眩まし』に」


「……了解。……期待値は五〇%を切るけど、君なら……その数字を書き換えるだろうね」


二人は、拳を合わせた。

同じ中学の制服を着た、不釣り合いな共犯者たち。


翌朝、五時五〇分。

小雨の降る東京拘置所の北側。

麗華は、清掃員に変装し、冷たい鉄格子の中に足を踏み入れた。


シンジが仕掛けたハッキングにより、電子ロックが次々と解錠されていく。

最深部の独房。

そこにいたのは、わずか一週間で痩せ細り、しかし瞳の奥にだけは消えない焔を宿した、父・神宮寺大造の姿であった。


「……お前、麗華か。……その髪、どうした」


「お父様。……お迎えに上がりました。……神宮寺の再興は、ここから始まります」


麗華が父の手を掴んだ瞬間、拘置所の警報が一斉に鳴り響いた。

シンジが放った「情報の毒」が、東京中のインフラを一斉に麻痺させ、通信網をパニックに陥れたサインであった。


混乱の中、麗華は父を支え、闇へと消えた。

背後では、組織の追っ手たちが無残なノイズの中で立ち往生していた。


新宿の雑居ビルの屋上。

朝焼けが、東京の街を赤く染め上げていた。

麗華は、父を安全な隠れ家へと送り届けた後、一人で空を見上げた。


「……終わったわね、嘉納くん」


「……いいえ。……始まったんだよ、麗華。……僕たちは今、世界という盤面の『外側』に立ったんだ」


シンジが、隣でノートパソコンを閉じ、初めて穏やかに微笑んだ。


神宮寺コンツェルンは消滅した。

しかし、ここに「神宮寺麗華」という名の、一兆円の価値を持つ個人システムが誕生した。

彼女は、もはや令嬢ではない。

数字を武器に、因果を調律し、いつか現れる「神」今中みやびを支えるための、最強の盾となる少女。


「……行きましょう。……買い取りに行かなければならないものが、まだたくさんあるわ」


麗華は、切り落としたばかりの短い髪を風に靡かせ、凛として歩き出した。

泥に汚れた靴は、もう履いていない。

彼女が踏み締めるアスファルトは、もはや彼女を拒絶する「地獄」ではなく、彼女が支配すべき「領土」であった。


帝王の夜明け。

それは、中学二年生の二人が、この腐った世界に叩きつけた、最初にして最大のリセットボタンであった。

第一章完結~。少し休んでから第二章いきます。

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