第二十六話
茶碗の縁から立ち上る湯気は、もはや温かな水蒸気ではなく、情報の粒子を含んだダークマターの奔流。
三田村康介は、震える手でその茶碗を掴んだ。彼は、これがただの飲み物ではないことを本能で理解している。これは、目の前の少女が背負っている「未来」という名の、あまりに重すぎる遺言なのだと。
「……飲むがよい、三田村康介。お前が守ろうとしている『今日』の価値を、私の『明日』と照らし合わせるがいい」
みやびの声は、まるで数万光年の彼方から届く星の瞬きのように冷たく、そして慈愛に満ちていた。
康介は覚悟を決め、その銀色の液体を一口、喉へと流し込みこんだ。
瞬間、彼の視界から茶室の壁が崩れ落ちていった。
「――っ!?」
康介が見たのは、黄金色に輝く三田村の栄光ではなかった。
そこにあったのは、彼が命懸けで守ってきた製鉄所の高炉が冷え切り、巨大な造船所が錆び付いた骸となって砂漠に沈んでいる、凄惨な未来の景色だった。
そして、その廃墟の上を、音もなく浮遊する銀色の機体……みやびが「九条」であった時代に統括していた、美しくも無機質な『帝国』の尖兵たちが、整然とパトロールしている光景だ。
「……これが、お前の目指す世界か、今中みやび……!」
康介の意識が、情報の濁流の中で叫んだ。
「人が、汗を流すことを止め、歴史を、誇りを捨て、ただ『最適化』という名の飼い殺しに遭う世界! これが……これがお前の言う『平和』なのか!」
視界の端で、みやびの影が重なる。彼女は、燃え盛る三田村の社旗の前に立ち、悲しげに首を振った。
「……違うわ、三田村さん。これは、私が『調律』しなかった場合の、一つの終着駅よ。……あなたが伝統に固執し、変化を拒み続けた結果、外側から現れた『本当の悪意』――ウォーレンや、その背後の組織に食い破られた後の、抜け殻の姿よ」
みやびの手が、康介の精神にそっと触れた。
「……三田村さん。あなたは強い人。だからこそ、自分の死後も、三田村という歯車がこの国を回し続けると信じている。……けれど、その歯車はもう、未来の質量に耐えられないほどに摩耗しているの」
三田村康介の脳裏に、自らが築き上げてきた数々の功績が走馬灯のように駆け巡る。
戦後の焼け跡から立ち上がり、油に塗れてボルトを締め、この国を世界一の工業国へと押し上げた職人たちの汗。それを束ね、政治と経済の荒波を越えてきた三田村の自負。
それら全てが、みやびが提示する「銀色の論理」の前では、あまりに脆く、前時代的な遺物に映った。
その時、現実の茶室では、異変が起きていた。
「……おい、麗華さん! 参号機の出力がレッドゾーンだ! 茶室の空間重力がマイナスに転じ始めてるぞ!」
地下倉庫で阿久津が絶叫した。
みやびの精神が康介の「過去」と深くリンクしたことで、ダークマターの共鳴が臨界点を超え、茶室建物全体が数ミリメートル、畳ごと浮上し始めていたからだ。
「みやび……! やめて、これ以上はあなたの肉体が保たないわ!」
麗華が駆け寄ろうとしますが、茶室を覆う「因果の膜」が彼女を拒絶する。
茶碗を飲み干した康介は、虚脱したように畳に手をつきました。
彼の目には、もはや傲慢な権力者の光はなかった。ただ、自分の寿命が尽きたことを悟った、一人の老いた「開拓者」の顔があった。
「……お前は……お前は、この私に……引導を渡しに来たのだな」
「……いいえ。……三田村という歯車を、未来でも回し続けるための『メンテナンス』に来たのよ」
みやびは、膝をつき、康介の皺刻まれた手を優しく包み込みこんだ
「……三田村さん。あなたが守ってきた伝統は、私が買い取るわ。……そして、それを私の帝国の『心臓』として組み込む。……職人の意地も、日本人の矜持も、捨てさせはしない。……ただ、そのやり方だけを、私に預けてほしいの」
三田村康介は、みやびの銀色の瞳をじっと見つめた。
そこには、自分を滅ぼそうとする敵の冷酷さではなく、崩れゆく巨大な建物を、自分の細い肩で支えようとする少女の、狂気じみた献身があった。
「……ククッ、ハハハ……」
康介の喉から、乾いた笑い声が漏れました。
「……三〇〇〇億の負債を消した次は、御三家の長を……『介護』しようと言うか。……不遜な。……あまりにも不遜な娘だ、お前は」
三田村康介は、震える力でみやびの手を握り返した。
「……いいだろう。……三田村康介の一世一代の賭けだ。……お前の言う『未来』。……この老いた眼が黒いうちに、一度だけ見せてもらうとしよう」
茶室を包んでいた高周波が、ふっと消えた。
浮き上がっていた建物が、重厚な音を立てて再び地面へと着地する。
竹林のざわめきが戻り、遠くでカラスが鳴いている。
「……パーツは、明朝届くように手配する。……それと、三田村が持つ全物流ルートのアクセス権だ。……好きに使うがいい」
三田村康介は立ち上がり、外套を羽織りました。その背中は、入ってきた時よりもどこか小さく、しかし、重荷を下ろしたかのように軽やかだった。
「……麗華。……お前の父は、いい娘を残したな。……だが、今中みやび。……お前がもし、その『優しすぎる独裁』に耐えられなくなった時……その時は、迷わず私のところへ来い。……老いぼれの隠居部屋くらいなら、貸してやれる」
三田村康介は、一度も振り返ることなく躙口を抜けていった。
茶室に残されたみやびは、そのまま畳に倒れ込んだ。
銀色の髪が、その先から白く褪せていく。
「……みやび!」
駆け寄った麗華の腕の中で、みやびは満足げに、しかし弱々しく微笑んだ。
「……交渉、成立よ。……阿久津くん……これで、ようやく『本物』が作れるわね……」




