第十八話
「……反応が出た。正面、海堡の地下三〇メートル。一〇億円分のデジタル・パルスが、ここで完全に『事象の地平線』に飲まれている。間違いなく、ここがエリカの、いや組織のハブだ」
阿久津が、ゴーグルの奥の目を血走らせながら呟いた。
彼の手元には、今回、みやびの「脳内設計図」を無理やりハードウェアに定着させた新兵器である『対消滅指向性放射器』が握られている。
それは、既存の物理学では説明のつかない、ダークマターを臨界点まで圧縮して叩きつける「因果の弾丸」を放つ装置だった。
「阿久津くん、充填率は?」
みやびが、ボートの先端で風を受けながら尋ねる。
「……現在八五%。今中さんの精神同調が必要だ。僕の基板じゃ、この高密度ダークマターを保持しきれない」
「わかったわ」
みやびはボートの甲板に膝をつき、阿久津のデバイスのコア部分にそっと指を触れた。
瞬間、彼女の意識は電子の海を越え、空間そのものの「粘り気」を掌握した。
未来の「九条」だった頃、彼女はこれを惑星規模の質量兵器として使っていた。それを今、この小さなプラスチックと銅線の箱の中に、精巧な細工のように押し込んでいく。
「……麗華さん、周辺の監視網は?」
「ネクサス・コアの全サーバーを使って、この海域の全衛星データを『静止画』に差し替えたわ。警察も海上保安庁も、今夜この場所で何が起きるか知る由もない。……柳たちの残党が放った潜水ドローンも、シンジくんが全部『自己崩壊』のアルゴリズムを流し込んで沈めたわよ」
麗華の声は、以前のような震えはなかった。失った一〇億円を「囮」にして敵の本拠地を炙り出す。その冷徹なまでの計略は、かつての神宮寺コンツェルンが持っていた「商機を逃さない非情さ」そのものだった。
「……来たよ。確率変動、マイナス一〇〇%。……消去者がお出迎えだ」
嘉納シンジが、トランプを一枚、海に投げ捨てた。
カードが海面に触れる直前、それは燃えることも沈むこともなく、一瞬で「存在そのものが消去」された。
霧が晴れた先、コンクリートの桟橋に、白河エリカが立っていた。
彼女は昼間と同じ、清楚な制服姿のまま、感情のない瞳でボートを見下ろしている。
「……今中みやび。わざわざ一〇億円を捨ててまで、自分自身の消滅を急ぐなんて。……あなたは、この世界の計算を狂わせすぎた」
エリカが、ゆっくりと右手を掲げた。
その瞬間、ボートを包んでいた海風が止まり、波の音が消えた。
絶対的な無音。
エリカの周囲から広がる「漆黒の領域」が、物理現象そのものを飲み込んでいく。
「阿久津くん、撃って!」
「おうよ! 喰らえ、バグ取り野郎! ……対消滅パルス、発射ぁ!」
阿久津がトリガーを引くと、ライフルの銃身から、目に見える光ではなく、空間そのものが「裂ける」ような衝撃波が放たれた。
それはエリカが展開する「虚無」の領域に正面から衝突した。
「――っ!?」
エリカの表情が、初めて崩れた。
彼女の能力は、存在する力を「零」にすること。だが、みやびが放ったのは、あえて「崩壊」を前提として過充填された、自壊するエネルギーの塊だ。
零にしようとする力が強ければ強いほど、その反動でダークマターが暴走し、虚無を内側から食い破る。
パギィィィン!
ガラスが砕けるような轟音が響き、エリカの「黒い領域」に、虹色の亀裂が走った。
「……信じられない。私の『無』を、不純物で汚すなんて……」
エリカがよろめいた隙に、みやびはボートから飛び降り、桟橋に降り立った。
彼女の全身からは、銀色のダークマターが溢れ出し、即座に自身の背後に三人の仲間を守るための広大な壁を形成した。
「黒い盾」。
それは防御ではなく、世界を自分たちの色で「書き換える」ための聖域だった。
「……エリカ。あなたは『平和のために消す』と言ったわね。けれど、あなたの後ろにいるのは、そんな高潔な組織じゃないわ」
みやびは、エリカの背後にそびえ立つ海堡の入口を見据えた。
そこには、中学時代の恩師、田中。そして、図書室で会った九条レンの姿があった。
「……やあ、今中。素晴らしいチームプレーだ。一〇億円を失っても、それ以上の『データ』を我々に提供してくれた。……対消滅理論の、実戦データだ」
田中は、タブレットを片手に、満足げな笑みを浮かべていた。
「エリカは、お前を止めるための道具ではない。お前の力を『抽出』するための、触媒に過ぎないんだよ」
みやびの背筋を、冷たい戦慄が走った。
一〇億円の損失、エリカとの対決。それらすべてが、田中の組織による「実験のシナリオ」の内側だったのだ。
「……ふざけないで。私たちは、あなたの実験動物じゃないわ!」
麗華が叫び、シンジが演算によって敵の防衛システムの「隙」を見つけ出そうとする。
だが、レンが静かに一歩前に出ると、その場のすべての緊張が霧散した。
「……今中さん。君はもう、買い取らざるを得ないはずだ。この場所にある、君の『前世の欠片』をね」
海堡の奥から、重厚な機械音が響き渡った。
それは、みやびがかつて未来で愛用し、自分と共にこの時代へ流れてきたはずの、ダークマター制御の中枢ユニット・・・通称『クロノス・コア』の起動音だった。
「……なぜ。なぜ、あれがここにあるの……?」




