幕間 『氷花と葛』
──あれを愛と呼ばず、何を愛と呼ぶのだろうか。
*
こがらし亭の温泉は今どきとして男女に分かれているが、露天風呂は混浴となっている。ので、氷花はいつものようにキチンとタオルを胸元に巻いて隠す部分を隠し、そのまま外の空気に当たろうと露天風呂へと向かって行った。
『雪女』という特性上、氷花は逆上せやすい。だからお風呂に入るときは涼しい風に浴びたいのだ。昨今の夏は決して涼しいだなんて言えないが、それでも夜だった場合は屋内より屋外の風呂のほうが涼しい……はずだ。
「ふふっ。葛に友達かぁ」
思い浮かべるのは自身の弟が連れてきた二人の来客。黒髪の少年と……少年女だ。片方にはおそらく明確な性別がないために少年女だなんて表記になってしまうが、そこは御愛嬌。
氷花にとって喜ばしいのは弟の変化だ。──あの、氷のように固く心を閉ざした葛が、こうして友と堂々ではなくとも、そう言い切れる存在がいるのが、心の底から嬉しい。
高校に入学する前に母と父によく葛は相談していた。どうすれば、と。どうすれば、誰かと触れ合えるかと。
「──それすらも、贅沢なのよねぇ」
手で露天風呂の温度を確認しながら、そう思う。
──『雪女』という種族は、古来より、見たもの全てを氷漬けにするかのような美しさと恐ろしさを兼ね備えている妖怪だ。そして、それある意味なんら誇張されていない話でもあると、『先祖返り』を起こした氷花は言い切れる。
──『雪女』に、触れることはできない。たとえ布の一枚でも距離がなければ、触れたもの全てを凍てつかせてしまう。
「お風呂に入れるのは、できてよかったわぁ」
タオルを巻いているからか、熱い水の中だからか。その真相は定かではないが、けれどもこうして素肌に触れている温泉が凍らないのは事実である。
──直接、誰も触ることができなかった。双子としてこの世に生を受け、互いしか、触れ合うことが許されなかった。
今でこそ氷花は完全とは言わずとも自身の力をある程度はコントロールできる。けれども、幼いときはその未発達が顕著であった。誰も彼も、避けていく。……それが、葛の心にどれほどの傷を残したのか。
「──。誰も悪くない、誰も憎めない……それってきっと、なによりも地獄よねぇ」
誰かを嫌えたら、誰かを呪えたら。そんな誰かが、いなかった。『先祖返り』は魂によって引き起こされるものであり──決して産んだ母が悪いわけでは絶対にないのだ。
だから、葛は心を閉ざしたのだろう。友人を作らず、極力誰とも関わらず。避けて、避けて、避けて。──明るい子、だったのに。
「……葛」
*
──それは、十年ほど前の出来事だった。
「うわぁあん!! おかあさん! おねえちゃんがイジメる!」
「えー? なんで? ちょっとこおらすって、わたしいったよ?」
「こら、氷花。あのね、言う言わないにしても誰かの足を氷漬けにするなんて……駄目に決まってるでしょう!
「え? え? なんで? わかんないよ、おかあさん。だって、ちょっとつめたいんだよ? すずしくて、きもちいいいよ?」
「……はぁ。そうね、確かに涼しくて……いいのかもしれない。でもそれは、相手が良いよって言わなきゃ、絶対に駄目」
「うーん、わかった!」
「ぜったいなにもわかってない! おねえちゃんのバカっ!」
言うならば、日頃の鬱憤が溜まっていたのだろう。ここ一週間でも手足の凍結、氷で生成した氷柱の一番上に置いて自分は降りる、他にもその悪行は多々あり、ついに葛も限界に達してしまったのだろう。小さな子供の知ってる限りの語彙で葛はどうにかこうにか氷花を罵倒しようとする。
「……? あそぼうよー、つずら」
「ほらっ! おかあさん、なんもだめ!! ひょうかだめ!! もう、ぼくいくから!」
そう言って葛はどこかへと走り去っていった。
「はいはい。まったく、妖怪を指ささないの。……じゃあ氷花はちょっとお部屋に行ってきてくれない? わたし、忘れ物しちゃってね、取りに行ってほしいの」
「わかった!」
元気いっぱいに、先程まで自身の弟の弟の腕をなんとなくで凍結させていた少女の声が響く。それに対して葛は睨むように目線を送っていたが、そんなのを気にする少女ではない。
そうして氷花はその後に少しだけ会話をし、そして母の部屋に向かおうと旅館でも北原家と従業員の生活するエリアへと向かう。──そこで、影が動くのが見えた。
影単体で存在するわけがない。影があるということは、そこには誰かがいるということだ。
「……つずら?」
──厨房に、どこかこそりと動く弟が見えた。
けど、ここで話しかけたらきっとまた怒られてしまうことだろう。だから氷花もまたこっそりと忍ぶことにした。
「……? おかし?」
葛はどうやら厨房の棚にあるお菓子を取りたいようだ。だから中にいる大人の目に触れないようにそもそも小さい体をさらに縮めてバレないように動いている。
「よい、しょ」
そんな声と共に厨房にある机から葛はでて──
「──ッ、あぶない!!」
「ぇ、──」
机を出る時に、ゴツンと、葛の頭がぶつかった。──コンロのある、所に。どことなくやかんが寄っていたのか、子供がぶつかった小さな反動で鍋はひっくり返ろうとして──
「…………ぁ、? おねえちゃん?」
──一人の少年を、一人の少女が抱きしめていた。床に倒れ込み、音を立ててやかんが床に落っこちた。
「っ、ああぁああああぁあああ────ッ!!」
「ぐ、ぅうああああぁああ!」
子供の喉から、甲高い悲鳴が発された。ジュウ、と肉が焼けた音と共に痛みを自覚したからだろう。
「──!! ──、────!」
「──。──!!」
「────! ──」
厨房にいる大人の声がうるさくてたまらなかった。なんて言ってるのかも、わからなかったし、だまって、ちがう、そんなひどいことがいいたいんじゃなくて、いたい、弟が、大丈夫か、いたいいたい、なにがどうなって、いたいいたいいたいいた、どうなって、せなか、いた、いたいいたいいたいいたいたいいたいたいいたああああああああああああああああああ
「──お、ねぇ、ちゃ」
「──ぁ、」
氷がお湯に寄って溶けるみたいに、簡単に氷花と葛の体は損傷した。それは『雪女』であるから、だろう。──やかんが落ちる直前に抱きしめたからか、氷花の背中に湯がかかり、そして手を伸ばしていた葛の手にもまた火傷だできている。
痛みでどうにかなってしまいそうな頭を無理やり整理しながら、氷花は口を開き──
*
──果たして、あの後に自身はなんと言ったのだろうか。痛みによって朦朧としていたので、今となっては何を口走ったのか氷花には思い出せない。
けど、あの事件がきっかけだろうか。葛が火を、温かいものを異様に避けるようになったのは。今でこそなんとか乗り越えたように見えるが、それでもその心にはくっきりと傷が刻まれている。
そして、あれは小学校の頃だろうか。事件が起きた。──理科の実験で、火がカーテンかなにかに伝播し、危うく火事になりかけたのだ。
──けれど、その火は全て消し止められた。その部屋にいた全てを氷漬けになるという、そういった結末によって。
『──ごめん、なさい』
その場にいた妖怪も、先生も、凍った。幸いにも未熟な『術』であったので『術封じ』のお陰で助かったが、そこから葛は他社との関係を極力絶とうとしてはいたのだろう。流石に、そういったことは察せた。
──今でも、氷花の背中には消えぬ火傷が残り続けている。それを責めるなんて、絶対にしない。だって、自ら望んでああして葛を助けたのだ。それを今更恨んで、詰めるだなんてのは筋違いも良いところだろう。
だから、氷花は願うのだ。──あの幼き日の記憶を、いつか葛が真の意味で向き合い、乗り越えることを。
*
「──言わないよ。俺は馬鹿だなんて、言わない。そりゃ子供が大人からすれば、今の自分からすれば幼いのは当然だよ。でも、──幼さは、罪なんかじゃない」
「──この火傷は治らない、かもしれない。でも、それを恥なんかにしちゃ、駄目だよ」




