宿酔
昼どきの子生の宿場は、ひどく雑然としていた。
水戸街道を行き交う旅人、年貢米を運ぶ馬、商いの途中で足を止めた近在の百姓――
誰もが長居をする気はなく、ただ日差しをやり過ごすためだけに、この町に腰を下ろしている。
茶屋の縁台には、汗ばんだ旅人が腰を下ろし、無言で団子を頬張りながら、通りをぼんやりと眺めていた。
この宿場は、目的地ではない。
誰もがそれを知っているからこそ、町全体が、どこか腰の据わらぬ顔をしている。
油蝉がやかましく鳴いている。
下村嗣次は、ひどい頭痛に悩まされていた。
先ごろ、同門の戸賀崎芳栄が弘道館の剣術師範として仕官することになり、昨日は剣術の師である木村定二郎を交え門下有志で簡単な祝いの席を設けた。
「くそ、まだ痛てえ。痛飲てのは、よく言ったもんだな」
下村たちは、戸賀崎と別れたあとも河岸を変えて朝まで飲み続け、店を出たときにはもう陽も高かった。
同郷の平間重助と水戸を出た下村は、子生村の茶屋にようやくたどり着くと、縁台につっぷした。
「相変わらず、酒の席となると歯止めが効かない」
平間重助は茶屋の娘が持ってきた湯呑を下村に指し出すとあきれたように言った。
「…っせえな!」
下村はひったくるように湯呑を受け取って一息に飲み下した。
茶屋の軒先から滴り落ちた打ち水の跡が、瞬く間に乾いて白くなっていく。
その様を眺めながら、下村は口の中に残る酒の苦味を吐き出すように乾いた咳をした。
平間は下村の生家芹沢家に使える御用人の息子で、二人は幼馴染だった。
「だから来たくないと言ったのだ」
平間自身は下村から剣術の手ほどきを受けていたため、弟子筋とは言え、昨夜集まった面々は顔なじみのない者ばかりだった。
「言ったろ?せっかくだから、おめえを先生方に面通ししておこうと思ったんだよ。こういう機会でもなきゃ、木村先生や戸賀崎先生と顔を会わすこともねえだろうが」
平間は下村に誘われて芹沢村を出るときから、この言い分に腑に落ちないものを感じていた。
そもそも下村はそうしたことに気の回る性質ではなかった。
「その恩師、戸賀崎先生から頂いた『濃州住志津三郎兼氏』を、酔った勢いでどこぞの餓鬼にくれてやったことは覚えてますか」
「ふん」
下村はうつ伏せたまま、眼だけをギロリと平間の方へ向けた。
「なんだか知らねえが、あんなスカした刀に未練はねえよ。刀ってのは人を斬るためにあるんだ」
下村は身を起こすと、腰の長刀に眼をやり、何を思ってか、満足げな笑みを浮かべた。
「まるでこれから人を斬りにいくような言い草ですな」
下村はしばらくの間、平間の顔をじっと見つめていたが、やがておもむろに口を開いた。
「…おめえよ。ヒトを斬れるか?」
平間は少し驚くと同時に、妙に得心した。
下村が自分を伴った本当の理由はこちらの方なのだ。
「どういう意味です」
「おれぁよ、これから下総まで脚を延ばすつもりだ。実は、もう一仕事あってな。その件で、いまから人と会う。ちっとばかしヤバい仕事だ。その気がないなら、おまえはここから一人で先に帰れ」
まるで花見にでも誘うほどの調子だった。
平間は厄介なことに巻き込まれたと顔をしかめ、と同時に気付いた。
「…あの連中か?」
下村の肩越しに、茶屋から少し離れた松の木の方を、平間重助は顎で指した。
松の木の袂に、目つきの悪い男が二人。
一人は、とてつもなく大柄な男だ。
「そのようだ」
下村は鉄扇をパチンと閉じ、軽く膝を打った。
「何者です?まるで力士だ」
「力士崩れってやつさ」
平間は、いつの間にか自分が後に引けない立場に置かれている事に気付いた。
下村には、平間の意思を質す気などさらさらなかったのだ。
「ほんと言うとよ、おれぁ、あのブクブク太った力士ってやつが大嫌いなんだ。けど、ま、仕事だからしょうがねえ」
「神官の息子の言葉とは思えんな」
平間は溜息を吐き、観念した。
同じ日。
鈴木琴と亀は、舞踊の稽古を終え、上総屋への帰り路を歩いていた。
「お亀ちゃんてすごいわ」
踊りの苦手な琴は、今日も師匠から散々に扱き下ろされ、打ちひしがれていた。
亀がクスクスと笑った。
「わたしがお琴ちゃんより上手なのは、踊りだけじゃない」
「そうじゃない。あたしね、ズルしてる。他のは、ちょっと習ったことがあるだけ」
最近、ようやく亀とも打ち解けてきた琴は白状した。
「そっか、お琴ちゃんの家は、お武家さまだもんね」
二人が最後の辻を曲がると、上総屋の裏口で、遣り手のうめが中年の男と言い争いっているのが見えた。
内容は聞き取れないが、うめがなにやら激しい口調で相手をなじっている。
やがて、近づいてきた琴たちに気付くと、うめは男の胸板を突き飛ばして追い返してしまった。
「今のは…?」
琴は男の後姿を眼で追いながら聞いた。
「ただのヤクザもんさ。あんたらには関係ないよ!さっさと飯の支度でもしな」
うめが奥へ引っ込んでしまうと、亀は、まだ男を眺めている琴に寄り添った。
「今の人、二本差しだった。ヤクザ者には見えなかったけど…」
「そうね」
琴は、踵を返したうめの瞳がうっすらと潤んでいた理由を考えていた。
昼の八つ半頃、琴は意外な場所でもう一度その男に出くわした。
引き手茶屋に瀬川の客を迎えに来た琴は、待合辻を一本入った裏路地から聞き覚えのある声に足を止めた。
「いや、こうしてまた、あんたに会えるとはねえ」
声の主は、琴たちをこの町に連れてきた女衒、近江屋三八だった。
最初、声をかけられたのは自分だと思ったが、どうやら別の相手と喋っている様子だ。
「お互い、あの頃は羽振りがよかったもんだが…」
三八は、あの薄気味悪い目付きで、愛想笑いを浮かべている。
琴は、相手が先刻の男だと気付くと、二人が立っている路地には折れず、曲がり角の手前で、小さな出格子の陰に身体を張りつけた。
相手の男は先ほどからずっと黙ったままだ。
「ほら、昔品川の宿場に出入りしてた長五郎てぇチンピラがいたでしょ?アレが今じゃ清水で一家を構えたらしいですよ。まったく、いつの間にやら随分差をつけられちまったねえ」
「昔話をするために、俺に声をかけたわけじゃあるまい。さっさと用件を済ませてくれ」
男がようやく口を開いた。
「ご存知かも知れませんが、繁蔵の奴が、笹川に舞い戻って来ましてね」
三八の声が急に真剣味を帯びる。
「それを聞きつけた奴の子分どもが、またぞろ集まりだしてる。飯岡の親分の心労は如何ばかりか、察するに余りありますな」
「俺には、もう関係ない話だ」
「あんた、ここに来る前に上総屋に寄ったでしょう?あんたと仲の良かった政吉さんのおっ母さんに会ってたんじゃないですかい」
耳をそばだてていた琴は、少し眼を見開いた。
「何が言いたい?」
男の声が気色ばんだ。
「繁蔵は三年前、利根川で政吉さんを殺った連中の首領だ。その場にいたあんたにも、因縁浅からぬ相手でしょうが?」
「もう、あんな血生臭い仕事はごめんだ」
「しかし、早いうちに諍いの芽を摘んどかねえと、利根川の出入りの二の舞だ。今度は、もっと血が流れるかもしれません。それじゃあ、政吉さんも浮かばれねえな」
「貴様、女衒のくせに渡世に首を突っ込んで、今度は人斬りの仲買か!」
襟首でも締め上げられたのか、三八の息遣いが荒くなった。
「そ、そんなんじゃあないんです。飯岡一家も今、腕の立つのが要り用らしくてね。なんでも、政吉さんが死んでからこっち、親分と座頭市の旦那がしっくりいってないようで。あたしゃ商売柄、あちこち裏街道を渡り歩いておりますから、使えそうな若いもんがいたら、声をかけて、出来るもんなら引っ張ってこいと仰せつかってる次第です。こういう生業のあたしが、土地の親分さんの頼みを、無下にできるわけないでしょう?その点、法神流免許皆伝の中沢様なら、客分として気心も知れてるし、腕の方も、市の旦那と遜色ねえ」
「とにかく、今の俺には堅気の仕事がある。今さら、客分に戻るつもりは…」
「あんたも本心では政吉さんの仇を討ちたいと思ってるはずさ。 じゃなきゃあ、なんで未練がましく残されたおっ母さんを訪ねるんです?」
中沢と呼ばれた男は押し黙ったが、琴からは男の表情まで見ることはできない。
彼が何を思っているかは、推し量れなかった。
「とにかく、こんなとこで立ち話もなんだ。どうです、一杯?」
三八の一言で、琴は、その場をそっと離れた。




